小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源42

2014年08月18日 22時03分52秒 | 哲学
倫理の起源42



 さて父性、母性を考えるにあたっては、もう一つ、最も重要な自然的性差についても語らなくてはならない。それは女性が子を産む性であるという端的な事実である。
 この事実は、古来、男性に一種の驚きと神秘の感覚をもたらしてきた。この感覚は、禁忌と崇拝と怖れと穢れとが複雑に絡み合った意識を構成する。オルフェウス神話でも古事記のイザナキ、イザナミ神話でも、死んで冥府に行くのは女性であり、それを慕って行った男性は、「後ろを振り返ってはならない」という禁を破ったために相方と別れなくてはならない。木下順二の戯曲「夕鶴」の出典として名高い民話「鶴女房」でも、男が、機織りの場面を見てはいけないという禁を破ったために、女人は去ってしまう。
 この「神話・民話」に共通してみられるパターンは、女が死んで穢れてしまっているか、死の瀬戸際にまで追いつめられるような過酷な体験をしていること、その期間から日常に帰るまでの間、男は女の姿を見ることを許されていないこと、そうして、その禁は必ず破られ、そのために男は女を失うこと、である。男の穢れを女が覗いてしまうといった逆のパターンはまず考えられない。
 ここに象徴されているのは、明らかに、出産という、女性にとって命がけの行為(イザナミでは、じっさい火の神を生んだために女陰に火傷を負って死んでしまう)が、男性のエロス感情を致命的に傷つけるほど壮絶な(醜い、見にくい)光景であるために、その光景をお互いに共有してはならないという感覚である。女性は、その苦しくもあられもない姿を男の視線から遮断することによって、子を産んだ後も男に対する「女」としての価値を回復することができる。男もまた、この「畏れ多い」秘事が終わったのちも彼女が「女」として復帰してほしいと願っている。もっとも、女を孕ませて平気で捨ててしまう男もなかにはいるが、私がここで問題にしているのは、男性性一般が女性性一般に対してどういう傾きをもっているかという話である。
 しかし同時に、女性が男にはけっして味わえない過酷さを通して「母」になるという事実は、「自分の子どもを得た」という感動が(妊娠期間も含めて)生々しい身体体験と地続きで発生することを示している。象徴的な言い方をすれば、女性は出産において、自分の生命の何分の一かを失うことによって、新しい生命を得るのである。この「分身性」こそが、母性的人倫の原型的な質を規定する。身一つであったものが二つに分かれたという体験を媒介として、その分身を「包容=抱擁」せずにはいられないという情念が形成される。この情念が母性的人倫の原型となるのである。
 そこに先に述べた女性性の特質が重ね描きされる。
 つまり、母性的人倫は、「誰がなんと言おうと、何が降りかかろうと、私の産んだこの子(たち)だけを、命をかけて守り育てる」という特殊性、個別性において成立する。母親である彼女にとって、客観的な状況への配慮は、あまり視野に入らないし、また入れる必要もない。
 この特質が一般社会(たとえば教育機関)との関係であまりほめられないあらわれ方をすると、「母親のエゴイズム」と呼ばれる。しかし、それはそれぞれの母親の性格や置かれた環境条件などから出てくる形だから、それだけをあげつらって「母親エゴイズム」批判をしてもあまり意味はない。逆にその同じ特性が、逆境にあってもくじけずに、信じられないくらいの力を発揮して、立派に子どもを育て上げるという事例をも生むのである。

 いっぽう男性は、女性の妊娠・出産の期間、多かれ少なかれ、相手との同一化の欲求から隔てられなくてはならない。そうして、彼が「父親」と呼ばれる存在となるのは、彼が自分との共同生活の延長上で相手が子を孕んだことを彼自身が承認する限りでのことである(くどいようだが、生物学的にそうであるかどうかは問題ではない)。また、女性は妊娠期間中からすでに自分が「母」であることを体感することができるが、男性はその同じ期間に「父」であることを体感することはできない。そこには、「父」であることの身体的実感が欠落している。また子どもができてからの接触体験のなかで初めて父親としての自覚が訪れるという、女性とのタイムラグが存在する。この二つの差異は、母性、父性を考えるにあたって決定的である。
 しかしそれでは、父性は母性に比べて、何か強度の点で弱いものだとか、作り物めいていて、本当はそんなものはないのだと決めつけられるかといえば、それもまた間違いである。逆に、人倫としての父性は、この体感の欠落と時間的な遅れを否定的な媒介としてこそ、その固有の特質を獲得するのである。
 手短に言えば、もともと人間の社会とは約束事の体系であって、この約束事の体系は、それぞれの人間がいつも同時に一つの心、一つの振る舞いをなすわけにはいかないという事実を繰り込んだところに初めて成立する。人倫の場合もそれは同じで、私たちは、互いの身体の不一致や生きる時間のずれをよく自覚しているからこそ、「こうした方がよい」とか「こうすべきだ」とか「こうしなくてはならない」といった観念を育てることができるのである。
 父性的人倫について言えば、母親よりもより遅れて、しかも体感できない形で父親となった彼は、まさにそのことを繰り込むことによって、「ならば俺はこういう仕方で責任を担おう」という自覚を育てるのである。
 その時、父性的人倫の特質は、先に述べた男性性の特質と重ね描きされて、次のような形をとるであろう。
 彼は、人間どうしが対立するもの、容易には融和しえないものであるという理解を前提として社会意識を構成しているので、養育を通してその社会観を子どもに植え付けていくことになる。ルール感覚、人生の厳しさの認識、状況をよく読み取り、バラバラなものを総合する力、重要な課題に対する意志力などを養うのが父性の特質である。いわばエロス的関係の陥りがちな自閉性を、社会的関係に向って開いていく役割といえるだろう
 この特質もまた、場合によって、人情をわきまえない一種の教条主義的な態度や、不必要な厳格主義として、あまりほめられない形で現れることがある。家族は別に、単なる道徳共同体や一般社会構成の単位なのではなく、エロス的共同体(情緒を共有する運命共同体)の側面を持っているので、そこでは、一緒に戯れて遊ぶ空間、メンバーにとっての息つぎ、憩い、和らぎの場所といった生活要素が忘れられてはならない。しかしまた、それに対立する部分だけを取り出して、「父性」概念そのものの意義を否定してしまうのも行き過ぎである。社会的な自立という課題は、すべての未熟な人間存在にとって不可欠なものだからである。
 以上で母性的人倫と父性的人倫の違い、その違いのよって来る根拠について説明したが、家族倫理がまともな形で機能するためには、これら両性の人倫性がバランスよくかみ合うことが必要であるという点については、あまり多言を要さないであろう。


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2 コメント

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Unknown (追伸)
2014-08-20 09:42:35
もしも男と女の違いをいうのなら、生き物の雌雄の仕組みはどうなっているのだろうというところから問うしかない。男と女が惹かれ合い選択し合う、という仕組みなら、限られた組み合わせしか起きません。できるだけ多くの雌雄で交配が起きるためには、オスが逃げるメスにけんめいに寄ってゆき、メスは根負けしてやらせてあげる、というかたちが最も効率的なのです。生き物の雌雄はそうやって進化してきたのであり、人間だって基本的にはそういう関係になっている。猿は進化してそこからちょっと逸脱してしまっているが、人間はその根源に遡行した生態を持っている。メスは逃げる存在だからこそ、オスはけんめいに追いかける。オスはけんめいに追いかける存在だからこそ、メスは逃げる存在になる。かんたんにメスがつかまえられるのなら、広範な交配にはなってゆかないし、追いかける衝動も退化してゆく。
逃げる存在である女は、どこかしらに生きてあることに対する幻滅を持っている。それがふとしたはずみで子育て放棄の衝動になり、子育てノイローゼを引き起こす。最初から、女は一所懸命子育てする存在だと決めてかかられたらたまりません。いいかえれば、現在の子育て放棄や子育てノイローゼは、父性や母性を問わなかった人類の歴史の無意識が今でも誰の中にも残っているということかもしれません。
原始人は、川の水に尻を浸すなどして平気で堕胎していたし、間引きということも、ついこのあいだまで暗黙のうちに許されてきた。起源とそしての倫理は、母性を問わないことが倫理だったのです。堕胎は、現在でも許されている。不妊手術というのもある。それは、「母性を問わない」という倫理でしょう。それが、人類社会の根源の倫理なのです。
現代社会では、子供の死をいつまでも引きずって精神を病んでしまう母親がとても多い。それは「母性」という制度が強く機能している社会だからでしょう。自分の中の母性に対する思い込みの強さが、そういう病理を招く。
女の子はなぜままごとなどの止まっているもので遊ぼうとし、男の子はなぜ動くものに興味を示すのか。これだって、雌雄の仕組みの問題でしょう。女は自分の体にまとわりついているものを引きはがそうとする衝動を持っていて、それが「逃げる」という生態にもなっている。そして男の子の動くものに対する興味は、逃げるメスを追いかけようとする衝動でもある。たぶん生き物としての命の働きの平衡状態という基準値があって、女の命の働きはそこから過剰になっていて、男は欠損しているのでしょうね。
女は、自分にまとわりついているものを引きはがすようにして子供育てる。だから子育て放棄も起きるし、むやみにかまい過ぎたりもする。気になってしょうがないから突き放そうととするし、子育てノイローゼになったりもするし、子供に死なれた悲嘆からいつまでたっても立ち直れなくなってしまったりもする。それはあくまで、母性ではなく、女の習性でしょう。

僕はもう、現代社会の善良な市民が父性や母性の論理を振り回すのは、ほんとに無神経で残酷でたちが悪いことだと思っています。
あなたは前回の記事で「現代社会が抱えている思想課題に対する真剣な問題意識をもった私」と見得を切られました。
とすればここで「父性・母性」の問題を出しておられるのは、「われわれはドメスティックバイオレンスをはじめとする現代社会の家族の崩壊をどう克服するか」という思想課題の上に立ったことだろうと推測します。
そこで、この問題の象徴的な事件といえば、数年前の大阪で起こった、風俗嬢の若い母親が二人の小さな子供をマンションの部屋に閉じ込めて放りっぱなしにしたまま餓死させてしまった、という事件が想起されます。
「ネグレクト」という言葉が流行りました。そして「女の母性」という概念を信じた人びとは時には「鬼女」などと言って糾弾しました。男に多かったです。
そして意外に多くの主婦が、「悲しいことだけど、犯人だけを責めることもできない」という反応をし、事件のあったマンションの前には捧げものの山ができました。
主婦たちは言う。誰だって「何もかもどうでもいい」と思ってしまう瞬間はある、私だってもし彼女の立場だったらそうなっていたかもしれない、と。
子育てノイローゼというのは、けっして珍しいことではないでしょう。母性を自覚していたらなるはずがない、という理屈は成り立たない。その母性という言葉に追いつめられてノイローゼになってゆくのです。
犯人の女性だって、最初はひといちばい母性に邁進して子育てをしていました。それが、どうして反転してしまったのか。もともと母性などというものは女の本性ではなく社会的な制度によってもたらされた概念に過ぎないから、邁進できる環境を失ったらそのまま消えてなくなってしまう危険がつねについてまわっている、と言うことでしょう。何のかのといっても人類は、母性を問わない歴史を歩んできたのです。
「生きてあることの幻滅」も女の本性のひとつであり、それによって何かのはずみで「何もかもどうでもいい」という感慨に浸されてしまう。
あなたたち善意の市民が「母性」という概念の価値・効用を合唱していることが、彼女を追いつめた。多くのDVが、父性・母性を振りかざすようにして起きている。ほとんどの犯人が「子供のためを思ってそうした」と供述をしている。

いずれにせよ、人間社会の集団性の倫理は、根源的には父性や母性を問わないことの上に成り立っている。これだけでは言葉足らずかもしれないけど、まあ僕だって「現代社会が抱えている思想課題」の問題としてそういいたいわけです。父性や母性を振りかざす善良な市民意識が、この社会の多くの父親や母親を追いつめている。おそらく父性や母性といい制度をどう克服してゆくかが、「現代社会が抱えている思想課題」であるのでしょう。
この社会における父性や母性は、ひとまず子供をよりよく育てるための装置として機能している。ただ生かすだけではすまない。よりよく育てなければならない。そうしないと、社会の動きから振り落とされてしまう。昔は、百姓の子は百姓に、武士の子は武士の子に、商人の子は商人にと、おおむね人生が決まっていたから、ただ生かすだけでよかったし、そのためなら育てるのは誰でもよかった。しかしそういうシステムが崩壊した現代社会では、競争に生き残る能力を身につけさせないといけない。そのためには、父性や母性で囲い込んできめ細かくケアしてゆかないといけない。そんな世の中になってしまっている。
幸せであれ不幸であれ、みんな、そういう社会の構造に追いつめられて家族生活をいとなんでいる。誰もが、父性や母性という制度的な概念から追いつめられている。
子供をよりよく育てようとすることは、子供がよりよく育っていることの満足はあっても、だからこそ子供が生きてあることそれ自体に対する感動は希薄になってしまう。そうしてよりよく育っていないことに苛立ち悩んでDV を引き起こしたりする。
この世でいちばん弱い立場のお母さんが子供をどのようにして育てているかといえば、子供がよりよく育っているかどうかということ以前に、子供と一緒に生きているというのが思いの中心でしょう。それは、母としての感慨じゃない。ひとりの人間としての感慨でしょう。母は母であるのだが、むやみに母性など問わないのが起源としての人間社会の倫理だった。
この社会で父性や母性が称揚されていることが、この社会をどれほど窮屈なものにしていることか。それを問うと社会集団がぎくしゃくしたものになってしまうということを昔は誰もが本能的に感じていたが、いまやもうそれを問わないと社会が成り立たなくなってきている。父性だとか母性だとか、そんなのものは善良な市民のナルシズムに過ぎないのだが、善良な市民の世の中だからしょうがない。

ひとまず、問題提起させていただきます。
前回の「空き地」という人のように「公開処刑」していただいてかまいません。
ここは、雑魚を「公開処刑」してみんなで面白がるコミュニティなんでしょう?
僕の場合は雑魚よりももっと雑魚だから相手にしないというわけですか。教育者というのは、そういう人種なのですか。それなりに言葉を尽くして問うてきたら、たとえ小学生が相手でも「そうじゃないんだよ」と説明してやる宿命を負っているのが教育者なのだろうと思っていました。あなたのように無視してくるか、美津島氏のようにいきなり一方的に悪態をついてくるか、そのどちらかの態度をとるのが教育者のたしなみなのですか。美津島氏に関してはもう「こんなアホを相手にしてもしょうがない」と思ったからいいけど、あなたも同じレベルだというわけではないでしょう。
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Unknown (たびたび失礼します。)
2014-08-20 09:41:39
この記事のタイトルは、「倫理の起源」です。
では、人類の倫理は、いつごろからどのようにして生まれてきたのでしょうか?
おそらくそのような規範を意識しだしたのは、人類の集団の規模が猿として限界を超えて膨らんできたことによるのでしょう。それによって人と人の関係がややこしくなり、密集状態の息苦しさも耐え難いものになっていった。そこのところをやりくりする機能として暗黙の倫理が生まれてきた。
人類の集団の規模はなぜ猿として限界を超えて膨らんできたのか?
洞窟などを住処として定住していったからということがあるでしょう。そして氷河期の極北の地ではできるだけたくさんの個体が寄り集まっていたほうが寒さを防げるし、もとより個人では生存できなかった。しかしそこでは乳幼児の半数以上が死んでゆき、大人だって明日も生きてある保証はなかった。しかしそのとき人類は、死んでゆく者の数以上の赤ん坊を産みながら生き残っていった。そういう状況でどのような倫理が生まれてくるかといえば、まず生き残る競争をしないということであり、他者が生きてあることによってはじめて自分の生存が可能になる。何がなんでも他者を生かそうとする社会だった。その衝動が極まれば、もっとも弱いものをなんとか生かそうとするようになってゆく。たとえば、食い物は、弱いものから順番に食っていった。もっとも弱いものを生かそうとすること、おそらくこれが倫理の起源です。「介護」という行為は、10万年前、あるいは20万年前のネアンデルタールの時代からなされていました。
氷河期の北ヨーロッパのネアンデルタール人の体質的な生存能力は、ほかの動物よりもはるかに低かったのです。彼らは、もっとも弱いものを生かそうとすることによってかろうじて生き残っていった。その衝動があるからこそ、積極的に赤ん坊を産んでゆくことができる。そうして氷河期が明けて生存率が高くなると、そのもっとも弱いものを生かそうとする生態とともに、人口は爆発的に増えていった。

人間集団の基礎になっている倫理は、最も弱いものを生かそうとすることにあります。
しかしあなたがここでおっしゃっている父性の倫理は、集団内での競争に勝ち残ってゆく子を育てるということでしょう。それは、起源としての倫理ではない。現代社会の核家族の問題です。
昔は大家族だったから、父性や母性の影響力はそれほど大きいものでもなかった。祖父母やおじさんおばさんも同居していたし、女中や下男のいる家もあったし、貧乏人の家でもきょうだいみんなで下の子を守して育てていた。子供を育てるのは、必ずしも両親ではなかった。
このことが何を意味するのか?
父性や母性を問わないことが家族の倫理だったのです。

昔の「若衆宿」という習俗は、何のためにあったのか?
社会に出てゆくための通過儀礼の場だったのでしょう。つまり、家族(=父性)によっては、社会性は身につかない、ということです。村という社会は「人間どうしが対立するもの、容易には融和しえないものであるという理解を前提として社会意識を構成している」場ではないのです。ひとまず、「容易に融和し合えるものである」という前提で、できるだけなあなあでやってゆこうとする場だった。たとえ大人たちと対立しても若者どうしはなあなあの関係になれる場として若衆宿があった。つまり彼らは、そうやってひとまず父性をを否定しながら社会性を身につけていったのです。彼らにとって若衆宿は、他愛なくときめきあい信頼しあえる場だった。通過儀礼としてその体験をしていなければ村の運営なんか成り立たなかった。
人は、家族の外に出ることによって、他愛なくときめきあい信頼しあえる友情や恋に目覚めてゆく。現代社会だって、そういう人と人の関係に対する信憑が基礎になければ成り立たないでしょう。そういう基礎は、父性や母性によって与えられるのではない。父性や母性の外に出ることによって体験してゆく。現代社会がひとまず「容易に融和しえないもの」であるとしても、それでも人間社会の基礎は、他愛なくときめき合い信頼し合いながら「最も弱いものを生かす」という倫理を持っているのではないでしょうか。

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