小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源43

2014年08月22日 09時11分40秒 | 哲学
倫理の起源43




 次に、子どもの立場から親に向っての人倫性という概念が成り立つとしたら、それはどんな特性をもつのかを論じよう。
 このテーマは、現代家族のなかでは、一見あまり重要な問題を提起しないように思える。それは、現代の先進文明社会では、子どもの生活が保護と教育というイデオロギーや社会制度にあまりに囲い込まれているために、子どもを責任ある存在として見なさない無意識の感覚に私たちが捉えられているからである。子どもは未熟な存在であり、大人が最大限の力を注いで守り育ててやらなくてはならない存在である。よって彼はその保護と教育に助けられて自由に個性を伸ばしていくべきである――こういう子ども観が支配的となっている。
 しかし、ほんの少し歴史をさかのぼってみれば、子どもは親に孝を尽くさなくてはならないというのは、子どもに第一に叩き込まれた道徳命題だったことが確認できる。かつては孝を尽くしたことを示す「美談」には事欠かなかったし、逆に「親の恩」を忘却した振る舞いが最高度の非難に値したというのが一般的だった。刑法では、数十年前まで尊属殺人が最も重い刑とみなされていた。
 ここでは、もちろんそうした道徳の荒廃を嘆いたり、その復活を提唱したりしようというのではない。社会体制が大きく変化したことにはそれなりの必然があるので、そんなことにはほとんど意味がない。
 考えるべきなのは、そのように親子の身分関係が明瞭だった伝統社会から、子どもであっても個人としてその自由をできるかぎり尊重する現代社会へというように時代が移っても、親子関係というモードのうちに、親に対する子どもの人倫性が共通普遍の精神として存在しているのではないかどうかを確認することである。そしてもし存在しているとすれば、それはこの関係のモードのどのような特性によっているのかを説くことである。
 ふつう、この問題は、育ててくれた親に対する恩返しという観念で語られがちである。しかしこの観念のうちには、いくつもの無理がはたらいている。
 第一に、幼い子どもは自分が育てられている事実について、恩恵を被っているという自覚を持つことができない。両親は彼にとってけっして「恩」をもたらしてくれる存在ではなく、むしろ自分の存在条件そのものである。彼は自分で選んだわけではない家族環境を自然的な宿命として生きざるを得ない。したがってこの養育された経験を「恩」として対象化するためには、彼が親から自立して親の養育の苦労を自分自身の経験や想像力によって捉えなおすだけの時間が必要である――「子を持って知る親の恩」。要するに未熟な子どもであるままで、親に「恩」を感じろというのは、不条理な要求なのである。
 また第二に、家族生活は裸の人格が交錯する世界であるから、たとえ親が自分の子どもを熱意と善意で養育したとしても、そのやり方次第で、当の子どもはそれを「ありがたいこと、うれしいこと」として受け取らない可能性がいくらでもある。まして子どもをぞんざいに扱う親、スポイルする親はたくさんいる。親子関係はまさに「恩讐」の世界なのであって、子どもは自分の親を多かれ少なかれ、そのようなアンビヴァレントな相の下に捉えざるを得ない。そういう複雑な感情を親に対していささかも持たない子どもというのはまず存在しないだろう。
 さらに第三に、この世に生を受け、養育されることによって避けようもなく生の過程を歩んでしまうという事実が、それ自体として「感謝」に値するなどという論理はもともと成り立たない。なぜならば、生の反対は「未生」あるいは「死」であり、「未生」や「死」と生とを比較考量しようと思っても判断する基準がないからである。ある人やある環境に感謝するという時、それはどこまでも生きている実感の範囲内で、他のありえたかもしれない生との比較の上に成り立つ感情である。
 もちろん、ある人が自分の生の枠内で幸福感や達成感を感じ、自分の今日あるは親のおかげというように、その原因を親の良き養育に帰することはありうる。しかしそれはあくまで個別的な事例に即して言えることであって、親であること一般が生まれてきた子どもの感謝に値するなどということは、論理として成り立たないのである。
 するとどういうことになるだろうか。

 親に対する子どもの人倫感覚の内実を考えるにあたっては、大ざっぱに言って、子どもが未熟である(親を頼りにしている)段階にある場合と、大人になってから、育てられた過程を振り返って来し方を位置づけなおす場合とに分ける必要があるだろう。
 前者について。
 落語に「子別れ」という有名な演目がある。飲んだくれて仕事もしなくなった大工の熊公。これに愛想をつかして子連れで家を出たおかみさん。熊公はこれ幸いと花魁を女房にするがたちまち破綻し、それを機に心を入れ替えて酒を断ち、仕事に打ち込んで三年。立派に蘇生した熊は、別れた子どもに偶然出会う。その縁から翌日、うなぎ屋の二階でおかみさんとの復縁がたちまち成るという人情話だが、この復縁の実現になくてはならない「かすがい」の役割を果たすのが、九歳(満年齢)になった子どもである。貧しい母子家庭で苦労したために年よりもませていて大人の感情をよく見抜くほどに成長しているが、しかし、やっぱり未熟な可愛いところを残している。

古今亭志ん朝 子別れ


 この例は、所詮「噺」なので多分に誇張されている点は否めないが、しかしこのくらいの年齢の子どもがどういう気持ちで親を見ているかという視点が非常によく保存されている。先に私自身の例を出したように、この年頃の子どもは、親の不和を何とかなだめたいと小さな胸で真剣に悩んでいる。それはもちろん、自分の存在が危うくなることを直感しているからだが、その気持ちは、そのまま幼い子どもの人倫感覚に通ずるものである。親が仲良く楽しくしていてくれること、そうあるべきこと、それが家族全体の幸福への道であること、それを子どもはよくわきまえているし、親に対して無言のうちにそれを要求している。
 次に後者、大人になってから来し方を位置づけなおす場合について。
 この場合の人倫性がどのように成り立つのかを一言で言えば、たまたまこうでしかありえなかったという「縁」の成り行きを、宿命的なものとして引き受ける「気概と胆力と意志」が根拠となっているのである。繰り返すが、恩を感じるとか感謝するとか親を愛しているというような感情がその出発点なのではない。そういう感情の存在を自明視すると、成育史のなかでその種のものを感じることができなかった人々は、自分がおかしいのではないか、悪いのではないかと、不必要に悩むようになる。押しつけがましい親孝行道徳が侵入してくるのである。
 前に述べたように、家族はそれぞれの命を看取りあう運命共同体である。しかし個体の生命はそれぞれ有限で世代差があるから、この「運命」が一つに合致している期間というのは限られている。そこで後続世代(子ども)は、先行世代(親)との生活の共同の経験によって得られた同族意識を梃子として、先行世代の命のゆくたてに対する特別の関心を持たざるを得なくなる。これは何も親の衰えに際して介護するというような場合に限らない。離れて暮らしていても、日常生活の意識の中に、親のことを「気にする」という心情がすでに組み込まれているのである。
 たとえば、結婚に際して、「日本国憲法」に規定されているような「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」などということは、駆け落ちでもするのでない限り現実的にはありえない。まず双方がそれぞれの親に婚約者を紹介し、そうして家族に列席してもらって結婚式を挙げるのがふつうである。成文法に書かれていないこのようなごく当たり前の習俗のなかに、親に対する子どもの人倫性が生きているのである。
 またたとえば、新しい友人関係や異性関係が生じてかなり親しくなった場合、それぞれの出自や家族関係について情報を交換し合うようになる成り行きもごく自然のことである。相手をよく知るためにその背景である家族関係を気にするというのは、自分がふだんから自分の家族を気にしている証拠である。
 認知症で徘徊した老人や行路で倒れた老人がお巡りさんのご厄介になれば、必ずその身元が探索されるし、それを引き受けるのが子どもである(べきな)のは、当然の社会倫理であろう。
 こうして最終的には親の命を引き受けて、その死の際には正しく葬ることが子どもの人倫性の最後の表現となる。この事実は、ヘーゲルの『精神現象学』のなかで、ソフォクレスの『アンティゴネ―』を媒介にしつつ鋭く指摘されている(もっともこの場合は葬られるのは親ではなく兄だが)。親兄弟の死を正しく葬ることは、遺体が無縁仏となって自然の暴威にさらされることのないように、死者に人間としての尊厳を再び返してやる営みである。それがある親の元に生まれた子どもの「使命」なのであって、この使命は、現世のなかに居合わせている普通の親子のかかわりを通して、子どもの成人前も成人後も、無自覚的な形で不断に実践されているのである


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (さようなら)
2014-08-23 23:51:47
とにかく、人類の歴史で「家族」という単位が生まれてきたのは、ほんの最近のことじゃないですか。核家族が本格化したことになれば、戦後の数十年の歴史にすぎない。
人類は、家族という単位が生まれるずっと前からすでに「倫理」の意識を芽生えさせていた。それはたぶん人と人の関係をやりくりしてゆく作法だったのだろうが、その作法をもとにして家族という関係が生まれてきた。夫婦だの親だの子だのという意識で家族をつくっていったのではない、気がついたら家族という単位になっていただけです。夫婦だの親だの子だのという意識が芽生えてきたのは、そのあとのことです。
家族の倫理の起源は、あくまで人と人の関係の倫理にあります。人と人の関係の倫理で家族になっていったのです。
あなたが人間通ぶって夫婦の倫理意識だの親子の倫理意識だのといったって、しょせんは現在の家族の倫理意識に過ぎないのであって「倫理の起源」の問題ではないのです。
あなたごときが「倫理の起源」を語ろうなんて、おこがましいのです。
そんなステレオタイプな倫理意識など、これまでもさんざん語られてきたことです。そうやって「家族の倫理」を称揚しながら戦後の家族がいとなまれてきて、今「家族の崩壊」などということが叫ばれている。あなたのおっしゃるようなことで家族の崩壊が止められるのなら、とっくに止まっているのです。しかし、その、まさに「家族の倫理」を称揚するというそのことによって現在の家族の崩壊が起きている。その「家族の倫理」に、誰もが追いつめられている。じっさいに家族崩壊が起きている現場だけでなく、「家族の倫理」を合唱している善良な市民自身も、みずからのその規範に縛られていつ崩壊が起きるかもしれないという危うさを背負ってしまっている。
子供が親を慕うといったって、一緒に暮らしていればそういう心模様は起きてきますよ。子供という自覚なんかなくても起きてきますよ。それはあくまで、人と人の関係の心模様です。
親子といったって、生れ落ちたときは生き物として関係を結び、そのあとしだいに家族という枠組みに囲い込まれてゆくが、けっきょくは家族から離れてゆく。そうしてひとりの人間と人間の関係として親との和解を果たす人もいれば、疎遠になってゆく人もいる。
たとえほんとうの親子であっても、人と人の関係としての親密・信頼の情のほうがもっと確かで深いものだろうと思いますよ。幼い子供として親に養われている時期だって、親と子ではなく人と人として向き合っている側面はありますよ。そうやって反抗したり、より深い親密・信頼の情を抱いたりする。
三歳の頃の第一反抗期はきっと、「家族」という枠に囲い込まれてしまうことの抵抗感なのだろうし、思春期の反抗期もまた、親子の関係としてではなく人と人の関係として生きようとする試行錯誤であるのでしょう。
まあ戦後社会は、「家族の倫理」を叫びすぎて人と人の関係のタッチを失っていったことによって家族の崩壊が起きてきたのでしょう。そうやって団塊世代の「ニューファミリー」は挫折していった。
たとえ小さな子と親の関係でも「人と人の関係」の側面はあるのです。そこでこそ、より深く豊かな信頼・親密の関係が生まれる。その側面を持っていなければ家族は崩壊する。つまり、原初の人類は、人と人の関係として家族をつくっていったから、家族になることができたのです。
家族として家族をやっていると家族は崩壊する、それがニューファミリーの挫折が与えてくれている教訓です。
人類は、基本的には人と人の関係として家族の歴史を歩んできたのです。夫婦だの父性だの母性だのといって人と人の関係を持っていない家族は崩壊する。あくまで人と人として関係してゆくことこそ、人倫の基本でしょう。そうやって人類の倫理は生まれてきた。
この国の中世の仏教者が「人は孤独にして独一の存在である」とか「この生は一瞬の光芒である」といっていたような意識は、おそらく原始人にもあったのであり、その感慨から人類の倫理が生まれてきたのです。
人類の歴史において、夫婦だの父性だの母性だのといっていっていたら最初から家族は破綻していたし、家族が生まれてくる契機は永遠にやってこなかった。
人と人がときめき合い関係を結んでゆくということ、それが成り立つとき、「人は孤独にして独一の存在である」とか「この生は一瞬の光芒である」という感慨が基礎になっている。子供だって、無意識のところにそんな感慨を持っていると思いますよ。その感慨を携えて親と関係している。「親の庇護を当てにしないと生きてゆけない」とか、そんなことが子供の普遍的な意識ではないですよ。むしろ、そんな意識を持たないでもすむようにしてやるのが親のつとめであるともいえる。
フッサールを持ち出すまでもなく、身体としての目と脳の関係がこの世界のさまをとらえてから意識が発生してそれを認識するまでには一瞬タイムラグがあるということは、今どきの常識でしょう。それは、すべて一瞬前の過去の世界である、という。
では、「超越論的主観性」としての人の心はそれを過去だと思っているかというと、そうではない。まったくの「今ここ」だと思っている。それはある意味とても不思議なことで、意識とは「今ここ」を認識する装置である、ともいえる。無条件に「今ここ」と思ってゆく。
親と子の関係だって、親と子という時間軸のことなど離れて、「今ここ」として向き合っている心があるのです。それはもう、「親の庇護を当てにしないと生きてゆけない」ということなど、まったく念頭にないのです。どちらも「人は孤独にして独一の存在である」とか「この生は一瞬の光芒である」という感慨を携えて向き合っているのです。親と子とのあいだにだって、そういう「今ここ」があるのです。
わかるかなあ。
ほんとにもうこれで終わりにします。
あなたたちみたいなアホを相手にしていてもしょうがないから。
返信する

コメントを投稿