教育ドラマの風評被害(SSKシリーズ19)
埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。
【2013年9月発表】
私はほとんどテレビを見ないので知らなかったのですが、少し前に「35歳の高校生」というドラマがあって、けっこう視聴率が高かったそうですね。大学のゼミ学生から聞きました。このドラマの中に、高校教師がビルの屋上から飛び降り自殺し、「現代の高校は教育現場などではない。敗者になった者には人権すら認められない。今の高校は地獄そのものだ」という遺書を残した場面があったとか。前後の文脈がわからないので確実なことは言えませんが、こういうセリフを安易に書き込む脚本家って、「教育現場」なるものをどれくらい調べたのでしょう。
これと前後した時期に朝日新聞の意識調査があり、「高校生活が楽しい」と答えた生徒が9割近くいたそうです。9割ってほとんど全員ということですよ。しかもこの割合は過去最高とか。
私はドラマの表現に疑問を感じたので、ゼミ学生たちに、君たち、高校生活どうだった? と聞いてみたところ、大半が楽しかったと答えました。「今の高校は地獄そのもの」という表現となんと乖離していることでしょう。
ある特定の現場状況の中で、必死で努力したのに報われず、絶望して自殺する熱血教師が出てきたとしても、それ自体は個別現象ですから、別に不思議はないでしょう(まれでしょうが)。まあ、ドラマは誇張しないとドラマにならないのでその点については寛容になるとしても、しかし「地獄そのもの」はあんまりなんじゃないの。皮肉をかませるなら、その教師の教育に対する過剰な思い入れが自ら悲劇を招きよせたのかもしれませんね。大人の対応ができなかったのかも。
私は、意識調査結果をそのまま鵜呑みにして、今の高校には問題はないなどと言いたいのではありません。「楽しい」と言ったって悩みがなかったことにはならないし、嫌なこともいっぱいあったに決まっているし、「楽しさ」が高校教育の「正しさ」を証明するわけでもありません。また意識調査も個別事情を捨象したメディア表現なのでそんなに信用できないという見方も可能です。
でもなんでしょうね。この極端な差。一般的に教師の「人権」は他業種に比べて相当保障されているし、生徒は大人社会の厳しさから免除されているので、適当に学校生活を過ごしていれば平均的には「楽しい」はずです。しかも特定の子どもが「敗者」のレッテルを張られることに対して戦後教育は過敏なほどに神経を使ってきました。
この種のドラマの致命的な欠陥は、その扱う世界がいま大体どんなふうかということをきちんと感性的にとらえずに、初めから学校全体を「社会問題」として頭でとらえて、そこにもっぱら否定的なバイアスをかけて見ている点です。いじめ自殺などが大騒ぎになったので、テレビ局もこれは受けると踏んだのでしょうね。
メディアが大騒ぎのもとを作り、その大騒ぎをまたメディアが利用して、教育に対する単純な反体制理念をお茶の間に流す。お茶の間の視聴者はドラマ表現を見て「これが教育の現実」と思い込むクセがあります。そこにつけ込む脚本家、テレビ局はたいへん質が悪くレベルが低い。これを風評被害と言います。
埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。
【2013年9月発表】
私はほとんどテレビを見ないので知らなかったのですが、少し前に「35歳の高校生」というドラマがあって、けっこう視聴率が高かったそうですね。大学のゼミ学生から聞きました。このドラマの中に、高校教師がビルの屋上から飛び降り自殺し、「現代の高校は教育現場などではない。敗者になった者には人権すら認められない。今の高校は地獄そのものだ」という遺書を残した場面があったとか。前後の文脈がわからないので確実なことは言えませんが、こういうセリフを安易に書き込む脚本家って、「教育現場」なるものをどれくらい調べたのでしょう。
これと前後した時期に朝日新聞の意識調査があり、「高校生活が楽しい」と答えた生徒が9割近くいたそうです。9割ってほとんど全員ということですよ。しかもこの割合は過去最高とか。
私はドラマの表現に疑問を感じたので、ゼミ学生たちに、君たち、高校生活どうだった? と聞いてみたところ、大半が楽しかったと答えました。「今の高校は地獄そのもの」という表現となんと乖離していることでしょう。
ある特定の現場状況の中で、必死で努力したのに報われず、絶望して自殺する熱血教師が出てきたとしても、それ自体は個別現象ですから、別に不思議はないでしょう(まれでしょうが)。まあ、ドラマは誇張しないとドラマにならないのでその点については寛容になるとしても、しかし「地獄そのもの」はあんまりなんじゃないの。皮肉をかませるなら、その教師の教育に対する過剰な思い入れが自ら悲劇を招きよせたのかもしれませんね。大人の対応ができなかったのかも。
私は、意識調査結果をそのまま鵜呑みにして、今の高校には問題はないなどと言いたいのではありません。「楽しい」と言ったって悩みがなかったことにはならないし、嫌なこともいっぱいあったに決まっているし、「楽しさ」が高校教育の「正しさ」を証明するわけでもありません。また意識調査も個別事情を捨象したメディア表現なのでそんなに信用できないという見方も可能です。
でもなんでしょうね。この極端な差。一般的に教師の「人権」は他業種に比べて相当保障されているし、生徒は大人社会の厳しさから免除されているので、適当に学校生活を過ごしていれば平均的には「楽しい」はずです。しかも特定の子どもが「敗者」のレッテルを張られることに対して戦後教育は過敏なほどに神経を使ってきました。
この種のドラマの致命的な欠陥は、その扱う世界がいま大体どんなふうかということをきちんと感性的にとらえずに、初めから学校全体を「社会問題」として頭でとらえて、そこにもっぱら否定的なバイアスをかけて見ている点です。いじめ自殺などが大騒ぎになったので、テレビ局もこれは受けると踏んだのでしょうね。
メディアが大騒ぎのもとを作り、その大騒ぎをまたメディアが利用して、教育に対する単純な反体制理念をお茶の間に流す。お茶の間の視聴者はドラマ表現を見て「これが教育の現実」と思い込むクセがあります。そこにつけ込む脚本家、テレビ局はたいへん質が悪くレベルが低い。これを風評被害と言います。
私は丁度、このドラマを見ていたのですが、製作者側が何かしらのメッセージを公に発信しようとする意図は分かったのですが、1クールということもあってか消化不良という感じでした。
近年では変わり種を狙ってか、刑事ドラマや医療ドラマ、深夜アニメでも何か政治的メッセージめいたことを伝えようとする作品が多いように感じます。しかし、そういった製作者側の意図が逆にその作品自体を矮小化、幼稚化し、作品の娯楽性も欠いているように感じてしまいます。さっきまで、コメディだったのに、いきなりシリアスになったりする現象をネット住民やオタクは「謎シリアス」と呼んでいたりますが、私としては馬鹿馬鹿しいと笑って観れ、しかし、作品の全体に何とも言えない虚無感、絶望感を味わえるような作品がもう少し増えたらなと愚考したりしてしまいます。(増えすぎると困りますが)
この脚本家の頭の中には、ただストーリー展開上の都合しかなかったんでしょうね。小浜先生がわざわざこれを取り上げられるとは、ほとんど鶏を割くに牛刀という気がします(笑)。
先生ご指摘のとおり、八十年代当時の「受験地獄」は日本人の過剰な平等志向の産物だったわけですが、高校はおろか大学全入の時代を迎えて、少年少女にかかるプレッシャーはかつてより軽くなりこそすれ重くなってはいないでしょうから、学校生活が「まずまず楽しかった」というのが彼らの平均的な認識であったとしても、何ら不自然ではないはずです。
日本の教師の「人権」についても、生活苦の水準にあるという米国教師の低収入ぶりなどと比較すれば、かなり恵まれた状況にあることは間違いないでしょう。
話が脱線して恐縮ですが、最近、必要あって西尾幹二さんの『日本の教育 智恵と矛盾』を読み返しています。再読してみて、八十年代に数多発表された教育論の中にあって、やはり小浜先生の諸著作と並ぶ記念碑的な業績だとの思いを強くしました。
日本における学歴重視の風潮が、企業の終身雇用・新卒一括採用という労働慣行の産物であることの分析、当時の臨教審の新自由主義的教育改革案への批判もさることながら、今読んで驚かされるのは、M・フリードマンとI・イリイチの教育思想がその反国家的志向において同根であることを、八十年代半ばの時点で正しく指摘していることです。
「極右」の市場原理主義者フリードマンと、「極左」の反市場主義者イリイチとが、実はそのアナーキーな思考において共通しているという逆説、こうした思想上の「ねじれ」もまた、教育論を不毛の大地にしてきた一つの遠因であったろうと思います。
ひとりテレビ界のみならず、日本の論壇・マスコミの教育論議においては、小浜先生や西尾さんが八十年代にとうに指摘していた基本的な事実についてさえ、いまだ十分に認識されていないのではないでしょうか。こうした荒唐無稽なドラマが平然と放映されている現状に鑑みると、そう思えてなりません。
テレビドラマの教育ものは、「金八」以来、一貫して変わっていないことがわかりますね。熱血教師の単なる情熱過多を「正義」の理念として立てるという、現実無視のパターン。視聴者が白けてあいそをつかせてくれるといいのですが……。
西尾幹二さんの教育論については、当時、生意気にも批判したことがあります(笑)。主として、健全な競争(アゴーン)を推奨していながら、未成年を競争から解放したいという悲願を吐露していられるのに矛盾を感じたこと、それと、やはり初等、中等教育への現実的視点が不足している(「上を変えれば下も変わる」という主張)点についてでした。結果的に、度量の広い西尾さんとの間に好ましい関係を結ぶことができたのですが。
ご指摘の点、「M・フリードマンとI・イリイチの教育思想がその反国家的志向において同根であることを、八十年代半ばの時点で正しく指摘している」については、不覚にして見過ごしていました。イリイチの脱学校論に対しては、私も「これはダメだ」と思っていましたけれど。
そこに気づいていれば、西尾さんへの共感もさらに深まったと思います。
およそ原理主義的思考は、教育論に限らず、不毛なアナーキーに行きついて、歴史的文化風土をむしばむ結果になるというのは、いまの新自由主義(市場原理主義)にも当てはまりますね。
ではまた。