「いしいひさいち」を最初に見たのは、ご同様にポスト団塊世代の私とすれば、「バイトくん」(1977年刊行)という4コマ漫画です。その漫画は、「日刊アルバイトニュース」に連載され、発行していたプレイガイドジャーナルという関西圏の出版社から刊行され、今も忘れないのですが、当時、単行本が関西圏でなくては買えず、すでに帰郷していた私は、新婚旅行の際に京都に立ち寄り、さっそく二冊買い求め、飛行機の中でも笑いっぱなしで、エコノミークラス座席でも、「なんじゃ、この男は」とひんしゅくを買ったであろうと思われます。それに関して、他人の目は気にしない妻には少しは感謝しなくてはなりません。実際のところ、当時の妻が、「海外旅行に行かないのなら結婚しない」、というので、やむを得ず、カナダに行くことにしたのですが、十数時間にわたる機中移動のうんざりする時間の中で、何度読んでも笑える「バイトくん」は大変救いになりました。面白く、またやがて悲しきという、貧乏な大学生たちのその日任せの日常生活ですが、「安下宿共斗会議」という政治党派も存在し、当時の、政治の時代の末期のどこか、暗い側面もやはり持っています(こんなものを雰囲気で語るべきものではないですが)。この漫画には、徒党性の快感というものは確かにありますが。
バイトくんは、貧乏な文系学生で、「いしいひさいち」の分身としては多分関西大学の雑学部(社会学部)に在学しており、仲野荘という木造二階建ての老朽アパートに、同様に地方から就学した同様な境遇の学生たちと群居しています。トイレは共同、風呂なし、共同の流し(多分洗面台)はあるけど、皆、電熱器を使っているようだし、いわゆる「学生アパート」よりは、「間借り」に近いのでしょう。
さて、実は、この「学生アパート」(当時)と、「下宿」の間には千里の径庭があり、私は京都に在住しておりましたが、「学生アパート」はおおむね学生のみが居住し、状態がいい物件であれば非木造で場合によっては管理人などもおり、トイレは各部屋個別附置で、恵まれていればユニットバスがついています。当時は、個々にガスなどの附置などはないにせよ、一応都市ガスなど、煮炊きする場所はあります。また、契約上、敷金、保証金、そして当時関西限定であった礼金が必ず付きます。
ところで、「下宿」の実態といえば、間借りなんですね。私は、川端今出川通上る京福電鉄、ターミナル出町柳駅(わがアイドルD大学英文科出身の「種ともこ」さんの「出町柳」という歌があります。)から電車で30分(ところどころ路面電車となりますが)ゆるゆる進む7駅か8駅先の左京区奥地の僻すう地に、京福電鉄(のちに事業売却)の八瀬遊園地そばの三宅八幡というところに住んでいました。八瀬というのは、あの「八瀬童子」の住居地であり、彼らには天皇の棺を担ぐ役割があり、まあ、この付近の人たちは、鄙(ひな)そのものであるような、京都の外周に住む人たちでした。
私たちは、家主が住む母屋の二階に住んでおり、そこは本間の四畳半が、四間ついております。一度だけ、母屋の一階に入れていただいたことがありましたが、土間も、叩きも広く、まだタイルで葺かれた大きなかまどもあり、また外部は、しっくい塗りで、とても立派な豪農というべき家で、黒光りする式台や、天井のはりも立派なものでした。根っからのお百姓さんが、空いた広い部屋を、遊ばすのもなんだし当面貸すという話だったんでしょうね。家主さんからは、よくある、京都人の「陰険さ」、とか「いけず」とか、あまり感じられたことはありません。文字通り、鄙びた(ひなびた)温和なところだったかもしれません。
私の階下に住む、長男の勤め人(30代始めだったと思う。)が、朝、顏が会うと、「Tさん、おはよーさん、学校もう慣れたか」とか、あいさつしていただきました。生粋の京都弁は微妙にイントネーションがあり、その口真似が、「男もすなる京都弁」として同郷の友人に大変受けましたが、その親切さは、当時の私たちにも十分に伝わるようでした。夜遅く、友人が来て、音楽をかけて、一度怒鳴られたこともありましたが、騒がしい学生たちですが、おおむね折り合い良くやっておりました。部屋は、本間の4畳半ですが、前述したように堅牢であり、京間とやらに比べると広めで、ガラス窓を開けると高野川(のちに出町柳で賀茂川と合流)のせせらぎの音が聞こえ、静かな良い部屋でした。また、三宅八幡という駅は、終点、八瀬遊園のすぐそばで、八瀬遊園から折り返し運転する電車の音がよくわかり、もう着くなと、乗車するのにとても便利でした。上りが発車して、10分程度すれば、乗るべき下りがやってくるわけですから、便利なものです。当時、京都の下宿事情はひっ迫しており、駅からまだまだ遠い下宿はいくらもありました。
しかし、洗濯機は、一槽のみの洗濯機で、すすぎ後、絞るのは、ハンドル式(若い奴にはわからないだろうな)であり、学生に解放された備え付けの物干しに干すわけです。また、私の入学年次(1974年)前に、第一次オイルショックが起き、原油が暴騰し、それまでの下宿人は、大家の外風呂(農家ですから、風呂も便所も別棟なんですね。)に入れてもらえたわけですが、私の入学前年から、それが困難となり、その費用の上昇より、むしろ家主さんが煩わしかったのでしょう、下宿生は電車で銭湯に通うこととなりました。当初契約の際、「重要事項」として説明を受けたわけでもなく、最初は特に気にはしてなかったのですが、後々で、ボディブローのように効いてくる問題でした。したがって、冬は週一回、夏はさすがに週二回くらいは、当該京福電鉄で、二駅先の「修学院」(あの離宮のある修学院です。)まで通いました。駅から、5分は歩かないと銭湯にはたどりつきませんが、銭湯から帰る時間を間違えると、吹きさらしの修学院駅で、電車を待ちつつ(鞍馬線もあるので待つのは文字とおり一筋縄ではいかない。)冬の間は、比叡おろしで髪の毛が凍る体験もありました。当時、皆、学生は、髪を肩まで伸ばし(単に無精のため)、銭湯側もたまったものではなく、後に洗髪料金などの追加徴収などもあり、納得したところですが、なかなか他所ではできない体験でした。また、近所に大学の先輩の下宿があり、そこは駅から少し離れており、オイルショック後も、下宿人を風呂に入れてくれたとのことで、下宿の運営も、家主と下宿人の阿吽(あうん)の呼吸というものがあったのかもしれません。
わが下宿の極め付きは、いわゆる「ぼっとん式の」トイレでした。田舎育ちの私も、さすがにびっくりしました。下宿人用のトイレは、当然外便所で、簡易木造、小便槽と、一段上がった大便槽とに分かれ、20ワットくらいの暗い電燈に照らされています。小便槽は朝顔便器で受忍の範囲ですが、大便槽は、一枚板が長方形にくりぬかれ、前に隠し板が立ちあがっています。一枚板の下は奈落ですが、人によっては悪夢になるかもしれません。家主としての「お父さん」は、根っからのお百姓で、守衛業務の合間に、定期的にひしゃくとたごで、たぶん、有機肥料とするため肥えツボに運んでいました。その後、みなさんが愛好する京野菜になったと思います。私たちは基本的に自炊を禁じられていましたので、野菜をいただいたことはなかったけれども。
お父さんも時々、苦痛なのか、汲み取りを怠る時期があって、下宿人仲間でもう(尻に)つきそうですね、と立ち話をした覚えがあります。
色々、便利なこともあって、結局、4年間、居続けましたが、「バイトくん」に類比しても、少なくとも、「東淀川区下新庄」の方が、「文化的な」トイレであったと思われます。
やっぱり、「学生アパート」(当時)と、「間借り」とはちょっと違うんですね。
間借りですから、家主も、下宿人も、やむを得ず、お互い、「思いやりと察し」の文化で振舞いますね。私の部屋は、ふすまながら、南京錠がかかりましたが、ちょっと離れたところにいた、先輩の下宿は、完全に、鍵のかからないガラスの引き戸だけでした。そこはもと、納戸というのが明らかで、広い窓から、西日が終日さすような三畳間です。埴谷雄高の屋根裏部屋ではありませんが、なかなか過酷な環境です。引きこもってしまえば、「観念こそが現実である」ような年代と思索には、むしろ良い環境かもしれませんが。
ここで、友人の昔語りを聞けば、「学生時代(大学時代)には、絶対戻りたくない」という、ことを強固に言い募る人がいますが、自分自身を振り返って、その気持ちがわからないではありません。若かったかもしれないが、貧困で、悩み多き時期に回帰するのは、はっきり言ってつらいところです。
仲野荘の彼らにも、まとめて訪れてくるような大学生活や、アルバイト生活、また政治の季節に関わる倦怠や、諦観、ゆるやかな絶望が確かにあります、確かに、それは「名もなく、貧しく、美しくない」私たちにとっては「現実」であったわけですが。
バイトくんは、貧乏な文系学生で、「いしいひさいち」の分身としては多分関西大学の雑学部(社会学部)に在学しており、仲野荘という木造二階建ての老朽アパートに、同様に地方から就学した同様な境遇の学生たちと群居しています。トイレは共同、風呂なし、共同の流し(多分洗面台)はあるけど、皆、電熱器を使っているようだし、いわゆる「学生アパート」よりは、「間借り」に近いのでしょう。
さて、実は、この「学生アパート」(当時)と、「下宿」の間には千里の径庭があり、私は京都に在住しておりましたが、「学生アパート」はおおむね学生のみが居住し、状態がいい物件であれば非木造で場合によっては管理人などもおり、トイレは各部屋個別附置で、恵まれていればユニットバスがついています。当時は、個々にガスなどの附置などはないにせよ、一応都市ガスなど、煮炊きする場所はあります。また、契約上、敷金、保証金、そして当時関西限定であった礼金が必ず付きます。
ところで、「下宿」の実態といえば、間借りなんですね。私は、川端今出川通上る京福電鉄、ターミナル出町柳駅(わがアイドルD大学英文科出身の「種ともこ」さんの「出町柳」という歌があります。)から電車で30分(ところどころ路面電車となりますが)ゆるゆる進む7駅か8駅先の左京区奥地の僻すう地に、京福電鉄(のちに事業売却)の八瀬遊園地そばの三宅八幡というところに住んでいました。八瀬というのは、あの「八瀬童子」の住居地であり、彼らには天皇の棺を担ぐ役割があり、まあ、この付近の人たちは、鄙(ひな)そのものであるような、京都の外周に住む人たちでした。
私たちは、家主が住む母屋の二階に住んでおり、そこは本間の四畳半が、四間ついております。一度だけ、母屋の一階に入れていただいたことがありましたが、土間も、叩きも広く、まだタイルで葺かれた大きなかまどもあり、また外部は、しっくい塗りで、とても立派な豪農というべき家で、黒光りする式台や、天井のはりも立派なものでした。根っからのお百姓さんが、空いた広い部屋を、遊ばすのもなんだし当面貸すという話だったんでしょうね。家主さんからは、よくある、京都人の「陰険さ」、とか「いけず」とか、あまり感じられたことはありません。文字通り、鄙びた(ひなびた)温和なところだったかもしれません。
私の階下に住む、長男の勤め人(30代始めだったと思う。)が、朝、顏が会うと、「Tさん、おはよーさん、学校もう慣れたか」とか、あいさつしていただきました。生粋の京都弁は微妙にイントネーションがあり、その口真似が、「男もすなる京都弁」として同郷の友人に大変受けましたが、その親切さは、当時の私たちにも十分に伝わるようでした。夜遅く、友人が来て、音楽をかけて、一度怒鳴られたこともありましたが、騒がしい学生たちですが、おおむね折り合い良くやっておりました。部屋は、本間の4畳半ですが、前述したように堅牢であり、京間とやらに比べると広めで、ガラス窓を開けると高野川(のちに出町柳で賀茂川と合流)のせせらぎの音が聞こえ、静かな良い部屋でした。また、三宅八幡という駅は、終点、八瀬遊園のすぐそばで、八瀬遊園から折り返し運転する電車の音がよくわかり、もう着くなと、乗車するのにとても便利でした。上りが発車して、10分程度すれば、乗るべき下りがやってくるわけですから、便利なものです。当時、京都の下宿事情はひっ迫しており、駅からまだまだ遠い下宿はいくらもありました。
しかし、洗濯機は、一槽のみの洗濯機で、すすぎ後、絞るのは、ハンドル式(若い奴にはわからないだろうな)であり、学生に解放された備え付けの物干しに干すわけです。また、私の入学年次(1974年)前に、第一次オイルショックが起き、原油が暴騰し、それまでの下宿人は、大家の外風呂(農家ですから、風呂も便所も別棟なんですね。)に入れてもらえたわけですが、私の入学前年から、それが困難となり、その費用の上昇より、むしろ家主さんが煩わしかったのでしょう、下宿生は電車で銭湯に通うこととなりました。当初契約の際、「重要事項」として説明を受けたわけでもなく、最初は特に気にはしてなかったのですが、後々で、ボディブローのように効いてくる問題でした。したがって、冬は週一回、夏はさすがに週二回くらいは、当該京福電鉄で、二駅先の「修学院」(あの離宮のある修学院です。)まで通いました。駅から、5分は歩かないと銭湯にはたどりつきませんが、銭湯から帰る時間を間違えると、吹きさらしの修学院駅で、電車を待ちつつ(鞍馬線もあるので待つのは文字とおり一筋縄ではいかない。)冬の間は、比叡おろしで髪の毛が凍る体験もありました。当時、皆、学生は、髪を肩まで伸ばし(単に無精のため)、銭湯側もたまったものではなく、後に洗髪料金などの追加徴収などもあり、納得したところですが、なかなか他所ではできない体験でした。また、近所に大学の先輩の下宿があり、そこは駅から少し離れており、オイルショック後も、下宿人を風呂に入れてくれたとのことで、下宿の運営も、家主と下宿人の阿吽(あうん)の呼吸というものがあったのかもしれません。
わが下宿の極め付きは、いわゆる「ぼっとん式の」トイレでした。田舎育ちの私も、さすがにびっくりしました。下宿人用のトイレは、当然外便所で、簡易木造、小便槽と、一段上がった大便槽とに分かれ、20ワットくらいの暗い電燈に照らされています。小便槽は朝顔便器で受忍の範囲ですが、大便槽は、一枚板が長方形にくりぬかれ、前に隠し板が立ちあがっています。一枚板の下は奈落ですが、人によっては悪夢になるかもしれません。家主としての「お父さん」は、根っからのお百姓で、守衛業務の合間に、定期的にひしゃくとたごで、たぶん、有機肥料とするため肥えツボに運んでいました。その後、みなさんが愛好する京野菜になったと思います。私たちは基本的に自炊を禁じられていましたので、野菜をいただいたことはなかったけれども。
お父さんも時々、苦痛なのか、汲み取りを怠る時期があって、下宿人仲間でもう(尻に)つきそうですね、と立ち話をした覚えがあります。
色々、便利なこともあって、結局、4年間、居続けましたが、「バイトくん」に類比しても、少なくとも、「東淀川区下新庄」の方が、「文化的な」トイレであったと思われます。
やっぱり、「学生アパート」(当時)と、「間借り」とはちょっと違うんですね。
間借りですから、家主も、下宿人も、やむを得ず、お互い、「思いやりと察し」の文化で振舞いますね。私の部屋は、ふすまながら、南京錠がかかりましたが、ちょっと離れたところにいた、先輩の下宿は、完全に、鍵のかからないガラスの引き戸だけでした。そこはもと、納戸というのが明らかで、広い窓から、西日が終日さすような三畳間です。埴谷雄高の屋根裏部屋ではありませんが、なかなか過酷な環境です。引きこもってしまえば、「観念こそが現実である」ような年代と思索には、むしろ良い環境かもしれませんが。
ここで、友人の昔語りを聞けば、「学生時代(大学時代)には、絶対戻りたくない」という、ことを強固に言い募る人がいますが、自分自身を振り返って、その気持ちがわからないではありません。若かったかもしれないが、貧困で、悩み多き時期に回帰するのは、はっきり言ってつらいところです。
仲野荘の彼らにも、まとめて訪れてくるような大学生活や、アルバイト生活、また政治の季節に関わる倦怠や、諦観、ゆるやかな絶望が確かにあります、確かに、それは「名もなく、貧しく、美しくない」私たちにとっては「現実」であったわけですが。