小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源8

2013年11月11日 22時33分37秒 | 哲学

倫理の起源8




 哲学の関心を鮮やかな手つきで倫理学的関心に結びつけた最初にして最大の功労者は、言うまでもなくプラトンである。
 だが、じつはプラトンは思想史上最大の詐欺師であるという直観を、私は永らく抱いてきた。
 彼が著作のほとんどで用いた「対話編」の主人公として登場するソクラテスは、言うまでもなくプラトン自身の思想の体現者である。しかし、このソクラテスの言論の運びこそ、巧妙な詐欺師の面目を躍如とさせていて、それは、当時の市民階層でもてはやされた職業の名前を借りるなら、ソフィスト中のソフィスト、弁論家中の弁論家であるといってもよい。プラトンが描き出すところのソクラテスは、自分があたかも無知であるかのように装いつつ、知者を気取る人々を底意地悪く窮地に追い込むたぐいまれな弁論術を用いて、世俗的な価値観を否定する思想理念を徹底的に私たちの頭に注ぎ込み続けたのである。これは偉大な価値倒錯といってもよい。そういう直観が私の頭にずっと宿っていたのである。
 しかし、直観だけでは、説得力を持たないことは当然である。私はこれから、自分のこの直観がどれだけ妥当なものであるかを読者に判断していただくために、少しばかりしつこくプラトンの説くところに付き添ってみることにする。
 なお、詐欺師であるという形容は、必ずしも一方的にその人を貶めたものではない。けだし多くの人びとを言説によってその気にさせるためには、人並み外れた才能と信じられないほどの執拗さとまた自分の思想の正しさを確信する心とが要求されるだろう。その点でプラトンは、奇跡と呼んでもよいほどに、超一級である。だれもこれを否定する人はいまい。

 まず『饗宴』を問題にしてみよう。
 周知のようにこの作品は、演劇祭で優勝したアガトンの家にお祝いのために皆が集まり、宴たけなわに達したころ、医師のエリュクシマコスによって、エロス神を称える演説を順に行うという提案がなされ、みながそれに従い次々に自説を述べるという結構で成り立っている。演説者は、計六人。最後のソクラテスが終えたとき、酔っぱらったアルキビアデスが乱入して、ソクラテスその人の人格高潔ぶりを称えるという形で終わる。
 各人の演説要旨は次の通り。
 まず弁論術の愛好者であるパイドロス。
 エロスは最も古い神である。エロスは、立派な生き方をしようとする人々にとって、門閥や富や名声もかなわない、確実な指導原理を植えつける。それは愛する人々に対する恥の感覚や、命を捨てても惜しくないという勇気の感覚を抱かせるからである。
 次に、ソフィストに心酔しているパウサニアス。
 エロスには上等なものと下等なものと二種類あるので、エロスのすべてが美しいわけではなく、どのような恋をするかによる。住民が能弁でなく、精神的怠惰が支配するところでは、恋は無条件に美しいこととされ、支配者が権力を振るっているところでは、民衆が力を得てはまずいので、恋は醜いものとされる。我が国(アテナイ)では、恋の価値を十分に吟味している。恋をしている者には全面的な自由を許すが、恋される側にとって、それをたやすく受け入れることに対しては、慎重さを説く。エロスは、本人の隷属や堕落を導きやすいからである。相手から知恵、その他の徳目を享受できて、より立派になれるかもしれないと考えて相手の思いを受け入れる場合だけが美しい。
 彼は、恋に対する自国の慣習をほめたたえているわけである。
 次に、医師エリュクシマコス。
 エロスはこの世のありとあらゆるもののなかにある。あらゆるもののなかに二種類のエロスがあるから、人は、よきエロスをつかむために、節度をもって望まなくてはならない。慎みと正義の徳をもって善きことの実現にはげむエロスこそ、われわれに幸福を約束してくれる。
 これもパウサニアスと同様、エロスを直接称えるというよりは、どういうエロスが望ましいかを述べているにすぎない。
 次に喜劇作家アリストパネス。
 自分は、「恋の力」の秘密がどこに起源をもつかについて話す。人間はもともと二身一体であり、「男-男」「男-女」「女-女」の三種類があった。しかしその驕慢がゼウスの怒りにふれ、二つに裂かれたため、互いが互いを激しく求めるようになり、ほかのことに気が回らず、しだいに滅んでいくようになった。ゼウスはこれを憐れみ、隠し所を前に移した。こうして男女が交わることで子供を産めるようになり、男性同士も一緒になることで充足感だけはもてるようになり、仕事や生活に気を配るようになった。エロスとはつまり、太古の完全な姿に戻ろうとする欲望と追求のことである。本然の姿に戻ることが最も尊いことならば、自分の意に最も叶った資質の恋人(片割れ)を手に入れることがエロスの究極の目的となる。
 この説は大変興味深い。ソクラテス説との関係で、後ほどまた取り上げよう。
 次に若き悲劇詩人アガトン。
 自分は、エロス神そのものの性質をはっきりさせなければ、賛嘆できない。エロスは最も年若い神である。エロスは、華奢な体をもち、その足取りは軽く、この世にあるかぎりのもののうちで最も柔らかいもの、すなわち神々や人々の心根や魂のなかに好んで住みたまう。エロス神の最大の美徳は、神との関係でも人との関係でも不正を加えることがないという点である。暴力はエロスとは無縁である。エロス神はまた、慎みの徳も備え、勇気の徳も最大限に備えている。また、芸術における創造、生物の創造の知恵をも備えている。すべての技術(アート)の神々も、エロスの弟子である。
 彼の説は、エロスの本質をすべて素晴らしいものと考えているようで、一般社会との関係における、その危険性を見ていない。贔屓の引き倒しというべきか。
 そして最後に、いよいよソクラテス。彼の先生であったディオティマの言葉を借りる形で、格段に長いエロス本質論を展開する。
 賞賛するよりも大事なことは、問題にしている対象が何であるのか、その真のイメージを正確につかむことだ。エロスはまず、あるものに対する関係としてあり、第二に、自分に欠けているものに対する関係としてある。エロスは、美しいものと醜いもの、死すべきものと不死なるものとの中間的なものである。それは、人間でも神でもなく、「偉大なダイモン」である。それは、神々へは人間からの祈願と犠牲を、人間へは神々からその命令と犠牲の返しを伝達し、送り届ける仲介者の役割をもつ。
 エロスは富を父にもち、貧困を母にもつので、両方の性質を持つ。常に欠乏と同居していながら、美しいもの、よきものをねらう勇気と努力、知を愛そうとする意志をもつ。知は最も美しいもののひとつであり、エロスは美しいものへの恋であるから、エロスは知を愛する者であり、すなわち、知あるものと無知なる者との中間者である。エロス像を、ひたすら美しいものとして思い描くのは、恋される対象のほうをエロスと考え、恋する者のほうに思いが及ばないからである。
 エロスの目的は、善きものを手に入れることによって、幸福になることである。恋とは、善きものと幸福への欲望一般であるから、普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である。自分の半身を探し求める人は、「恋している人」と呼ばれるが、恋の対象というものは、何らかの意味で「善きもの」でないかぎりは、半分でも全体でもない。
 恋のはたらきとは、肉体的にも精神的にも「美しいもののなかに出産すること」である。エロスを抱えるということは、美しいもののなかに何かを生み出そうとする「身ごもっている状態」である。それは、エロスが、死すべきもの(=人間)にとって、善きものを永遠に所有したいと願うことである事実からして、必然的なことである。なぜなら、出産こそは、死すべきものが不死をめざすことだからである。
 人は不死なるものを恋い求める本性をもっている。肉体的に身ごもる者は、子を産むことによって不死と思い出と幸福とを永遠に手に入れようと考える。これに対して、魂において身ごもっている者は、知恵とその他もろもろの美徳を手に入れることを求める。魂において身ごもり、出産する人々は、うつしみの子どもによるつながりよりもはるかに偉大なつながりと、しっかりした愛情とを持つ。それは、より美しく、より不死なる子どもを共有するからである。
 恋の道には、正しく進むべき順序、道筋がある。まず初めは、あるひとつの美しい肉体。ここで美しい言葉(対象をほめたたえ恋の思いを訴える言葉)を生み出さなくてはならない。次に肉体の美しさ一般。ここで、一個の肉体にのみ恋いこがれる激しさをさげすみ、その束縛の力から自由になるべきである。次に魂の美しさ。人間の営みや法のなかにある美を求め、肉体の美しさを些末なものと見なすようにならなくてはならない。次にもろもろの美しい知識へ。そしてこの知を愛し求める究極において、美であるものそのものを対象とする学問に至る。
 人間の肉や色など、いずれは死滅すべき数々のつまらぬものにまみれた姿をではなく、唯一の形相(本質、あるものをまさにあるものにしているもの)を持つものとして、この神的な美そのものを「観る」人間こそが、神に愛される者となる。この人は、徳の幻ではなく、真の徳を産み育てるものである。

 以上が、『饗宴』における演説者の諸説の要約である。
 はじめの三人は、エロス神(恋心)の本質が何であるかに頓着せず、自分たちが通常抱いているこの神のイメージを自明なものとして、恋人の前では恥を恐れて勇敢になるといった付随的な効用を説いたり、エロスはいろいろなあらわれ方をするのでどういう場合にはこの神の力を受け入れるべきかと説教したり、この神とつきあうには節度が必要という忠告をしたりしているだけである。
 五番目のアガトンは、エロス神の柔和と平和を愛する性格や、創造的な性格に着目した上で、それがいかに私たちの生を美しいものにしてくれるかを力説している。恋心の危険性には目をつむっているが、「愛」と私たちが呼び慣わしている現象のポジティヴな面に対する期待感情をよく言い当てているとはいえるだろう。
 問題となるのは、喜劇作家アリストパネスと、ソクラテスの演説である。
 四番目のアリストパネスは、その職業柄にふさわしく、起源神話を語る形で、エロスの真像に迫ろうとしている。一見他愛ない物語を開陳しているだけのようだが、ここには、性愛というものの本質をついた深い洞察がいくつも込められている。
 ひとつは、性愛が、二者の間の強い求心力としてはたらき、それをそのままにすれば浮き世の必要、たとえば仕事や生活などをも忘れさせる閉じた世界を作りうるものであること。これは、日常性を支配する労働と、非日常で特殊な感情的昂揚を伴う性愛とが互いに相容れないものであり、しかも人間はそれらを二つともども抱えているという事実を見事にとらえている。
 もう一つは、エロスが太古の完全な姿に戻ろうとする運動であるとみなすことが、不可能な一体化を求めようとする私たちのエロス感情の巧みな比喩になっていること。これは、一身から二身への分裂によってこの世に生を受け、その個体化の事実を引き受けながら生きざるを得ない人間が、根源的な寂しさという形で、「ひとりであること」をいかに真剣な課題として抱え込む生き物であるかという心的な真実を描き出すことに成功している。
 さらに、アリストパネスは、「自分の意に最も叶った資質の恋人(片割れ)を手に入れることがエロスの究極の目的」であると語っている。これも恋愛感情の本質を言い当てている。恋愛においては、求める側が、あくまでもひとりの相手の心身をめがけるのであり、しかもそこに彼にとってだけの固有の美質を見いだすがゆえにそうするのである。そしてまたそれが「究極の目的」であるという指摘も真相を穿っている。恋愛は、打算や効用のためになされるものではないからだ。
 ちなみに現在の私たちの社会では、色恋沙汰が話題となることが多いが、恋愛について語られたエッセイなどに、「恋愛感情は、もともと一身であった男女が二身に分かれたために互いが互いを求めるようになったところに発生した、とプラトンは説明した」などとしたり顔で書かれているのをときおり見かける。『饗宴』をきちんと読んでいない証拠である。先の要約でも明らかなように、プラトンは、この説をソクラテスに批判させるために、意図的にアリストパネスにこの説を語らせたのである。
 これに対して、プラトンが、これこそはエロスの本質であると考えてソクラテスに語らせた言説のほうはどうであろうか。
 アリストパネスは、『雲』という自作のなかで、戯画化されたソフィストの代表としてソクラテスを登場させ、文字通り雲をつかむような空論が現実に何の役にも立たない様を風刺している。この二人の間に対抗心があったのかなかったのか、それはわからないが、シニカルに現実を見る文学者であったアリストパネスと、理想を追い求める哲学者のソクラテスとが、相容れない気質の持ち主であったことはたしかである。
 ソクラテスの弟子であったプラトンは、おそらくこの二人の和解し得ない違いをよく感じ取っていた。しかも、自作にアリストパネスを登場させながら、彼を揶揄嘲笑するような形ではその人物像を造形せず、むしろ、誠実にかつ正確にアリストパネスの「恋愛思想」を記述したように思われる。そしてその上で、その恋愛思想を超えるものとして、長大なソクラテスの演説をおいたのである。
 先のソクラテスの演説のなかに、「恋とは、善きものと幸福への欲望一般であるから、普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である。自分の半身を探し求める人は、『恋している人』と呼ばれるが、恋の対象というものは、何らかの意味で『善きもの』でないかぎりは、半分でも全体でもない。」という文句が出て来るが、これは明らかに、アリストパネスの説を批判したものである。
 ここにすでにプラトンの意図がはっきりと出ている。アリストパネスは、エロス神、つまりエロスという言葉の概念を、ソクラテス以外の他の演説者と同様、人間が人間に恋をする時の力のはたらきという意味に限定して使っている。しかしソクラテスは、まず「恋とは、善きものと幸福への欲望一般である」と説くことで、初めからこれをもっと拡張した概念として用いていることがわかる。この一般化が、プラトンのイデア思想にいたるための最初の哲学的な手つきである。そして私には、この最初の手つきこそ彼の詐術の大きな第一歩であると思われる。
 なぜこのように「エロス」あるいは「恋」の概念を、ふつう使われるそれらよりも一般的な「人間のあらゆる欲望」という概念に拡張しなくてはならなかったか。そのモチーフを理解するのにさほど時間は要らない。
 ちなみに現在私たちが「エロス」あるいは「恋」という言葉を用いるとき、その概念の主軸は明らかに人間どうしの恋愛感情や性愛感情におかれているが、これを転用して、対象一般への愛、執着という概念で用いることがあることもたしかである。あの曲にはエロスを感じないとか、私はあの山に恋をしてしまったといった表現が可能だからである。
 しかしソクラテス(プラトン)は、そういう単なる比喩的な転用としてこの言葉を拡張したのではなかった。そこには明白な道徳的動機があった。ソクラテス(プラトン)は、その動機を満たすために、ふつうには最も道徳とは関係がないか、あるいはむしろ背徳的とされる「エロス」をも道徳に結びつくものとして籠絡しようとしているのである。
 この拡張の少し前に、ソクラテスは、エロスを「あるものに対する関係としてあり、自分に欠けているものに対する関係としてある」と規定し、さらに「美しいものと醜いもの、死すべきものと不死なるものとの中間的なものである」と規定している。この二つの規定は、エロスという概念を人間の欲望一般ととらえるかぎり、まことに的確な哲学的把握であると言える。
 古代において、この世の森羅万象や人間自身の営みの内在的な力に打たれて、その力に対する不思議や驚きの感じをさまざまな神話的表象で表現するとき、その表現にはその不思議や驚きの肉感的な感じがそのまま保存されていただろう。「エロス」の場合も例外ではなく、それは理性によって「概念」として明確に対象化されるより以前に、自分たちと共にいつも親しく連れ添う生身の恋の魂だった。
 しかしソクラテス(プラトン)は、その神話的な世界把握を、哲学の言葉によってまず破壊する。いかなる神々も、彼にとっては、理性的な述語によって規定されるべき一般的「概念」に変貌させられなくてはならなかった。「普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である」というソクラテス(プラトン)の一般化は、当時の人びとの間で、理性的には漠然と、しかし内在的な生活感情としては生々しくとらえられていたはずの「エロス神」の具体的リアリティを斥け、代わりにそれを、あらゆる対象に対する人間の欠乏感覚という「概念」に読み替える。そして、そうすることで、「エロス」あるいは「恋」という言葉を、哲学的な言語世界の持ち駒として縦横無尽に使いこなせるだけの抽象的な存在者に仕立て上げてしまう。
 この事態を、私たちは、哲学的理性の祝福すべき生成としてただ歓迎しているわけにはいかない。なぜならば、ソクラテス(プラトン)は、この一般化・抽象化の手つきを通じて、「エロス」の概念のなかに「知への愛」を巧妙にも忍び込ませているからである。もちろんこうすることが最初からソクラテス(プラトン)の野心に満ちた狙いであったことは、そのあとのくだりを読めばすぐにわかる。


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