小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源7

2013年11月11日 19時45分06秒 | 哲学

倫理の起源7





 ところで、「神と人との関係から道徳性を説いた中世的な立場」のほうが、ハイデガーの「ただ神だけを抜き去って」道徳性を説こうとする立場よりは、まだましである。
 というのは、およそ「神」と名づけられる表象あるいは観念が、その神をいただく共同体の成員にとって生き生きと実感できる状態においては、「神」という名前は、共同体を束ねてその現実的秩序を踏み固めるための、強力な象徴的意義をもつからである。それは、じっさいに「神」が道徳性実現の可能根拠となっている事態を意味している。そこでは、歴史的・風土的に「神」という表象あるいは観念が生活意識に深く浸透しているため、日常性において道徳や良心の根拠を「神」に求めることが、ごく自然なわざとなっている。
 わが国では、よくキリスト教圏に住む人々のメンタリティや倫理的支柱の特色を「神に個人として向き合う」態度と理解して、その点に自国民との相違を認めようとする。しかし、この「神と個人との向き合い」というメンタリティそのものが、じつは、共同体の精神を象徴する存在としての「神」という伝統的な観念を基盤にしているのであって、このことは、キリスト教が古代ユダヤ教の地域性を克服して世界宗教となった後でも変わりがない。彼らキリスト教文化圏の住民にとっては、「神」という表象それ自体が、生々しい生活上の習俗や民族的エートスと切り離すことができない存在感をもっている(いた)のである。
 つまり彼らにとって、「神」とは、ことさらに超越的な観念ではなく、実生活から地続きの共同体の精神そのものにほかならない。だから、「神に個人として向き合う」と言っても、それはだいたいにおいて日常道徳的なものと「私」との関係を語っているにすぎない。超越的な神と孤立した個人との絶対的な対峙というような悲壮めいたものではあり得ないのだ。
 彼らは、共同体の伝統的な習俗のただなかで「神と向き合っている」のであって、別に孤立した個人として神に対峙しているわけではない。だから、道徳性は、現実には伝統的な習俗を通しておのずから一人ひとりの心中に顕現するので、その点では、私たちの文化圏と共通していると言ってよい。
 ところで、ニーチェの言うように、もしほんとうにヨーロッパにおいて近代と共に「神が死んだ」のだとすれば、それは同時に、いままで述べてきたことから明らかなごとく、キリスト教文化圏の人びとにとって、ごくふつうの生活レベルで道徳性の究極根拠が失われたことをも意味するはずである。
 とはいえこの事態が、はたして一般の西欧人にとってそれほど深刻な事態であったのかは疑わしい。ニーチェの言い方もキャッチーであっただけに、多分に大げさである。しかし少なくともキリスト教という強固な宗教性を精神的支柱として思索を深めてきたヨーロッパの一部知的階層にとっては、その宗教性の衰弱や喪失が大きな危機を意味したことは疑いない。彼らのその空白の場所にこそ、ハイデガーのような「個人の死の自覚=良心の呼び声の発するところ」という形而上学的な道徳思想が忍び込んでゆく余地があったと言えよう。
 なぜなら、「神と個人との向き合い」という観念を、習俗としての生命力とは別個に、(知識人がよくそうするように)図式的な型としてだけ受けとるなら、論理的に言って「神の死」と共にもはや良心の声を神から聞くことが不可能となるので、声の発する場所を、「個人」としての自己の内面に求めざるを得ないからである。そしてその「個人」は、世人の頽落状況にけっして惑わされることなく「最も自己的で、他者とかかわらない可能性=死」とひとり向き合う現存在の「本来性」に立ち帰った個人でなくてはならない!
 言い換えると、ハイデガーの言う「良心の呼び声」とは、まさしくキリスト教的信仰の希薄化した近代における、「神」の補完物なのである。
 だがハイデガーの見込み違いは、この点にこそあった。
 神といい、仏といい、およそ宗教的な超越存在は、その淵源をたどってみれば、まとまりのある共同体の統一を象徴する「観念」にほかならない。だからその草創期においては、どの成員にとっても等しく妥当する道徳性の根拠を僭称することができる。だが複数の共同体の交雑や、一方の他方に対する圧服、一共同体の膨張と分裂などがひとたび起きて、この観念が純粋素朴な姿を維持できなくなるやいなや、ある特定の神仏の観念は、単純に道徳性の根拠とは言えなくなる。
 しかしだからといって、道徳性の根拠や必要が消失してしまうわけではない。なぜなら、たとえ観念としての神や仏が死んでも、現実の人間は生きており、彼らは互いに交渉しあい、紛争しあい、問題の解決を求めあうことを止めないからである。道徳は、この人間たちの実践的な交渉のうちから必然的に立ち上がるのであり、この実践的な交渉に先立って道徳の絶対的な観念があるわけではない。
 だから「良心の声」は、ハイデガーが考えたように、「神」を見失って孤独のなかに屈折し、おのれの死を「追い越し得ない可能性」として凝視せざるを得なくなった個人の「内面」から聞こえてくるのではない。それは、人間の本質としての共同存在性からおのずと生成するのである。言い換えると、多様な欲望を交錯させながら互いの共存を求めあう人間存在の「関係」への執着、別離をそのままでは認めようとせずそれを克服しようとする意志のうちに、その発生の必然性をもつのである。

 私たちは、道徳の根拠を求めるに当たって、善の対立概念としての「悪」がいかに規定されるか、「良心の疚しさ」という心理的概念がどのようなときに意識を占領するかという問いから出発した。その結果、「悪」とは、これこれの具体的な意志や行為によって輪郭づけられるのではなく、主体が自分の存在の根拠を置いているところの共同性に反する意志や行為一般を指す概念であることがあきらかとなった。これは、ひとりの人間個体の心の発達過程をたどるところからも確認されるし、また人類史の過程で共同体の成員がどのようにある意志や行為を「悪」であると感じ取ってきたかをたどるところからも推定される。
 また、「良心」とは、個人がいつもそれに自覚的に従って行為しているような積極的な規範観念ではなく、他者との間で関係行為におよぶとき、「これは許される行為か」という疑念として意識上に兆す「心理」である事実を見た。ある意志や行為が「善」に悖るのではないか、それをなせば自分は良心の疚しさにとらえられるのではないか、という不安に満ちた問いが発せられるときにのみ、「良心」はおのれの顔をあらわにする。
 そして、その疑念や不安が配慮の対象として選ぶのは、たとえそれらがただおのれひとりの内面にとどまっている場合でも、共同存在としての人間世界以外ではあり得ないこともたしかめられた。
 以上のことでひとまず何を言いたかったのか。
 まず第一に、確立された道徳においては、そのほとんどの内容を形成しているのが、悪しきことを「してはならない」という禁止や制止の体系であって、よきことを「せよ」という勧告や命令の体系ではないということである。たとえば、「友だちとは仲良くせよ」とか「人には親切にせよ」といった、一見積極的な勧告や命令に見える道徳命題も、むしろ「友を裏切ってはならない」とか「他人に冷酷であってはならない」という戒めにこそその真義が宿っている。
 そして第二に、その「してはならない」の声は、共同存在としての私たちが互いに他者とかかわりつつある実践の現場に発生の根源的な場所をもっているということである。
 さらに考えを進める。
 これらの指摘が正しいとすれば、道徳的な「善」という言葉で私たちが何を表現しようとしているかが、おぼろげながら見えてくるであろう。それはひとことで言うなら、「人間関係が互いに平和裡に運ぶような生活上の現実を作り出すこと、またそれが維持されている状態」の謂いである。
「善」とは、このように、本来は、共同性が乱されない事態、あるいはそれが乱されないようなシステムが整っている現実的な状態のことであって、何かそれを実行すれば特段の栄誉を勝ち取れるような行為とか、崇高な理念とか、至高存在の意に叶うような精神のあり方といったものではない。
 哲学者たちは、この点について思い誤ってきたのである。彼らにとって「善」とは、たとえばいま挙げたような積極的な行為や精神でその実質が満たされているようなものでなくてはならなかった。この思い誤りの主たる理由は、次のところに求められる。
 すなわち彼らは、「善」と名づけられているものが何かある以上、それは勇気、誠実などのもろもろの徳目を根拠づける一定の超越的な「観念」であって、その観念の本質は何かしら美しい内容で占められているはずだという錯覚を抱き続けたのである。
 だが「善」とは、そもそも共同存在としての人間の生活を離れたところに自立的に成り立つような「観念」ではない。それは人間生活がうまく回っていることやうまく回そうと努力していることを示す「現実」の表現である。哲学者たちは、「善」を何か特別の「観念」であると思い違えたために、これに対して、「善のイデア」とか「最高善」といった形而上学的な屋上屋を重ね、もともと見えにくいものをいっそう見えにくくしてしまったのである。
 もちろん、とりわけて崇高な行為とか、気高い精神のあり方といった概念は成り立つし、これらの概念を、「善」の範疇に収めることにまったく異論はない。しかしこれらの行為や精神が選ばれた人びとによって発揮されるのは、だいたいにおいて、本来的な「善」が欠如しているような特殊な状況下においてである。飢えた子どもたちでいっぱいの難民キャンプでの必死の救援活動、あわや危難に遭いそうになった人たちを命を張って助けようとする人、限界状況のなかで、冷静沈着に、命の優先順位を他人に譲る人、莫大な財産のすべてを福祉組織に寄付する人、中国の儒教のように、世があまりに乱れたためにそこから必然的に立ち上がる人倫思想、等々。
 これらの例外的な事態においては、もともと現実自体が「善」の欠如態としてあらわれているので、選ばれた個人の善行や言葉がひときわ目立つのである。
 しかしたとえば、わが国の伝承において、仁徳天皇が山の上から民の暮らしぶりを視察し、竈から煙が上っていないことを貧しさの証拠と見て仁政を行った後、再びの視察であちこちから昇る煙を見て満足したという逸話などは、仁徳天皇の功として語り伝えられているが、仁政を仁政として理解し、天皇の御意を素直に受けとって生活向上の努力を払ったのは、一般の民である。天皇に「善意志」があったことは疑いないが、その善意志を現実に支えたのは、一般の民の日常的な善意志にほかならない。
 たとえばあなたが、今日決められた時間に起き、朝食を食べ、通勤電車に乗って会社に赴き、一定の業務にたずさわって、特に支障もなくそれを終えて退社し、同僚といっぱいやって帰宅し、食事をしながら妻と四方山話をしたりテレビを見たりしてから入浴して寝たとする。あなたは取り立てて「善行」と呼べるようなことを何も行わなかった。自己犠牲的な振る舞いにおよんだわけでもない。しかしだれかを傷つけるような「悪行」に手を染めたわけでもない。
 またあなたの勤める企業は、健全な競争が行われている市民社会のなかで、法の網の目をくぐって悪徳商法に手を出すこともなく、堅実な業績を上げている。あなたはその業績を上げるために、自分に与えられた役割をきちんとこなした。
 このことであなたは、じつはじゅうぶんに「善者」であったし、道徳的だったのである。けだしあなたは、この一日で、私人に対しても公共性に照らしても「良心の疚しさ」を覚えるべき意志や行為に何ら踏み込んだわけではなかったからである。
 またあなたはこの一日で、何か特別に「善い」行為をしてやろうと考えたわけでもない。だからあなたのなかに心理的な要素としての「善」が含まれていなかったこともたしかなところであろう。しかし少なくとも、法的に公認された一社会組織という共同体の公正な社会的活動の流れに乗って、あなたはその流れを少しだけ押し進めるという行為を行った。意識としての「善」がそこに浮かび上がらなくても、行為としての「善」は果たされているのである。
「善」とは、もともとこのようにひそやかで慎ましいものである。それはいたるところで実現していると言ってもいい。
 もっとも、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉があるように、そうした「善意」の累積が社会構造としての「悪」を生み出すことはいくらでもあり得る。しかし、この反論に対しては、第一に、「善」と「善意」とは必ずしも重ならないこと、また第二に、ある共同性の範囲内で「悪」ではないと信じられている意志や行為が、より広い、または別の視野に立った場合には「悪」を生み出すこともあるという指摘で答えたい。
 前者について解説を加えるなら、「善」とは、個別の心理や意志ではなく、あくまでも共同性の構造としての状態であり、「善意」とは、各個人が主観的に「善いつもりになっている」ことである。この主観的に「善いつもりになっている」ことは、普遍的なレベルでの「善」に重なっていることもあれば重なっていないこともある。
 だからカントは、実践理性(道徳心)の至上命法として、「あなたの意志の格率が、常に同時に普遍的な律法(注:ここでは理性によってうち立てられるべき道徳法則を指す)の原理として妥当するように行動しなさい」という歯止めを置いた。
 カントの道徳論については、のちに詳しい検討を加えるが、彼は感性的な欲求の充足としての幸福や快が、そのままでは道徳的理性につながらないことを過度に警戒していたし、また道徳法則が成り立つとすれば、それは自然法則のように絶対に客観的なものでなくてはならないと考えていた。だから、常人には不可能なこうした厳しい命法によって、理性の要求するところを形容せざるを得なかったのである。
 だが「善」という概念を私のように解釈すれば、各人の「善意」が(「欲求」でさえも)、普遍的な「善」と図らずも重なっていることは現実にはいくらでもあり得ることに気づくはずである。けだし「善」とは、「普遍的な律法の原理」として妥当するような各人の理性的な「善意志」の算術的集積ではない。各人がおのれの存在のふるさととしているところの共同性が、あらゆる意味において乱れや不安定を胚胎していない状態を「善」と呼ぶのである。もちろん、こうした定義からの必然として、その状態においては、各人の欲求もじゅうぶん満たされていることになる。

 少し結論を急ぎすぎたようである。
 再び確認すれば、私の説くように、たとえ「善」という概念が際だった特別の「観念」ではなく、人間生活においてすべての日常的な関係がうまく回っているという事態そのものを指すのだとしても、それは、各人の非理性的な利益追求や幸福追求の結果として偶然に出現するのだとは言えない。そこには、カントの説く「純粋実践理性」のようなものではないにしても、生活のなかに「善」がうまく出現するための、人間的配慮の原理がはたらいているはずである。それはいったい何かということをつきとめるのが、本稿の目的である。
 しかしその前に、この倫理学的な問題に強い関心を示した何人かの思想家・哲学者の説くところを、詳細に吟味・検討するという長い道のりが控えている。
 また私たちは、「よい・悪い」という表現を、必ずしも道徳的な「善悪」の意味で使うばかりではなく、他のいろいろな局面においてもこの表現を多用する。それらの表現と道徳的な意味での「よい・悪い」との関係はどのようになっているのかという問題も詳しく検討してみなくてはならない。

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