倫理の起源29
これまで書いてきたことから容易に想像されるように、私自身は、道徳の原理としての功利主義を高く評価したいと思っている。すでに述べたように、カントもニーチェもこのイギリス産の思想に対してひどく偏見と軽蔑心を抱いていた。しかし私たちはむしろここに、大英帝国の伸長期と最盛期に発達した現実主義的思想に対する、当時のヨーロッパ後進国・ドイツのコンプレックスを嗅ぎつける。世俗性に対する嫌悪、超越性や絶対性への固執、禁止と自己抑圧と犠牲的精神あってこその道徳的高邁さ、ドイツ観念主義のこれらの傾向には、多分にこのコンプレックスが作用していると思わざるを得ない(ただし同じドイツ観念論でも、ヘーゲルのそれは、功利主義思潮のよいところをきちんと取り込んでいる)。
そこで次に、J・S・ミルの『功利主義論』がもつ可能性についてやや詳しく検討してみよう。
言うまでもなく、功利主義は、人類の幸福を道徳の第一原理とする。その究極目的も、幸福の追求という一点におかれる。もちろん、幸福というとき、不快(不幸)や苦痛をできるだけ避けるというエピクロス的な原理がその重要部分として含まれている。
ところが、まさにこの理由から、哲学上の主義主張の中で、「功利主義」という言葉ほど誤解にさらされてきた概念も少ないであろう。それはあるときには、利己主義と同じだとみなされ、またあるときには、効率だけを追求して人間性に反する冷たい考え方だとみなされた。ミルは、この両方に対してそれらを明らかな誤解として退け、この主義の世界観を画定しようと試みる。彼はこう述べている。
功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである。自分の幸福か他人の幸福かを選ぶときに功利主義が行為者に要求するのは、利害関係をもたない善意の第三者のように厳正中立であれ、ということである。(中略)この理想に近づく手段として、功利はこう命ずるであろう。
第一に、法律と社会の仕組みが、各人の幸福や〔もっと実際的にいえば〕利益を、できるだけ全体の利益と調和するように組み立てられていること。
第二に、教育と世論が人間の性格に対してもつ絶大な力を利用して、各個人に、自分の幸福と社会全体の善とは切っても切れない関係があると思わせるようにすること。とくに、社会全体の幸福を願うならば当然行なうべきだと思われる行動様式(中略)を実行することが、自分の幸福と切りはなせない関係にあることを教えるべきである。
ちなみに、もともと、この主義に対する誤解のひとつの種は、ミルよりも粗野な形でその道徳原理を提出したベンサムにある。ベンサムはかの有名な「最大多数の最大幸福」というキャッチ・フレーズを打ち出し、人々の幸福は、個々の快楽を積み上げていくことによって、その量の多少を「計算」できると主張した。この主張が批判にさらされやすい理由は三つある。
一つは、よく言われるように、最大多数という言い方をするなら、その多数者が共通に認める幸福のあり方を幸福と感じなかったり、むしろそれを不幸と感じる少数者の問題をどうしたらよいのか、という批判である。
たしかにこれにはうまく答えられない。おそらくベンサムがこの言葉を思いついた時、「全員の幸福」などというあり得ない理想を謳うことに現実的な意味を感じなかったのであろう。そのための苦肉の策なのだろうが、ことは「原理」であるから、ただ「道徳が最終的に目指すところは各人の幸福にこそある」とだけ言っておけばよかったのである。
もう一つは、そもそも「幸福(happiness)」という言葉のニュアンスが、道徳感情と相反するような個人的快楽への惑溺や個人的欲望の追求のイメージを呼び起こしやすいところにある。プラトニズムの悪しき禁欲精神をそのまま受け継いだカントがこういう傾向を体質的に受けつけないであろうことはすでに見た。またニーチェは、その骨がらみの貴族主義からして、低俗な輩の快楽主義や畜群道徳を軽蔑しながら、現世の肯定というテーマにとっては、芸術美への陶酔(最高の境地としての快楽)や力の支配といった観念にもとづく新しい道徳類型が必要であると考えざるを得なかった。その「引き裂かれ」の状態についてもすでに見た。
しかし、じつは、この二人のドイツ人にしたところで、「あなた方はなぜそんなに倫理道徳問題にこだわって自説を発表しようとするのか」と端的に問われたら、「それは人類がよりよくなるべきだからだ」と答えるほかなかったろう。また進んで、「ではその『よりよい』とはどういう状態か」と問われたら、「人間として気高くなることだ」と答えるほかなかったろう。さらに進んで、「気高いとなぜよいのか」と問われたら、「その方が充実した生を送ることができるからだ」と答えるに違いない。ところで「充実した生」と「幸福な生」とどれほど違いがあるのだろうか。
哲学の本質問題を「人はいかに生きるべきか」というテーマに視線変更したソクラテス以降のギリシア古典時代においては、プラトン、エピクロス、ストア派のゼノンなど、いずれも「幸福」であることを人間の最高の境地であるとする点では共通していた。ただ、何を「幸福」と考えるかで諸説に分かれただけである。
ことにプラトンは、『ゴルギアス』でソクラテスにはっきり語らせているとおり、不正を加える方が不正を受けるよりも醜い、つまり不幸である、すなわち幸福とは、死の辱めを受けてもなお正しくあることなのだという、「幸福=正義」原則論を打ち立てている。これがプラトニズム特有の「偉大な」詐欺であり、普通の感覚や感情を転倒させたものであることは、すでに詳しく見たとおりである。
私たちは、プラトンのように現世でみじめな目に合っても正義を貫くことこそが幸福であると考えるのでもなく、カントのように幸福が正義(善)と和解不可能に対立すると考えるのでもなく、さらにニーチェ(あるいはカリクレス)のように、強者の幸福こそが正義であると考えるのでもなく、むしろミルに倣って、正義の承認は幸福に至るための必要不可欠な手段であると考えるべきなのだ。
ついでに付け加えると、日本でもこの思想は、きちんと検討されないままに、効率優先主義とか自己利益優先主義というニュアンスをもつものという誤解を受けている。その事情の一つに、「功利主義」という訳語の問題が一枚噛んでいると考えられる。
原語のutilitarianismは、有用主義、役立ち主義とでも訳すべき言葉である。たしかにこう言っただけでは、だれにとって、何について有用で役立つのか、という疑問に対する答えは浮かび上がってこないかもしれない。そのため、短時間ですぐ使えるとか、個人の利益にだけ資するといった意味に受け取られやすい。しかし、もとよりこれはみんなの幸福にとって有用で役立つという精神だから、ニーチェのような偏屈な貴族主義者を除いては、だれも異論の余地がない考え方のはずである。ヨーロッパ哲学の伝統の中でこの思想が出てきたのには、高邁で崇高に見えてもじつのところ何の役にも立たない哲学者たちの観念論議に対する強力なカウンターの意味が込められていたのであろう。
「功利主義」という訳語は誤解をいっそう助長させる。功利とは、行為の結果得られる名誉や利益のことである。この概念からは結果としての報酬という意味しか浮かび上がらず、人類にとって役立つという本来の意味が消えてしまっている。
ところがおかしなことに、普通の日本人の伝統的な生活感覚、商習慣、道徳心などのよいところを見ていると、近江商人の「三方よし」の精神のように、相手もしあわせ、自分もしあわせ、そして全体がうまく回っているという、まさに功利主義的な精神に貫かれているのである。「おかげさまで」「お役にたてれば」「少しばかりお手伝いさせていただきます」「お客様に喜んでいただけるのが何より」などのへりくだった言語感覚にもそれはよく現われている。
べつに私はナショナリズムを昂揚させようとしてこんなことを言っているのではない。事実として日本人は長い間、功利主義的な現実を生き、生活の中でその精神を育ててきたのである。そのことにもっと自信をもつべきだと思う。ただ日本には、この精神をしっかり根付かせるだけの思想言語が不足していた。
ところでミルは、道徳の第一原理は、科学におけるそれと同じように、証明不可能なのだとはっきり述べている。これはとても納得できることである。幾何学の精神に永く酔ってきた大陸系ヨーロッパ形而上学は、特にデカルトやスピノザに代表されるように、第一原理こそ、経験からの単なる帰納によらずに、純粋な論理そのものの必然的な帰結として「証明」されなければならないと考えてきた。
だが、ユークリッド幾何学でも、はじめの出発点は証明不可能な「公理」として認められている。たとえば、「一直線上にない一点を通って、その直線に平行な直線はただ一つしか引けない」などがそのたぐいである。
道徳の問題を考えるにあたって、何が「公理」として認められるかは、私たちが、私たち自身を含む人類史全体を見渡した時に、およそすべての人々の生の最大関心が、どういう概念によって括られるところを目指してきたか、という見通しのいかんにかかっているだろう。
道徳の場合、もし人々の生の最大関心の目指すところが「幸福」であることを度外視して、それ自身の第一原理を探し求めるとすれば、どういうことになるだろうか。
言うまでもなく、カントのように「普遍的法則への妥当」といった抽象命題を持ち出さざるを得ないだろう。ではそのうえで、ある法則が普遍的であるか否かをどのように判断するのか、と問われたならば、「歴史の中である法則は常にそうされてきた」とか、「人々は言葉にできなくても、生活上でその識別の目を備えている」といったように、経験の力によって説得するほかはないであろう。
なお、カントのこの定言命題については、ミル自身がその空虚さを完膚なきまでに批判している。後に触れることにしよう。
したがって、ベンサムやミルが幸福を道徳の第一原理としたことそれ自体はけっして間違っていず、「幸福」という主題は、依然として倫理学の枠内で最重要な案件なのである。
ベンサムのキャッチフレーズが批判を受けやすい第三の理由として、「幸福」を「計算可能」な概念としてしまった点が挙げられる。この点は、ミルによって、幸福とは単に量的な大小によって測られるものではなく、質的な相違もあるというかたちで批判されている。
ただしミルの言う「質的な相違」の概念は、ただちにさまざまな関心や欲望や行為の「価値の高低」という考え方を導きやすく、それはまた同時に、プラトニズム的な精神主義――目に見えない魂にかかわることほど崇高で、感覚で把握できる肉にかかわることほど下劣である――という考え方に取り込まれやすい。ミルは二千年以上ヨーロッパ哲学を支配したプラトニズムの枠内で「幸福」原理一般のために善戦しているが、私たちから見るとどうしても不徹底である。功利主義が反道徳的であるという非難に対する弁明のために、どこかでプラトニズム的な価値観にやや無理をしながらつきあおうとしている。
この点について彼は、次のような面白いことを述べている。
それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。こうたずねられたら、こたえは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が二つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がともなうことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてももとの快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的にすぐれていて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。
ここで言われていることは、たとえば、十億円やるからお前の愛する人をおれによこせと言われても、けっして譲らなかったというような場合であろう。だが、このように言っただけでは、価値の相対主義を論理的に免れることはできない。
ここでは、「両方をよく知っている人々」という言い回しがはさまれているのがミソである。この言い回しのなかに、いわゆる精神的な価値といわゆる物質的な価値との序列の意識がひそかに忍び込んでいる。智者、思慮深い人はその価値の上下についてよくわきまえているというわけだ。しかし、たとえばどんなに視野が広く経験豊富で知的に優れた男でも、きっかけ次第で、酒池肉林やひとりのつまらぬ女に溺れこんでしまう、つまりそちらのほうを質的に高い快楽であると判断してしまうことがあり得るのだ。
たしかにさまざまな関心や欲望や行為による幸福の獲得には質的な相違があり、それらを抽象化して一律に「計算する」などできないことだが、質的な相違があるからといって、そのことは必ずしも、より高い幸福とより低い幸福といった、価値序列の確定には導かれない。
私は、楽しくおいしい飲食をすること、素敵な異性と出会えて相思相愛の恋に落ちること、美しい芸術に出会って感動を味わうこと、お金を儲けて好きなものが買えること、人々の間で名声を博すること、自分の思ったとおりの品物が産み出せたと実感できること、これら、感覚をとおしてでなければ達成できない「幸福」感情を、それ自体で価値多きものとしてはっきり肯定する。これらを、たとえば、知りたいと思った知識を得ることができたこと、多くの人のためになったと実感できて満足したこと、自分の穢れた魂が信仰によって浄化されたと感じたこと、自分を超えた価値のために自らを犠牲に供して人間としての尊厳を示したこと、などに比べて、「幸福」の価値としてより低い序列に甘んじるべきだとはけっして考えない。
前者の一群が、とかくより低い価値をしかもたないと考えられがちなのには、理由がある。一つは、それらの幸福感が、転変常ないこの世の中で、束の間のものとして消えてしまいがちだということである。もう一つは、それらが利己的な動機にもとづいた自己満足の感情に終わっているように見えることである(実際はそうではないのだが)。そうして最後に、これらが、他者とのかかわりの中で生きる私たちにとって、しばしば人を傷つけ、結果的に自分を傷つける契機になりやすいことである。
しかしだからといって、それらの価値が後者に比べて道徳的な意味で低いということには論理上ならない。また、後者の一群にしても、ただの思い込みの自己満足であったり、もっと大きな規模で人を傷つけたりすることがあり得ることを心得ていなければならない。
もし、前者の一群が、現実生活、世俗生活に直接かかわるという理由で、はかなく終わってしまったり他者を傷つけやすかったりするのだとすれば、そうなってしまう社会的な原因をできるだけ取り除くにはどうしたらよいかについて叡智をはたらかせればよいのである。道徳が一役買うことができるのも、この叡智の賜物なのである。
私がここで言いたいのは、ミルのように、快楽原理にもとづく功利主義道徳を説くために、「快楽」の質的な相違を持ち出して、「両方をよく知っている人」の選択によってより価値のある快楽とそうでない快楽を分けるというふうに、価値序列に結びつける必要はないということである。
たとえば芸術美を味わうという快楽の内部において、審美的な意味での価値序列を考えることはできるし、それについて議論することもできる。しかし、そのことは、道徳的な価値序列とは関係がない。そういうことをしなくても、功利主義道徳は十分に成り立つ。その快楽の度が過ぎるといかに自分や周りを傷つけるか、人生を長い目で見たときに自分にとっても周りにとってもいかに得にならないかという尺度によって切り分ければよいのである。この尺度にもとづく切り分け方によって、ある快楽の形式(たとえば美食や贅沢や性的欲望や金銭欲や権力欲)は、それ自体はけっして悪いものでも低劣なものでもないにもかかわらず、過度に追求すると自分や周りを傷つけやすい傾向をどうしてももちやすいという判断が成り立つはずである。
*次回もJ・S・ミルを論じます。
これまで書いてきたことから容易に想像されるように、私自身は、道徳の原理としての功利主義を高く評価したいと思っている。すでに述べたように、カントもニーチェもこのイギリス産の思想に対してひどく偏見と軽蔑心を抱いていた。しかし私たちはむしろここに、大英帝国の伸長期と最盛期に発達した現実主義的思想に対する、当時のヨーロッパ後進国・ドイツのコンプレックスを嗅ぎつける。世俗性に対する嫌悪、超越性や絶対性への固執、禁止と自己抑圧と犠牲的精神あってこその道徳的高邁さ、ドイツ観念主義のこれらの傾向には、多分にこのコンプレックスが作用していると思わざるを得ない(ただし同じドイツ観念論でも、ヘーゲルのそれは、功利主義思潮のよいところをきちんと取り込んでいる)。
そこで次に、J・S・ミルの『功利主義論』がもつ可能性についてやや詳しく検討してみよう。
言うまでもなく、功利主義は、人類の幸福を道徳の第一原理とする。その究極目的も、幸福の追求という一点におかれる。もちろん、幸福というとき、不快(不幸)や苦痛をできるだけ避けるというエピクロス的な原理がその重要部分として含まれている。
ところが、まさにこの理由から、哲学上の主義主張の中で、「功利主義」という言葉ほど誤解にさらされてきた概念も少ないであろう。それはあるときには、利己主義と同じだとみなされ、またあるときには、効率だけを追求して人間性に反する冷たい考え方だとみなされた。ミルは、この両方に対してそれらを明らかな誤解として退け、この主義の世界観を画定しようと試みる。彼はこう述べている。
功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである。自分の幸福か他人の幸福かを選ぶときに功利主義が行為者に要求するのは、利害関係をもたない善意の第三者のように厳正中立であれ、ということである。(中略)この理想に近づく手段として、功利はこう命ずるであろう。
第一に、法律と社会の仕組みが、各人の幸福や〔もっと実際的にいえば〕利益を、できるだけ全体の利益と調和するように組み立てられていること。
第二に、教育と世論が人間の性格に対してもつ絶大な力を利用して、各個人に、自分の幸福と社会全体の善とは切っても切れない関係があると思わせるようにすること。とくに、社会全体の幸福を願うならば当然行なうべきだと思われる行動様式(中略)を実行することが、自分の幸福と切りはなせない関係にあることを教えるべきである。
ちなみに、もともと、この主義に対する誤解のひとつの種は、ミルよりも粗野な形でその道徳原理を提出したベンサムにある。ベンサムはかの有名な「最大多数の最大幸福」というキャッチ・フレーズを打ち出し、人々の幸福は、個々の快楽を積み上げていくことによって、その量の多少を「計算」できると主張した。この主張が批判にさらされやすい理由は三つある。
一つは、よく言われるように、最大多数という言い方をするなら、その多数者が共通に認める幸福のあり方を幸福と感じなかったり、むしろそれを不幸と感じる少数者の問題をどうしたらよいのか、という批判である。
たしかにこれにはうまく答えられない。おそらくベンサムがこの言葉を思いついた時、「全員の幸福」などというあり得ない理想を謳うことに現実的な意味を感じなかったのであろう。そのための苦肉の策なのだろうが、ことは「原理」であるから、ただ「道徳が最終的に目指すところは各人の幸福にこそある」とだけ言っておけばよかったのである。
もう一つは、そもそも「幸福(happiness)」という言葉のニュアンスが、道徳感情と相反するような個人的快楽への惑溺や個人的欲望の追求のイメージを呼び起こしやすいところにある。プラトニズムの悪しき禁欲精神をそのまま受け継いだカントがこういう傾向を体質的に受けつけないであろうことはすでに見た。またニーチェは、その骨がらみの貴族主義からして、低俗な輩の快楽主義や畜群道徳を軽蔑しながら、現世の肯定というテーマにとっては、芸術美への陶酔(最高の境地としての快楽)や力の支配といった観念にもとづく新しい道徳類型が必要であると考えざるを得なかった。その「引き裂かれ」の状態についてもすでに見た。
しかし、じつは、この二人のドイツ人にしたところで、「あなた方はなぜそんなに倫理道徳問題にこだわって自説を発表しようとするのか」と端的に問われたら、「それは人類がよりよくなるべきだからだ」と答えるほかなかったろう。また進んで、「ではその『よりよい』とはどういう状態か」と問われたら、「人間として気高くなることだ」と答えるほかなかったろう。さらに進んで、「気高いとなぜよいのか」と問われたら、「その方が充実した生を送ることができるからだ」と答えるに違いない。ところで「充実した生」と「幸福な生」とどれほど違いがあるのだろうか。
哲学の本質問題を「人はいかに生きるべきか」というテーマに視線変更したソクラテス以降のギリシア古典時代においては、プラトン、エピクロス、ストア派のゼノンなど、いずれも「幸福」であることを人間の最高の境地であるとする点では共通していた。ただ、何を「幸福」と考えるかで諸説に分かれただけである。
ことにプラトンは、『ゴルギアス』でソクラテスにはっきり語らせているとおり、不正を加える方が不正を受けるよりも醜い、つまり不幸である、すなわち幸福とは、死の辱めを受けてもなお正しくあることなのだという、「幸福=正義」原則論を打ち立てている。これがプラトニズム特有の「偉大な」詐欺であり、普通の感覚や感情を転倒させたものであることは、すでに詳しく見たとおりである。
私たちは、プラトンのように現世でみじめな目に合っても正義を貫くことこそが幸福であると考えるのでもなく、カントのように幸福が正義(善)と和解不可能に対立すると考えるのでもなく、さらにニーチェ(あるいはカリクレス)のように、強者の幸福こそが正義であると考えるのでもなく、むしろミルに倣って、正義の承認は幸福に至るための必要不可欠な手段であると考えるべきなのだ。
ついでに付け加えると、日本でもこの思想は、きちんと検討されないままに、効率優先主義とか自己利益優先主義というニュアンスをもつものという誤解を受けている。その事情の一つに、「功利主義」という訳語の問題が一枚噛んでいると考えられる。
原語のutilitarianismは、有用主義、役立ち主義とでも訳すべき言葉である。たしかにこう言っただけでは、だれにとって、何について有用で役立つのか、という疑問に対する答えは浮かび上がってこないかもしれない。そのため、短時間ですぐ使えるとか、個人の利益にだけ資するといった意味に受け取られやすい。しかし、もとよりこれはみんなの幸福にとって有用で役立つという精神だから、ニーチェのような偏屈な貴族主義者を除いては、だれも異論の余地がない考え方のはずである。ヨーロッパ哲学の伝統の中でこの思想が出てきたのには、高邁で崇高に見えてもじつのところ何の役にも立たない哲学者たちの観念論議に対する強力なカウンターの意味が込められていたのであろう。
「功利主義」という訳語は誤解をいっそう助長させる。功利とは、行為の結果得られる名誉や利益のことである。この概念からは結果としての報酬という意味しか浮かび上がらず、人類にとって役立つという本来の意味が消えてしまっている。
ところがおかしなことに、普通の日本人の伝統的な生活感覚、商習慣、道徳心などのよいところを見ていると、近江商人の「三方よし」の精神のように、相手もしあわせ、自分もしあわせ、そして全体がうまく回っているという、まさに功利主義的な精神に貫かれているのである。「おかげさまで」「お役にたてれば」「少しばかりお手伝いさせていただきます」「お客様に喜んでいただけるのが何より」などのへりくだった言語感覚にもそれはよく現われている。
べつに私はナショナリズムを昂揚させようとしてこんなことを言っているのではない。事実として日本人は長い間、功利主義的な現実を生き、生活の中でその精神を育ててきたのである。そのことにもっと自信をもつべきだと思う。ただ日本には、この精神をしっかり根付かせるだけの思想言語が不足していた。
ところでミルは、道徳の第一原理は、科学におけるそれと同じように、証明不可能なのだとはっきり述べている。これはとても納得できることである。幾何学の精神に永く酔ってきた大陸系ヨーロッパ形而上学は、特にデカルトやスピノザに代表されるように、第一原理こそ、経験からの単なる帰納によらずに、純粋な論理そのものの必然的な帰結として「証明」されなければならないと考えてきた。
だが、ユークリッド幾何学でも、はじめの出発点は証明不可能な「公理」として認められている。たとえば、「一直線上にない一点を通って、その直線に平行な直線はただ一つしか引けない」などがそのたぐいである。
道徳の問題を考えるにあたって、何が「公理」として認められるかは、私たちが、私たち自身を含む人類史全体を見渡した時に、およそすべての人々の生の最大関心が、どういう概念によって括られるところを目指してきたか、という見通しのいかんにかかっているだろう。
道徳の場合、もし人々の生の最大関心の目指すところが「幸福」であることを度外視して、それ自身の第一原理を探し求めるとすれば、どういうことになるだろうか。
言うまでもなく、カントのように「普遍的法則への妥当」といった抽象命題を持ち出さざるを得ないだろう。ではそのうえで、ある法則が普遍的であるか否かをどのように判断するのか、と問われたならば、「歴史の中である法則は常にそうされてきた」とか、「人々は言葉にできなくても、生活上でその識別の目を備えている」といったように、経験の力によって説得するほかはないであろう。
なお、カントのこの定言命題については、ミル自身がその空虚さを完膚なきまでに批判している。後に触れることにしよう。
したがって、ベンサムやミルが幸福を道徳の第一原理としたことそれ自体はけっして間違っていず、「幸福」という主題は、依然として倫理学の枠内で最重要な案件なのである。
ベンサムのキャッチフレーズが批判を受けやすい第三の理由として、「幸福」を「計算可能」な概念としてしまった点が挙げられる。この点は、ミルによって、幸福とは単に量的な大小によって測られるものではなく、質的な相違もあるというかたちで批判されている。
ただしミルの言う「質的な相違」の概念は、ただちにさまざまな関心や欲望や行為の「価値の高低」という考え方を導きやすく、それはまた同時に、プラトニズム的な精神主義――目に見えない魂にかかわることほど崇高で、感覚で把握できる肉にかかわることほど下劣である――という考え方に取り込まれやすい。ミルは二千年以上ヨーロッパ哲学を支配したプラトニズムの枠内で「幸福」原理一般のために善戦しているが、私たちから見るとどうしても不徹底である。功利主義が反道徳的であるという非難に対する弁明のために、どこかでプラトニズム的な価値観にやや無理をしながらつきあおうとしている。
この点について彼は、次のような面白いことを述べている。
それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。こうたずねられたら、こたえは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が二つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がともなうことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてももとの快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的にすぐれていて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。
ここで言われていることは、たとえば、十億円やるからお前の愛する人をおれによこせと言われても、けっして譲らなかったというような場合であろう。だが、このように言っただけでは、価値の相対主義を論理的に免れることはできない。
ここでは、「両方をよく知っている人々」という言い回しがはさまれているのがミソである。この言い回しのなかに、いわゆる精神的な価値といわゆる物質的な価値との序列の意識がひそかに忍び込んでいる。智者、思慮深い人はその価値の上下についてよくわきまえているというわけだ。しかし、たとえばどんなに視野が広く経験豊富で知的に優れた男でも、きっかけ次第で、酒池肉林やひとりのつまらぬ女に溺れこんでしまう、つまりそちらのほうを質的に高い快楽であると判断してしまうことがあり得るのだ。
たしかにさまざまな関心や欲望や行為による幸福の獲得には質的な相違があり、それらを抽象化して一律に「計算する」などできないことだが、質的な相違があるからといって、そのことは必ずしも、より高い幸福とより低い幸福といった、価値序列の確定には導かれない。
私は、楽しくおいしい飲食をすること、素敵な異性と出会えて相思相愛の恋に落ちること、美しい芸術に出会って感動を味わうこと、お金を儲けて好きなものが買えること、人々の間で名声を博すること、自分の思ったとおりの品物が産み出せたと実感できること、これら、感覚をとおしてでなければ達成できない「幸福」感情を、それ自体で価値多きものとしてはっきり肯定する。これらを、たとえば、知りたいと思った知識を得ることができたこと、多くの人のためになったと実感できて満足したこと、自分の穢れた魂が信仰によって浄化されたと感じたこと、自分を超えた価値のために自らを犠牲に供して人間としての尊厳を示したこと、などに比べて、「幸福」の価値としてより低い序列に甘んじるべきだとはけっして考えない。
前者の一群が、とかくより低い価値をしかもたないと考えられがちなのには、理由がある。一つは、それらの幸福感が、転変常ないこの世の中で、束の間のものとして消えてしまいがちだということである。もう一つは、それらが利己的な動機にもとづいた自己満足の感情に終わっているように見えることである(実際はそうではないのだが)。そうして最後に、これらが、他者とのかかわりの中で生きる私たちにとって、しばしば人を傷つけ、結果的に自分を傷つける契機になりやすいことである。
しかしだからといって、それらの価値が後者に比べて道徳的な意味で低いということには論理上ならない。また、後者の一群にしても、ただの思い込みの自己満足であったり、もっと大きな規模で人を傷つけたりすることがあり得ることを心得ていなければならない。
もし、前者の一群が、現実生活、世俗生活に直接かかわるという理由で、はかなく終わってしまったり他者を傷つけやすかったりするのだとすれば、そうなってしまう社会的な原因をできるだけ取り除くにはどうしたらよいかについて叡智をはたらかせればよいのである。道徳が一役買うことができるのも、この叡智の賜物なのである。
私がここで言いたいのは、ミルのように、快楽原理にもとづく功利主義道徳を説くために、「快楽」の質的な相違を持ち出して、「両方をよく知っている人」の選択によってより価値のある快楽とそうでない快楽を分けるというふうに、価値序列に結びつける必要はないということである。
たとえば芸術美を味わうという快楽の内部において、審美的な意味での価値序列を考えることはできるし、それについて議論することもできる。しかし、そのことは、道徳的な価値序列とは関係がない。そういうことをしなくても、功利主義道徳は十分に成り立つ。その快楽の度が過ぎるといかに自分や周りを傷つけるか、人生を長い目で見たときに自分にとっても周りにとってもいかに得にならないかという尺度によって切り分ければよいのである。この尺度にもとづく切り分け方によって、ある快楽の形式(たとえば美食や贅沢や性的欲望や金銭欲や権力欲)は、それ自体はけっして悪いものでも低劣なものでもないにもかかわらず、過度に追求すると自分や周りを傷つけやすい傾向をどうしてももちやすいという判断が成り立つはずである。
*次回もJ・S・ミルを論じます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます