「いしいひさいち」のアルバイト体験の話を読んでいると、トイレ清掃業務が得意で、吐しゃ物にまみれたトイレ清掃はもちろん、血のついて注射器が落ちていた、とかいかにも、大阪らしい(?) エピソードがたくさんありますが、彼の「バイトくん」においても、町工場の下請けの補助(家内工業)とか、建設現場の下請けの下請けとか、中には手配師のトラックで出勤などともありました。厳しい環境のアルバイトで、バイトの日当が筋肉痛のサロンパス代に足りないというのもありました。その迫真力には及びませんが、引き続き、私の貧しいバイト体験について触れさせていただきます。
私のバイト先は、クラブの先輩に紹介された学校そばの大衆食堂でした。そこで、皿洗いと出前持ちを1年間やりました。そこは、家族経営で、経営者夫婦と、かの丹波篠山(?)京都北部から丁稚奉公のようにやってきていた、従業員の人が二名おりました。私の勤務シフトは夕方からで、繁忙時間の3時間程度、そこの定食メニューがまかないにつき、時給は750円くらいで、当時とすれば、学生部のあっせんアルバイトと比較しても、決して低いものではなかったと思われます。当時、おじさん、おばさんの年齢に頓着することはなかったけれども、たぶん経営者は50歳代であり、社会人になった息子がおりました。彼は、早く帰った時は、家業の手伝いをしており、こども時代から、手伝いを行い家業に貢献する大事な息子であった、と推し量れます。
当該職場は、京都の定番の路地(本来京都では「ろうじ」と発音します。)のように、水にぬれた真っ黒いモルタルの土間が店の奥までどこまでも続き、私は、定食やどんぶりものの汚れたどんぶり鉢や小皿を、大きなシンクで洗っておりました。全部で三槽に別れ、最初に荒粗い、洗剤槽、最後に湯を張った槽が設置され、最後に皿、茶碗などの打ち上げ場がありました。繁忙時の食堂はやっぱり修羅場のようなものです。冬でも熱く、当時はまじめな学生でありましたので、ガスの熱気や湯音で大汗をかきながら必死でやっていました。洗剤は、四角の業務用の大缶入りのもので、粗悪で連続して使うと手が荒れたものです。
出前は、近所の雀荘という貸卓業の店がほとんどでした。学生と、勤め帰りのサラリーマンがほとんどでしたが、最初に言われたのが、貸卓の白い綿布の上には、「出前品を絶対に置かないでね」、ということでした。60歳を超えた夫妻と、化粧気のない顔で髪をひっつめにし、爪を長く伸ばしていた(しかし手入れをしていなかった。)地味な若い女の子が店番をしていました。後で、アルバイト仲間から、その女の子が娘と聞いていましたが、あるときたまたま出前にいったとき、代打ち(メンバーの足りない場合に替わりにゲームに入る店のサービス)をしており、普段の目立たぬ仕草(意識的なものであったかもしれず)や姿と比して、その落差に感じ入った覚えがあります。その後、私の後輩の男が、カレー焼きそばを白布の上にぶちまけてしまい、食堂のおばさんにも、わざわざ、注意を受けました。出前のたびに、広告紙に織り込まれた釣銭を持たされましたが、そのやり方にも深い伝統を感じます。アルバイト学生に対しても、使う立場での伝統があるんですね。勘定を間違えたとき、うぶな私の後輩は、「弁償します」と弁償したらしいですが、そこは商売人で、おばちゃんは、きちんと受け取ったようです。
当時のテレビのコマーシャルで、和装の下駄ばきの女の子が、「おとうちゃん、おとうちゃん、きはったえー」、と、待ち人の訪いに気づき、石畳の路地を駆け抜けるシーンがあり(菓子の「京えくぼ」だったか)ましたが、同様にこちらも薄暗い、モルタルの張られた路地ではあったけれども、同様に、路地から路地へ岡持ちを持って駆け巡っておりました。
当時の、同僚のフルタイムの方は、それぞれ30台と、40台であり、それぞれ、「将来は、のれん分けをするから」というような約束で、中卒(?) から(本人にはなかなか聞けませんでした。)勤務を始め、職場のヒエラルキーからいうと、バイトくんの私が一番下ですが、私がいないときの出前は30台の職員が行くようで、「出前に行って帰ってこない、Tさん呼びに行って」、と立ち読み中の本屋まで呼びに行かされたこともあります。気のいい人で、「予備(自転車)があるから、サイクリングに行こ」と、何度も誘われました。その上の序列の人が、客の注文に応じ、調理する人であり、雇われ人のトップになります。その方も温和な方でありましたが、大型バイクを乗り回し、非番の時は裏の雀荘で大勝負をするとのことでしたが、あるとき、「(君たちは大卒でええやろが)僕はS学会の指導があり幸せや」と信仰歴を教えてもらったことがありましたが、折伏まではありませんでした。
いずれにせよ、京都の商売屋の伝統は強固で、きちんと職業的分担がおかれ、相互に深く結びついています。いざとなれば、階層トップのおじちゃんが昔取った杵柄で調理やなんやらこなす筈です。かりそめのバイトくんが横はいりするようなものではないんですね。しかしながら、われわれの目からみても、Yというその大衆食堂が今後も隆盛を迎え、長続きするとは思えず、殊に若い方の店員さんが、やる気のないそぶりであったのも、将来への諦めがあったのかもしれません。さすがに京都にも、ファストフードのテェーン店が展開しつつある時代で、別の折に書きましたが、当時京都進出の四条河原町のマクドナルドでは新しい文化の到来であるかのように、アルバイト生にも面接(選別があったんですね。)がありました。
出前持ちの際にも、雀荘の客(バカ学生)に、「お前が、そばに来たから負けた」とか言いがかりをつけられたり、いつも仕事帰りの大学職員が「兄ちゃん、素そば(かけそば)もってきてや」とか、いろいろな事件・経験がありましたが、今思えば、興味深いアルバイトでした。しかしながら、夏場、バイトが終わると、銭湯に行く時間がぎりぎりになり、いけなかったときは、せつない思いをしたことがあります。
しかしながら、幸せなことに、「バイトに行かなければ即食えない」というところで、バイトをやらずに済んだのは幸せなことです。たぶん、余裕資金はほとんど、本に替わってしまいましたが、その本の中にも、いまだに読んでいない本があるのは、当時の自分に申し訳ないことです。
いらざることですが、例の、百田尚樹が私と同時期に在学しており、彼はすでにテレビなどの放送作家なのか働いていたということであり、キャンパスで出会うことも定期試験の時くらいしかなかったかもしれないところです。しかし、試験の時にはピアスをしたり、薄化粧をしたりしていた男(当時はとても珍しかった。)もいたので、ひょっとしたら、すれ違いもあったかもしれないところです。
実は、私、「永遠の0」が出版されたとき、生まれて初めて、ファンレターを出したことがあります(今まで秘密にしていましたが)。さすがに、返事は来なかったですが。
私のバイト先は、クラブの先輩に紹介された学校そばの大衆食堂でした。そこで、皿洗いと出前持ちを1年間やりました。そこは、家族経営で、経営者夫婦と、かの丹波篠山(?)京都北部から丁稚奉公のようにやってきていた、従業員の人が二名おりました。私の勤務シフトは夕方からで、繁忙時間の3時間程度、そこの定食メニューがまかないにつき、時給は750円くらいで、当時とすれば、学生部のあっせんアルバイトと比較しても、決して低いものではなかったと思われます。当時、おじさん、おばさんの年齢に頓着することはなかったけれども、たぶん経営者は50歳代であり、社会人になった息子がおりました。彼は、早く帰った時は、家業の手伝いをしており、こども時代から、手伝いを行い家業に貢献する大事な息子であった、と推し量れます。
当該職場は、京都の定番の路地(本来京都では「ろうじ」と発音します。)のように、水にぬれた真っ黒いモルタルの土間が店の奥までどこまでも続き、私は、定食やどんぶりものの汚れたどんぶり鉢や小皿を、大きなシンクで洗っておりました。全部で三槽に別れ、最初に荒粗い、洗剤槽、最後に湯を張った槽が設置され、最後に皿、茶碗などの打ち上げ場がありました。繁忙時の食堂はやっぱり修羅場のようなものです。冬でも熱く、当時はまじめな学生でありましたので、ガスの熱気や湯音で大汗をかきながら必死でやっていました。洗剤は、四角の業務用の大缶入りのもので、粗悪で連続して使うと手が荒れたものです。
出前は、近所の雀荘という貸卓業の店がほとんどでした。学生と、勤め帰りのサラリーマンがほとんどでしたが、最初に言われたのが、貸卓の白い綿布の上には、「出前品を絶対に置かないでね」、ということでした。60歳を超えた夫妻と、化粧気のない顔で髪をひっつめにし、爪を長く伸ばしていた(しかし手入れをしていなかった。)地味な若い女の子が店番をしていました。後で、アルバイト仲間から、その女の子が娘と聞いていましたが、あるときたまたま出前にいったとき、代打ち(メンバーの足りない場合に替わりにゲームに入る店のサービス)をしており、普段の目立たぬ仕草(意識的なものであったかもしれず)や姿と比して、その落差に感じ入った覚えがあります。その後、私の後輩の男が、カレー焼きそばを白布の上にぶちまけてしまい、食堂のおばさんにも、わざわざ、注意を受けました。出前のたびに、広告紙に織り込まれた釣銭を持たされましたが、そのやり方にも深い伝統を感じます。アルバイト学生に対しても、使う立場での伝統があるんですね。勘定を間違えたとき、うぶな私の後輩は、「弁償します」と弁償したらしいですが、そこは商売人で、おばちゃんは、きちんと受け取ったようです。
当時のテレビのコマーシャルで、和装の下駄ばきの女の子が、「おとうちゃん、おとうちゃん、きはったえー」、と、待ち人の訪いに気づき、石畳の路地を駆け抜けるシーンがあり(菓子の「京えくぼ」だったか)ましたが、同様にこちらも薄暗い、モルタルの張られた路地ではあったけれども、同様に、路地から路地へ岡持ちを持って駆け巡っておりました。
当時の、同僚のフルタイムの方は、それぞれ30台と、40台であり、それぞれ、「将来は、のれん分けをするから」というような約束で、中卒(?) から(本人にはなかなか聞けませんでした。)勤務を始め、職場のヒエラルキーからいうと、バイトくんの私が一番下ですが、私がいないときの出前は30台の職員が行くようで、「出前に行って帰ってこない、Tさん呼びに行って」、と立ち読み中の本屋まで呼びに行かされたこともあります。気のいい人で、「予備(自転車)があるから、サイクリングに行こ」と、何度も誘われました。その上の序列の人が、客の注文に応じ、調理する人であり、雇われ人のトップになります。その方も温和な方でありましたが、大型バイクを乗り回し、非番の時は裏の雀荘で大勝負をするとのことでしたが、あるとき、「(君たちは大卒でええやろが)僕はS学会の指導があり幸せや」と信仰歴を教えてもらったことがありましたが、折伏まではありませんでした。
いずれにせよ、京都の商売屋の伝統は強固で、きちんと職業的分担がおかれ、相互に深く結びついています。いざとなれば、階層トップのおじちゃんが昔取った杵柄で調理やなんやらこなす筈です。かりそめのバイトくんが横はいりするようなものではないんですね。しかしながら、われわれの目からみても、Yというその大衆食堂が今後も隆盛を迎え、長続きするとは思えず、殊に若い方の店員さんが、やる気のないそぶりであったのも、将来への諦めがあったのかもしれません。さすがに京都にも、ファストフードのテェーン店が展開しつつある時代で、別の折に書きましたが、当時京都進出の四条河原町のマクドナルドでは新しい文化の到来であるかのように、アルバイト生にも面接(選別があったんですね。)がありました。
出前持ちの際にも、雀荘の客(バカ学生)に、「お前が、そばに来たから負けた」とか言いがかりをつけられたり、いつも仕事帰りの大学職員が「兄ちゃん、素そば(かけそば)もってきてや」とか、いろいろな事件・経験がありましたが、今思えば、興味深いアルバイトでした。しかしながら、夏場、バイトが終わると、銭湯に行く時間がぎりぎりになり、いけなかったときは、せつない思いをしたことがあります。
しかしながら、幸せなことに、「バイトに行かなければ即食えない」というところで、バイトをやらずに済んだのは幸せなことです。たぶん、余裕資金はほとんど、本に替わってしまいましたが、その本の中にも、いまだに読んでいない本があるのは、当時の自分に申し訳ないことです。
いらざることですが、例の、百田尚樹が私と同時期に在学しており、彼はすでにテレビなどの放送作家なのか働いていたということであり、キャンパスで出会うことも定期試験の時くらいしかなかったかもしれないところです。しかし、試験の時にはピアスをしたり、薄化粧をしたりしていた男(当時はとても珍しかった。)もいたので、ひょっとしたら、すれ違いもあったかもしれないところです。
実は、私、「永遠の0」が出版されたとき、生まれて初めて、ファンレターを出したことがあります(今まで秘密にしていましたが)。さすがに、返事は来なかったですが。