中国人って、どんなふう?(その2)
前回のブログで中国人について書きましたが、おかげさまでなかなか反響良好で、美津島明さんからはびっくり仰天の画像つきコメントを送っていただき、またある学識者の方からは、有意義な情報を送っていただきました。これらに接するうち、いろいろと思い出したこともあり、もう一回、中国人の国民性について書きたくなってきました。
美津島さんのコメントは、中国のファミレスでなぜサラダバーが廃止されたかという理由をヴィジュアルに示したものです。サラダバーは、ヴァイキング式で、一皿にどれだけとっても自由ですから、中国の普通の人たちが、この特典をどのように利用したかということを知るには、こういう画像を見るのがいちばんですね。
http://labaq.com/archives/51796775.html
二つだけ、ここに転載しておきましょう。
こうなると、あきれる以前にまず爆笑ものです。「あっぱれ、すばらしい文化だ」とさえ言いたくなる。どれだけたくさん、どのように積み上げるかについてのレクチャーまであったそうです。これを「醜いエゴイズムだ」「なんて厚かましい連中だ」などと、道徳的な尺度で裁断しても、あまり意味がないでしょう。しかしこれ、その場で食べきれるはずがないから、持って帰るんでしょうな。
昔から、中国料理って、食材の種類も量もすごいですよね。何でも探してきて調理して食べちゃう。自然の味を生かして、なんて考えてなくて、すべて人工的に手を加えた上で食べます。これも過酷な環境下で生きてきた人たちの知恵ではないでしょうか。もちろん、その高度な技術の成果もあり、たいへんおいしいわけですが。
上のデコレーション・サラダも、単にたくさんほしいというだけではなく、「自然のまま」ではいやで、加工せずにはいられない、そういう歴史的無意識の志向性がはたらいているように思われます。
何でも調理してと言いましたが、じつは人肉も食べてきたという話は有名です。
これは、すでに故人となられた仏教史研究の泰斗、元東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんから直接聞いた話ですが、あの文化大革命のころ、殺戮した死体があまりに多くてきちんと葬っている余裕がないので(その気もないので)、処理のために人肉市場ができ、一部の街中で平気で売られていたそうです。人肉にも特上から並まで何段階もあり、「若い女のもも肉」などという札のついた肉は一番高く売れたとか。やっぱりおいしいんですかね。
次に、ある学識者の方の情報です。これはいろいろありますが、四つほど簡単に紹介させていただきます。
①私が出会った中国人の中で、首都大の某先生(女性)は率直な方です。会ったとき、「先生、中国はいつ分裂しますか?」と質すと、涼しい顔で、「十年後ね」、とお答えになった。そして、「日中は商売と人間交流だけで十分ですね」と畳みかけると、「それ以上になにがあるの、先生」と逆に言い換えされました。
②中国のトヨタ法人は車が売れても、買った人間がローンを払わない、よって、やくざの取り立て屋を雇うしかない。この費用が馬鹿にならない。
③中国人留学生は、学力はそれなりにあっても、概ね、頭が固い。
以前、北京の学会で、与謝野晶子が当初は反戦主義者だったが、その後帝国主義者になったという大学院生の発表がありました。私は、反戦主義者というのは「君死に給ふことなかれ」を言っているのでしょうが、これは反戦ではない、単に弟に死んでほしくないと思って作ったのではないか。また、政府もこの詩の発表を許している。ということは、国民の不安と悲しみを晶子で代償させるくらいのことを明治国家は考えていたのではないか。それを追究した方が生産的ではないか、だいたい晶子に何々主義などないでしょうが、と質問したら、後で、先生は何々主義で研究されているのかとしつこかった。
④かの湾岸危機の際、ケンブリッジ大学に留学していた人間から聞きましたが、ある時間、大学内のパソコンが中国人留学生に占拠され、他の人間は使えなくなっていた。理由は、彼らが世界中にメールを発信して、情報を収集していたのです。日本人留学生は、大使館情報とテレビなどに頼っていた。
以上の話から総括できるのは、やはり彼らは、自分とごく近い身内しか信用していないということです。そしてこの感覚を貫くためには、身内と他人との間にはっきり線を引き、あくまで身内が満たされることだけを目指す。他人のことを忖度する気などもともとない、ということです。
昔、内村剛介という思想家がいましたが、私は若いころ彼の講演を聞いたことがあります。そのときも中国人の話が出てきました。日本人が靴を脱いでどこかに上がったら、すぐにそれをもっていこうとした中国人がいた。「おいおい、何をするんだ」ととがめたところ、中国人は、にっこり笑って、「だってあなた、これ、身から離したんでしょう?」と答えたそうです。
最近も、春節(中国の正月)の折、ある男性が一年間苦労してためた虎の子のお金を入れた財布を道路に落としてしまった。散乱した札を見た通行人たちがよってたかってつかみ取りして、持って行ってしまった。後で返してくれたのは三人くらいだったそうです。ちょっと日本では考えられないことですね。ふつうみんなで拾い集めてその場で返してくれるよな。
もう一つ。最近中国では偽装離婚が流行っているそうです。なぜかというと、夫婦共有の不動産を売ると、20%税金を取られる。3000万円なら600万円ですね。単身者が売っても税はかからない。そこで一旦離婚して不動産を売却してから、もう一度婚姻届を出す。窓口もこのやり方をよく承知しているそうです。
こういう話をもう少し延長して考えると、じつは彼らの生活感覚にとって、「国家」という超越的な共同性など、何ほどのものでもない、ということを意味します。私たちは、一連の反日行動などに、いわゆるナショナリズムの強さのあらわれを感じてきたかもしれませんが、どうもそうではないようです。昨年の例の反日デモがじつは官制で、デモ要員が日当をもらっていたというのは有名な話ですね。それが独裁政府の思惑を逸脱して、一部で反政府デモとして暴徒化したわけです。政府は慌ててこれを鎮圧しました。
何しろあんなに広く人口の多い国ですから、国としてまとまろうとしても無理です。地方は地方で勝手にやっているらしい。共産党政権はともかく見せかけでも統一を図るのに並大抵ではない苦労が必要になりますが、それもきちんとできているのかはなはだ疑わしい。
中国の一般民衆には、たとえば「日本」という共通の敵を見つけて国家としてまとまろうなどという気ははじめからないのです。自分や自分の身内の為になるなら商魂たくましく、汚いことでも何でもやる、それが彼らの動かしがたい信条でしょう。だから「自分の信条」ももたずに中立的に他者理解を深めようといった日本型知識人のような「うるわしい」心構えの持ち合わせはない。
いまは亡き思想家の吉本隆明氏はかつて、国家としてのまとまりを「共同幻想」という言葉で形容して、その大きな力と対峙することに思想的な意味を見出しました。しかし、こんな概念はそもそも中国人には理解不可能でしょう。まさしく国家など「幻想」以外のなにものでもない、そんなことは言うも愚かなことだ、利用できるならその時々に「国家」権力も大いに利用しようではないか、それが彼らの本音であるように思われます。
それにつけても思い出すのが、数年前に見たテレビ番組の一コマです。これもなかなか驚きです。
番組は、中国の小学校(都市部の、かなり裕福な階層の子女が通う学校のように思われた)での、学級委員長改選のプロセスを克明に追ったものでした。クラスは三年生だから、主人公は、八歳くらいの可愛い盛りの子どもたちです。立候補者は、男子二人、女子一人で、何日間かの選挙運動期間が与えられます。その期間、小さな候補者も選挙権者も、この運動のために相当な高揚感に支配されます。休み時間に他のクラスメンバーに対して、「僕(私)に投票してくれ」というかなり粘っこい説得工作が行われるのです。それぞれの候補者は真剣そのもので、自分が委員長としていかにふさわしいか、対立候補者がいかにふさわしくないか、などを露骨にアッピールします。演説文に細かい推敲を重ね、出来上がったものを一生懸命暗記します。
クラスの中では自信たっぷりに見える彼らも、家に帰ると、まだまだ甘えん坊です。勝てる自信がないことを両親に訴え、小さな胸を悩みでいっぱいにしている様子を示します。両親もまた真剣に対応する。それは助言やアドバイスといった域をはるかに超えています。こぞってその子のためにいろいろな戦略戦術を考えてあげ、演説文に手を入れたり、毎日風呂上りに練習させたりします。対立候補を攻撃するために、よきリーダーであることとファシズムの違いについて教え、対立候補の日ごろの態度がファッショ的であるという弱点を持つことを演説でたくみに訴えるように指導します。
そればかりではありません。わが国の大人の選挙なら確実に公職選挙法違反に該当するようなことを親が平然とやるのです。一方の父親がコネを使って「ゆりかもめ」のような電車を貸切にし、一周ツァーに生徒全員を招待するかと思えば、他方は生徒が喜びそうなグッズをわんさか買い集めて、みんなに配ります。
さていよいよ投票の日、決戦のための演説。「みなさん、僕はクラスみんなのためによきリーダーとして尽くします。よきリーダーとファシズムとの違いを知っていますか。だれだれ君(と対立候補の名を指し)にぶたれたことのある人は手を挙げてください。」相当数の子どもたちが挙手します。「これで、ファシズムとは何であるか、説明しなくともわかりますね。」現職の対立候補も負けてはいない。「ぶったのはルールを守らないからです。クラスの秩序はとても大切です。」結局、現職が大差で勝利。本気で泣きじゃくる敗者に、先生が抱きしめながら教訓をひとくさり。
この流れは、現在の情報でも確かめることができます。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=47196
前回、知人の「これでは尖閣問題では日本は負けるよなあ」という嘆息をご紹介しましたが、ここでも同じことが言えそうですね。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』をまねれば、「これまでの中国史は、権力闘争の歴史であった」。たぶんこれからもそうでしょう。
最後にくどいようですが、もう一度繰り返します。私はこれらの情報によって、けっして嫌中気分を煽ろうというのではありません。「友愛の海」などとバカなことを言った宇宙人もいましたが(まだ地球にいるか。迷惑だな)、こういう国とはつきあう必要がないのなら、つきあわないのがいちばんいい。しかし、何しろ隣人なので、引っ越すわけにもいかず、そこそこ付き合わなくてはならないのだとしたら、よくよくその本音を見抜くしたたかさを持とうではないか、と主張したいのです。
私たちは、とかく国際舞台では、相手国を性格のはっきりした一個人のようにみなしがちです。しかし少なくとも中国を、「反日でまとまっている大国」などと見る必要はありません。じつは近代国家として体をなしていず、利害打算と権力志向のぶつかり合う大集合体にすぎませんから、意外に脆弱な面もあると思います。何かのきっかけ(経済が一番大きいでしょうね)で、ばらばらに解体する可能性も十分あるのではないでしょうか。
そういう時、私たちは、言われなきとばっちりを受けないように、見くびらず、相手の土俵に乗らず、つかず離れずの冷静な構えを貫くことが何よりも大切と心得ます。
コメント(2)
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2013/07/23 03:01
Commented by miyazatotatsush さん
小浜逸郎様
中国人が人肉を食べるという話は私も聞いたことがあります。
これはかの小室直樹大先生が書いていたのですが、古代中国で、ある地方長官が、視察に来る中央の高官をどのようにもてなそうかと思案していたところ、その長官の娘が、「それではわたしがお父さんのために犠牲になろう」と覚悟し、と聞けば日本人なら、一夜妻にでもなったのかと思うところ、油が煮えたぎった鍋に飛び込み、人間唐揚げになって、父親としてはさすがに忍びないものを感じつつも、なってしまったものは仕方ないので、娘を視察の高官に振る舞い、これが美談として、石碑まで建てられたという話を紹介していました。
ロシアでも第一次大戦中に窮乏のため、人肉市場が立ったことがあるそうですが、中国の話はこれとも別に聞こえます。宦官の文化とも繋がるものを感じます。琉球にもさすがに宦官どころか、動物の去勢の文化すら入りませんでした。
これを「野蛮」というのは、見方を変えれば、違う「文明」の洗練を知らない思考かもしれませんね。人肉はけっこう美味のようです。私は食したくはありませんが(笑)
2013/07/23 12:14
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Commented by kohamaitsuo さん
miyazatotatsushさま
コメント、ありがとうございます。
そういえば司馬遷は宦官でしたね。則天武后が世継ぎのために政敵の手足を切って見せ、これは「人豚」というものだ、お前のためにやってあげたのだと言ったという話も有名です。何しろやることがけた違いで、日本人の感覚ではまともにつきあっていられない。おっしゃる通り、単に「野蛮」と見るのではなく(それならむしろ扱いやすいでしょう)、恐ろしい方向に発展していったひとつの「文明」のかたちと見るのが正しいのだと思います。あのサラダ・タワーも何やら芸術的ですね。
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