小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

村上春樹さんのこと

2013年11月10日 02時38分48秒 | 文学

村上春樹さんのこと


 村上春樹さんの新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が、18日、累計100万部突破、文芸作品では最速だそうです。村上さん、まことに慶賀の至りです。
 しかしここでは、この作品についてあれこれ言おうというのではありません。第一、私はこの新作を読んでおりませんし、当面、ほかのことに関心が行っているので、おそらくこれからも読まないだろうと思います。
 村上さんの本は『海辺のカフカ』まではわりとていねいに追いかけていました。しかしこれを読んだとき、なんだかヤングアダルトの感性に無理に媚びた作品のように感じたのと、ゲームやマンガなどのポップカルチャーから「物語の型」をパクってきただけのように思われて少々うんざりし、それ以来、彼のものを読むのをやめました。印象批評ですみません。
 じつは上のニュースを知るとほとんど同時に、私のもとに、来年度から高校で使用される国語教科書『現代文B』(桐原書店)の見本が届けられました。拙文が評論コーナーに収められているからです。ありがたいことです。
 それはともかく、この教科書の巻頭に村上さんのエッセイが載っているのですね。一読してなかなかいい文章だと思いました。タイトルは、「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」。2011年刊『村上春樹雑文集』から採録されているそうです。
 このエッセイは、私なりの理解によれば、小説の世界が私たちの中で生き生きと動いていくためには、発信者側の構えと受信者側(読者)の構えとの間にどのような運動がはたらくからなのかというテーマを追いかけたものです。自分が研いだ鑿の切れ味を繊細な手つきで何度も確かめているような言葉の選び方をしており、さすがに一級の小説職人にふさわしい出来栄えです。
 彼はまず言います、「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。
 なぜわずかしか判断を下さないのかと言えば、判断は一定の結論を導きやすいが、小説は結論を述べるものではなく、仮説を丹念に積み重ねて読者に提示するものだから、というのですね。私などは、小説家の作業を「仮説」という言い方で括ることにさえ少々引っ掛かりを感じるのですが、それはまあ論理的な作業に託した一種の比喩と考えられますからいいでしょう。
 さて読者は、その「仮説の積み上げ」を、自分なりのオーダーにしたがって並べなおし、精神の組成パターンを組み替えるサンプリング作業を行います。この作業を通じて人生のダイナミズムをわがことのようにリアルに「体験」することになる、というわけです。
「仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。」
 この「作者―読者」論がたいへん優れていると私が感じるゆえんは、もともと言葉というものが、それを受け取った側の再構成の過程を経て初めてその運動を完結させるという、言語一般の本質に的中していると思うからです。ですから、ことは小説家とその読者の関係の問題にだけ限定されません。何気ない身振り・表情から論理的に明快な文章までも含めて、あらゆるコミュニケーションが、村上さんの指摘するような「風と風に揺らされるもの」という関係におかれている、と私は思います。
 さらに面白いのは、ある読者から、「就職試験を受けたら原稿用紙四枚以内で自分自身について説明しろという問題が出たけれど、ぼくにはそんなこととてもできない。村上さんだったらどうしますか」という質問を受けたときの村上さんの回答です。以下、一部を引用してみましょう。

 こんにちは。原稿用紙四枚以内で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いですね。おっしゃるとおりです。それはどちらかというと意味のない設問のようにぼくには思えます。ただ自分自身について書くのは不可能であっても、たとえば牡蠣フライについて原稿用紙四枚以内で書くことは可能ですよね。だったら牡蠣フライについて書かれてみてはいかがでしょう。あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとの間の相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。(中略)もちろん、牡蠣フライじゃなくてもいいんです。メンチカツでも、海老コロッケでもかまいません。青山通りでもレオナルド・ディカブリオでも、何でもいいんです。とりあえず、僕が牡蠣フライが好きなので、そうしただけです。健闘を祈ります。 

これはじつにうまい答え方ですね。自分自身について書くのではなく、自分が関心を持っているなにかについて書いてみる。そうすると、その書かれたもののうちに、おのずと自分自身があらわれる。「文は人なり」というやつですね。
 私は教育にかかわった経験があり、現在も少しばかりかかわっていますので、この考え方をついつい作文教育などに応用したくなります。
 しかしよく考えてみると、村上さんのようにうまくはありませんが、私もまた、これまで若い人たちに同じような接触の仕方をしてきたことに気づきます。大学のゼミで映画を見せたり本を読ませたりして何度も感想文を書かせるのですが、ときどき、映画を見なかったのに感想文を書く時間に出席してくる学生がいます。そういう時、どうすればいいかと学生が聴くので、「君がいま一番気になっていること、関心を持っていることについて書きなさい」と指示します。
 この問題も、単に「書くこと」のみにかかわっているのではなく、「生き方」一般にかかわっているといえます。自分が本当は何がしたいのか、自分はどう生きていけばいいのか、など、若い人たちは堂々巡りの問いに悩まされることが多いと思いますが、こういう問いに答えが出なくても、牡蠣フライを食べてみること、牡蠣フライを作ってみること、だれかと一緒にいろんな店の牡蠣フライについて批評し合うことは可能ですね。そういう「モノ」や「他者」への具体的なはたらきかけを続けているうちに、おのずと自分はどういう存在なのかということが見えてくるはずです。
 なんだか説教臭くなりましたが、私自身も、自分がいま関心を持っていることについて、できるだけ具体的に書いていこうと思っています。それで、牡蠣フライにもメンチカツにも海老コロッケにもあまり関心はありませんが、いくつかの関心のうち、今日は村上春樹さんに対する自分のちょっとした関心を書いてみました。
 数か月前にも村上さんに関心を持ちました。それは、尖閣問題で北京政府が反日をいちばん煽っていたころ、彼が、中国の書店から自分の本が消えたことに関して、中国の一部に見られた「焚書坑儒」的ふるまいを何ら批判することなく、逆に日本の読者に向かって「復讐心を燃やしてはいけない」などという見当違いの自虐的なメッセージを発したからです。それで、それについて友人の運営するブログに投稿いたしました。
 なお、このことに関心をお持ちの方は、以下のURLにアクセスしてみてください。
「美津島明さんのページ」
mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2914454/ 
mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2914455/ 

 また、月刊誌『正論』2013年1月号に、上の論稿を圧縮改稿された記事が掲載されています。

 閑話休題。村上さんは、牡蠣フライについてはいくらでも素敵な文章が書けるのでしょう。それはとてもすばらしいことです。しかし尖閣問題については、全然勉強もしていないバカな文章しか書けないようです。いくら多少の関心を持ったとしても、よく知らないことを「村上春樹」の世界ブランドでまき散らされては困りますね。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の100万人の読者のみなさん、ぜひ、そこのところをはき違えず、これからも吹いてくるかもしれないヘンな風にたやすく靡かないように、私からお願いしておきます。
 なお蛇足ですが、今日のこの文章は、かつて村上さんを厳しく批判したので、やりすぎを反省してバランスを取ったものではまったくありません。牡蠣フライや恋の悩みについて書かれたすばらしい小説を褒めたたえることと、同じ書き手が尖閣問題や北京独裁政府についてバカなことを書いたのを批判することとは、けっして矛盾しません。有名な文学者がいると、彼に群がるメディアは、立派な文学者だからその政治的・社会的発言もさぞ立派だろうと勘違いするのか、あるいはこれはビジネスになると踏むのか、とにかく、こういう間違った風潮から早く脱却しようではありませんか。




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