小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源46

2014年09月17日 16時19分03秒 | 哲学
倫理の起源46



 さてそれでは、こうした職業倫理は、他の原理との間にどんな関係を持つだろうか。それらは互いに矛盾することはないのだろうか。
 これを考えるには、職業共同体と家族共同体との関係、職業共同体と国家共同体との関係の二つに焦点を合わせることが求められるが、ここでは、前者のみについて考察し、後者については、「6.公共性」の項で述べることにする。

 先に、人間社会においては性愛(エロス)に基づく共同性と、労働に基づく共同性とが互いに相容れず、それぞれの共同性の活動領域(時間と空間)を明確に分けるところに社会秩序が初めて成り立つということを述べた。この性愛に基づく共同性が社会的承認を得て(婚姻)、それが次世代を生みだすだけの時間を孕んで展開したときに家族共同体が成立する。これは一般に「私的領域」としてとらえられ、それ以外の公共的な世界との対比で論じられるのがふつうである。
 たとえば古代ギリシアでは、「家」あるいは単独の集落は「オイコス」と呼ばれ、村々の結合体である「ポリス」とは明確に区別された。そうして前者は夫婦、子ども、奴隷によって構成される領域であり、そこでは一単位ごとの生計が営まれる。オイコスとはエコノミー(経済)の語源でもあり、それぞれの「家政」は、ポリスにおける公共的な政治とはまったく次元を異にするものとして考えられていた。いわば「女子ども」の世界である。この概念区分が「私」と「公」の線引きに重なるものである。
 ちなみにこのわかりやすい二分法には、もともと伝統社会特有の差別感覚が随伴している。すなわち「私」は「公」よりも価値の劣る領域として軽蔑されるのである。たとえば、すでに触れたように、プラトンの『ゴルギアス』では、カリクレスが靴屋や肉屋を例に出すソクラテスに業を煮やして、「自分はそんなくだらないことを言っているのではなくて公共的な問題にかかわる話をしているのだ」と述べる場面が出てくる。
 この差別感覚は、現代で社会について考える人たちの間にも根強く残っていて、「私」=ネガティヴな意味でのエゴイズム、「公」=エゴイズムを超えたより気高い精神の世界というバイアスで論じられることが多い。このバイアスは、しばしば思想から経済問題への関心を奪う作用を果たしてきた。ために、多くの言論人は、経済問題(経済学ではない)を軽視したり、経済がわからないのに経済について誤った一家言を弄したりする弱点をさらす。その結果、おかしな経済学の流れが我が物顔にのさばって、政治によくない影響を及ぼすといった傾向が助長されてきたのである。困ったことである。
 ところが近代社会になると、実際には、公的・私的というこの単純な二分法を用いて人間社会を考察していたのでは不十分だという感覚が一般的になる。古典的な言葉による切り分けが、有効ではなくなってきたのである。
 事実、すでに紹介したように、和辻哲郎は、『倫理学』のなかで幾重にも同心円的に広がる「人倫的組織」を措定しているが、そこで彼は、それらのより隠されたものとより公開的なものとの質の違いに注目するとともに、ある組織が私的であるか公的であるかは比較相対的であるということを示した。たとえば「家族」は「夫婦」に対しては公的であるが、「親族」や「地域」に対しては私的であるというように。
 また彼は、公的=より崇高、私的=より下劣、といった価値審級を無原則に採用してはいない。私もこの点に関しては和辻に賛同するが、これについては倫理思想として非常に重要な問題を含むので、後にまとめることにしよう。
 さて、近代社会はたいへん複雑多様な構成を持つに至ったが、大ざっぱな点で誰もが認めざるを得ないのは、都市と産業社会の発展によって、一部の農業や自営業者を除けば、「オイコス」としての私的領域それ自体が「家」の領域と「職」の領域とに分裂して、後者がしだいに土着性を喪失したという点であろう。大多数の労働する人間は、家から工場や会社まで「通勤」するようになるのである。
 だから、たとえば経済学でも、経済活動をする組織を三分して、家計、企業、政府とするような理解の仕方が一般的に受け入れられている。和辻のひそみに倣って言えば、ある職業組織は、家族共同体に対してはより公的であり、しかし経済社会一般や国家に対してはより私的であるということになる。
 この歴史的観点を踏まえて、職業倫理と家族倫理との関係について考えてみると、両者がなかなか重なり合わず、往々にして対立矛盾するさまがよく見えてくる。同一の人間が二つの質の異なる共同性をまたいで生活するのだから、そのモードの違いに基づく倫理性もまた、時には克服不可能なほどに相対立するのが当然と言えるだろう。
 わかりやすい例を挙げると、男性の企業戦士が仕事に熱中して、妻をないがしろにしたり、家庭や子育ての問題を妻に任せきりにしたり、というケースがある。「仕事、仕事って、私と仕事とどっちが大切なのよ」というのは、昔からよく聞かれる女性のセリフである。昔気質の無口な職人なども、一日中仕事にばかり打ち込んで、家庭生活に関心を払わず、女房に愛想をつかされる(諦められる)というパターンが多い。
 ちなみに、この矛盾葛藤は、恋人どうしでもしばしば悶着の種となる。男性は一般に仕事中毒になりやすく、女性はエロス関係を大切にする。デートの約束をしておきながら「ごめん。いまちょっと手が離せないんだ」と断りを入れるのはたいていの場合男性である。そこには実際にやむを得ない場合が多々あるだろう。しかし以下は私の個人的な信条だが、彼が本当に彼女のことを好きならば、万難を排しても彼女との出会いを優先させるべきである。そうでないと、女性は男性の態度を見慣れたあげく、彼のうちに自分に対する不誠実を見て、「あの人は仕事を口実に使っている」と判断するようになるからである。
 企業戦士は、もちろん職業倫理に忠実に生きているのである。有能な者ほど重用されて、そのことのために責任も重くなり持ち場を離れることが許されないという事態も生じる。こうして職務に忠実であればあるほど、プライベートな時間は奪われるから、夫婦、家族共同体の人倫を全うすることが難しくなる。出稼ぎ労働、単身赴任、海外勤務、命のかかった仕事、などともなればこの問題の深刻さはいっそう際立つだろう。「離れていても心は一つ」などというのは、涙ぐましい言い聞かせというべきで、現実はそう簡単ではない。妻に対する裏切りや家庭放置の機会も増えようというものである。
 また、ことに近年では、育児期の女性も社会に出て働く傾向が顕著となり、保育所の整備や育児休業制度の浸透が課題として提起されている。だが、ここにはあるイデオロギーが、疑われることのない前提として幅を利かせているために、人々の関心が、誤った問題解決の方向に導かれがちである。
 そのイデオロギーとは、女性が社会に出て男性並みに働くことが無条件に良いことなのだという考え方である。フェミニズムと産業界は結託してこのイデオロギーを支えている。しかしこのイデオロギーは、結局のところ育児期の女性に無理を強いる結果となっているのである。
 この種の矛盾、つまり二つの人倫精神の分裂の問題は、近代社会の根本的な構造に根差しているので、私人への頑張りを強いるような精神論によってはけっして解決できない。また保育所の整備といった対処療法的な政策にも限界がある。なぜなら、こうした精神論や政策は、「働け」イデオロギー(この言葉は、ユング心理学者の林道義氏によるもの)の支配から脱却できていないからである。
 そこにこそ経済問題への真剣なまなざしとエネルギーが注がれるべきなのである。つまり、大多数の人がそこそこ裕福に暮らすことができて、毎日ゆとりをもって家庭生活と仕事とを両立させ得るようになるには、どんな経済思想や経済システムが必要とされるのか、どんな経済思想や経済システムは排除すべきなのかといった問題が議論されなくてはならないのである。この議論は、まさに公共性としての人倫精神にかなうものである。


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