天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

アニメ「君の名は。」を見て、愚考することについて

2016-09-09 23:13:17 | 映画・テレビドラマなど
先に、さる方のフェイスブックで、今年の夏は「シン・ゴジラ」と「君の名は」というアニメ映画が大ヒットした、(なかなか興味深いらしく)是非見てみたい、との話でありました。折しも、我が家の近所の映画館で、木曜日、男性入場料金減額デーというのをやっていまして、さっそく、いってみることとしました。
 このアニメの監督は、知る人ぞ知る新海誠監督です。前作「言の葉の庭」も、若い友人に教えられDVDで見て、とても良い出来で感心しましたが、もし、このようなアニメに入れ込む(感情的に移入する)のが、広義に「おたく文化の支持者」というのであれば、「この作品がいい」と思えた私も立派な「おたく」であろうかと思われました。主題歌の、「レイン」(大江千里、作詞・作曲、男の子の立場から書かれたとても良い恋の曲です。)が、あの秦基弘によりカバーされていましたが、それ以来、すっかり私のカラオケナンバーになりました。それを聞く立場からでも、好意的に迎えられたことも付記します。
 このアニメも、全体を通して、好いた、惚れた、の主題(若いうちはそれしかないだろ)でしたが、古来から日本の恋に使われた雨が、このアニメでは、ヒロインの古典の教師による年下の生徒に対する相聞歌の投げかけとして暗示されるように、全体を通して重要な場面に押しなべて使われ、その情
感の盛り上げ方の的確さと、また、とことん微分化されたような雨滴や、反射する光の描写などを加え、ここまで、微細に、美しくアニメで描写できるのだと驚くような出来でした。

 それはそうとして、この作も当たりでした。
 かつて、私が聞いた筈の、「君の名は」(ラジオドラマ、菊田一夫原作)というのは、男と女の永遠のすれ違い、であると、戦争や、偶然、世間の介入など外部の状況でとことん逢えない、話であったと記憶していますが、世間も許さん、時代も許さん、という時代に、それでこそ逆に二人の気持ちは盛り上がる、という話であったように記憶します。その困難な状況に、視聴者は同情し、あるいは悲しみ、憤慨し、自分のことのように入れ込んだ訳でしょうが、この作は、それ以前に、時間を超えているところにその特徴があります。
 もう一作、私の知見の許すところであれば、この映画の主人公の設定は「転校生」(1982年、大林宣彦監督、尾道三部作のうちの一作)の女子生徒と男子生徒の入れかわりの設定を借りており、その衝撃、異和や嫌悪、そのうち相手の境遇や気持ちに関わる理解に至るお互いの気持ちの移り変わりが、とてもよく描かれています。

 彗星が地球に接近した時期に、彼らのいきさつはひき起こることとなります。東京の中心部と、長野の村部に暮らす彼らは、彼女が巫女を勤めるご神体の計らいなのかある日夢の中で入れ替わります。
お互い、目覚めて、赤面逆上混乱する中で、それぞれの状況が見えてきます。男の子は父子家庭、女の子は母の早世により、婿養子の父が出て行った家庭、それぞれ屈託と不満がありますが、その鬱屈を絵を描くことにより癒す彼の生活と、あこがれの東京に行けた彼女と、息苦しい田舎に、長女として、祖母と妹と二人で暮らす、彼女の状況のやりきれなさに気づいた彼とに、だんだんに相互に理解が生じてきます。お互いにメモにより、入れ替わった時の申し送りをします。とうとう、彼は、思い切って、彼女に携帯電話をしますが、これに意味があるのですが、不在着信が答えるばかりです。
 一方、思いつめた彼女は、ある日、とうとう東京に会いに行きます。そして、偶然という必然ですが、電車の中で、男の子にであい、思わず近寄り、唐突なしぐさに「何、この女」という彼の目つきに耐えきれず、思わず逃げようとします。とっさに何かを感じた男の子は、女の子に手を伸ばし、彼の手に、髪留め、彼女が作った朱色の組紐(自分の時間と気持ちを織り込むという暗喩があります。)が残ります。彼は、何故かそれ以降ずっとそれを手首に巻きつけておくこととなります。
 自分の気持ちがわからず、とうとう彼女に会いに行った彼は、あこがれのバイト先の先輩と友人を巻き添えに、とうとう長野まで自分の描いたカルデラ湖のような大きな湖に沿って村落が広がるイラストを手に必死で探しまわります。あきらめかけた頃、ひょんなんことで、その村が、3年前、彗星の衝突で、全滅した村落であることを知らされます。混乱した彼は、図書館に行き、必死で犠牲者の名簿を探します。そして、その名簿の中に、彼女の家族全員を見つけるのです。「彼女は、過去から来たのか」と、ショックを受けた彼は、一晩悩んだ末、止むにやまれず、皆の雑魚寝で一泊した宿から、書置きをして、隕石孔になったような廃村と山上のご神体を目指します。そこに、かつて、彼女に成り代わった彼が、彼女の妹とともに、三年前彼女が作った口噛み酒を封印した瓶(へい)とよぶ須恵器に、結界を超え、彼岸といわれる穴倉に封印したのです。ただ一つの依り代を求め、穴倉に入りこむ彼、そして、彼女が醸した口噛み酒を、清酒を飲み下すのです(古代の乙女が醸した口噛み酒というのはどぶろくみたいな澱が沈んだような酒ではないのかね?)。それから、時空を超えた、「愛の奇跡」が起きるんですね。彗星の衝突を認識し、彼女として覚醒した彼(ややこしいね。)は、彗星の衝突が起きる日に転送されることとなり、必死でクラスメートを巻き込み、皆を避難させようとします。できるだけの彼女の影響力を駆使し、発電所を爆破することで、落下地点から離れた、高台の高校に、住民を避難誘導しようとします。しかし、ひとたび確定した歴史は簡単に翻るものではないのですね。また、同時に山上のご神体のカルデラ盆地(1000年前も隕石衝突があったそうです。)で、眠っている、彼をめざし、彼女の心は千路に乱れます。そして、自転車を飛ばす中、山道で落下し、また、彼らは入れ替わります。
 ようやく、原型に戻った彼らは、山上のクレータの縁道の上で二人は出会います。ここがクライマックスです。相手を見ることは、会話はできるんですね、三年前彼に預けた、朱の髪留めを返してもらった彼女は、決意を込め、自分の今の髪を結び(二人の結びなんですね。)ます。しかし、寄り添おうとした時点で、時空はやっぱりつながらないんですね。ここは切ないところです。せめて、束の間の逢瀬に、忘れないように、名前を書こうと油性のマジックで書きかけたとき、二人の記憶が消え始め、永続化しない奇跡と、彼の手のひらにマジックの文字の書きかけの横棒が一本だけ残ります。

 もとに戻った彼女は、次に二番目に大事なことをはじめます。
 町長となっていた、自分の父親に掛け合い、皆を避難させて、と掛け合います。
 それから暗転し、8年後に移行します。

愚直に、就活をする男の子(青年か)があらわれ、周囲や友人たちのそれぞれの時間の経過が説明されます。
 ある跨道橋のうえで、男の子は朱の髪紐で髪をアップにしたスーツを着た女性とすれ違います(ラジオドラマ「君の名は」の典型ですね。)。そのとき、何かが動き出すんですね。
 次に、環状線で、上り、下りの電車の窓越しに、お互いに、はっと気づくんですね(見ているほうは、あの古典「君の名は」と同様に、はらはらドキドキしながら、もしかして、と懸命に見守るわけです、上手ですね。)。
 次の駅で下車して、必死でお互いを探します。とうとう巡り合った石段で、登り、降りと左右に分かれて歩きながら、ぶしつけにならないように、目をそらしながら、瞬間的に、相互に振り返るんですね、彼女が朱の髪紐を付けているのはもちろんです。
 そして、「君の名は?」とお互いにたずねるわけです。
 奇跡の再臨です。妹(いも)の力というか、組みひもと、口噛み酒の力というか、女性の直感とそのわざが奇跡を招きよせるわけです。
 前後を忘れてしまいましたが、実の娘の、切なるたっての頼みで、父親の町長が、理不尽と承知しつつも全員避難を敢行して、町民のほとんどが、助かり、皆の運命が変わったことが、新聞記事で表示されます。彼ら二人の「愛の奇跡」が、彼ら皆の運命をも救うんですね。千年前もこんなこと(隕石の落下)があったらしい、と彼女の祖母(祭司)が言ってましたので、本来的に、神社の祭神の手配なのかもしれません。

 若者たちは、草食化したとか、性愛にとりたてて興味はない、とか、性愛の規範も何も、特に乗り越える障壁もなく何もかも許されたような状況(もちろん個々の事情があるでしょうが)では互いに恋心は盛り上がらないという、現在の「愛と恋」を囲む、奇妙で厳しく難しい状況は、言われてみれば私たちの想像の範囲ではあります。家電をかけるのにもさえ色々多数の障害があった私たちの時代に比べて、現在の若者はケータイでもメールでもやりたい放題じゃないかと思いますが、やっぱり、「好いた、惚れた、の主題(若いうちはそれしかないだろ)と、それにまつわる悩み、苦しみと齟齬又は喜び」は、時空を超え、降臨する、というのは、いい話じゃないのかね、とこのたび愚考します。

 そういえば、前回、映画を見たのは、アニメ「風立ちぬ」だった、と思います。アニメと相性がいいんでしょうか?
 しかしながら、見方が浅薄なのでしょうが、ゴジラと猿(猿の惑星シリーズ)は、どうしても厭です。

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追記(H28.10.2)
 最初の記憶があいまいだったので、再度、「君の名は。」観てきました。
 まず、訂正をしたいのですが、「彗星の破片の衝突が起きる日に転送された彼ら」が、山上のクレータの沿道の上で時空を超え初めて出会うシーンですが、唯一束の間の、かたわれとき(たそがれどき:この世ならざるものに出会う時間)において、万感の思いでちゃんと手を取り合うことになっていました。「会話のみ」でなかったことを、訂正させていただきます。
 しかしながら、大きな奇跡の成就の前に何度も入れ替わり、初めて生身の男と女として邂逅でき、緊張感と堰を切ったようにお互いの気持ちがあふれ、雄々しく彼女があの髪留めを決意を込め結い上げるシーンは、何度見てもいいものでした。それは、そのあと、万感を込めて、記憶にあらがうようにお互いの名前を書いたことあるいは書こうとしたことが、そのあと、二人の記憶がさらさらと砂の流れのように消えていったことの喪失感とセットになりますが。

 先に物故された、映画監督森田芳光氏の、「(ハル)」(1995年)という映画で、ネット通信を介して、遠く離れていて全く知らなかった、お互いに屈託のある男女が、ネットの中だけで長く会話をする中でお互いの気持ちを通わせ高めていく、そして最期に決意を決めた女が男に会いに行き、東京駅の新幹線ホームで初めて出会う、という、シーンがありましたが、それは、この映画のお互いの「情感」の盛り上げ方とよく似ていると思いました。彼らが、それぞれケータイに残したメモのやり取りが、相互の理解と気持ちの親和に強くつながったということで。「君の名は。」の彼女たちの方が、時間の懸崖というもっと厳しい状況にあるわけですが、案外、時間は変わっても、男女の感情の機微とかは変わっていないのかとも思われ、本当に優れたメロドラマですね(ところで、「(ハル)」はおすすめです。あの大女優、深津絵里さんが若き日主演しています。あの時代の森田芳光は本当によかったですね。)。

 ところで、彼女(三葉)が東京に行ってしまったら、宮水神社とご祭神は誰がおもりをするのだろう、が私の素朴な疑問でした。関連して、繰り返されるはずの次回の1000年後、1200年後に、隕石落下の危機に誰が対応するんだろう、という疑問も生じました。しっかり者の妹の四葉と、おばあさんの一葉は存命であろうし、少なくとも四葉は無事に高校生になったようでしたが。