毎日、朝の条件が許すかぎり、NHKEテレ「にほんごであそぼ」から、「0655」、「シャキーン」に至るまで、一連の番組を愛視聴しておりますが、本日は、「日本語であそぼ」について言及します。
この番組は、日本語の面白さや、近代の日本芸能や、文化を扱ったり興味深いところではあります。殊に、洋楽から唱歌に係るまであらゆる楽曲に対応し大きな鳥の模型を肩に乗せたシュールな姿(説明が難しくまことに超現実的な姿です。)の藤原道山さんの、尺八演奏は聞くべき価値があります。ほかにも、人形浄瑠璃の太夫の語りや、人形の操作など、こどもが見るにはきわめて貴重なものです。そのあたりは、演者も心得ているようで、底辺を広げるためにか(?) 大変前向きです。そのほか、着ぐるみ仮装の元大相撲のコニチャン(小錦)が歌い、幼児と遊戯をするのも、面白いものです。
先ごろのヒットを挙げれば、東京近郊のてまり歌なのか、「一番初めは一の宮、・・・・・・・・」から始まり、十番まで行くと地元の東京心願寺まで帰っていく、お寺社づくしの数え歌ですが、その選択といい、大変興味深いものです。日本中の名刹、鎮守を巡り、最後は自分のなじみ深い寺に帰ってくる、たぶんその歌詞は軒端遊びのパターンなんですね。われわれとは文化圏が違うので、私は生まれて初めて聞きましたが、関東圏の人によっては思い入れのある、慣れ親しんだ数え歌なのでしょう晩節の吉本隆明が、「○番目は、どこだったのかなー」と述懐していたといいますが、その状況や幼児期の 記憶への執着(?) が、感覚・体験的にも私にもよくわかるところです。
この番組は、「恋そめしわれ」に代表されるように、ごく目立たない普通の男の子、女の子たちが、グループでレギュラー出演しているようですが、その年代間で差があるところも笑えるところです。最初はこどもこどもしていた筈のこどもたちがだんだん年を経て育っていき、わが子(孫)を見るようなその好ましいような変化がカメラを通して見えるようで楽しみでもあります。観ている我々にも、彼らの、「時分の花」のかわいさ、その良さがよく伝わってくるのです。私の個人的な好みでは、「恋そめしわれ」、「あさき夢みし」、の彼女たち(「ちーむ・をとめ座」)の行く末を観たいとおもいますが。
このたびの、その評判がどうなのか今まで知らなかったところですが、新たに、ちょうど思春期前期の変声期にあると思われる、男ども三人の歌及びダンス「華麗に(もてる男の)鼻濁音(びだくおん)」が始まっています。てるみくん、あもんくん、かいとくん、「ちーむ☆ひこぼし」の命名で、現在、とても膾炙しているようです。私、このたび、日本語に鼻濁音が在ることを、初めて知りました。殊に西日本では、使用する文化がない、ということも聞きましたが、ところで、昔、「がきデカ」のこまわり君の、「ん、がア―」という一発ギャグはありましたが、あれも何を隠そう鼻濁音なんですね、彼は決してもてなかったが、しもぶくれがかわいいこまわり君であったわけですが、先の、てまり歌と同様に、私の知らなかったことはいくらもあるものです。
しかしながら、「恋そめしわれ」、「あさき夢みし」のヒットで、「をとめ座」に押されるばかりであり、いまいち精彩を欠いていた、例の男組3人組(途中であと2人加わる。)、彼らの奮闘と、彼らが操る鼻濁音が、美しい日本語でない、というつもりは毛頭ありませんが。
(ここから暴走します。)
しかし、なぜ、曲名が「華麗に鼻濁音」なのか、よく理解できないところです。はっきり言って、私のような長州人としては聞き苦しい。もし、鼻濁音といえばフランス語、フランス語をしゃべるのはフランス人、フランス人はよくもてる(ワンダフルラバー(優秀な愛人)ということですかね。)、良くもてるのには鼻濁音、といった、安易な連想の八艘とびにつながっているのだろうか、と勘繰ってしまう。
昔、昔、その昔、近所のおねいさんに、「アラン・ドロンを見ると、体の芯までしびれる」と教えていただいたことがあり、「いい男とはそういう人なのか」とこども心に思い、その時の呪縛からか、「サムライ」(最近有料BS放送の放映があったぞ、寡黙で禁欲的な殺し屋の生と死を描いた印象に残る映画でした。)という映画を、最初に見たとき、「何とかっこいい」と、こども心(小学校高学年だったと思う。)に思いました。俗にいう「苦み走ったいい男」というやつですかね、その後も、昔、日本のブランド既製服、「ダーバン」のアラン・ドロンによるコマーシャル、「ダーバン、セ、レレガンス、デュロ、モデルヌ(Tの責任聞き取り)」(1974年、昭和49年)で、その時、是非、ダーバンのスーツを着たい、と強く思ったわけです。一張羅のダイエーのスーツしかなかった私も、人並みに、良いスーツを着て、もてたかったのでしょうね。
しかし、その後は、女性にもてる鼻濁音の男を知らず、フランス人にそんないい男もいないじゃないか、と思っていました(知らないだけかもしれないが。しかし、そうとも思えない。)。そして、当然、極東の日本人と同様で、デブもいれば、ハゲも、不細工な奴もいるわけですが。
ただ、一人、後年日本にも来た、「言葉と物」の著者のミシュル・フーコーのその魁偉ともいうべき巨大な禿頭と造作の大きい容貌とその存在感にびっくりしました。これも知識人なのだと、その時、やっぱり、異人さんというのはいる、と心底思った次第です。
手元に本がなくなり、うろ覚えになってしまいますが、良い時代の内村剛介が、彼の「生き急ぐースターリン獄の日本人」という著書で、ロシアラーゲリ(強制収容所)での、極限状況における様々な人種の生態を描いた一節があり、先進国人である筈のフランス人は、食い物に汚く徹底した自己主義であり、むしろその鼻音も聞き苦しい、むしろ、後進国の(ラーゲリに入れられた)ロシア人の方が、おおらかで、人間性も豊かである、とも書いていたと思いだします。
それからまたずっとあと、例の「シャルリ騒ぎ」を経て、こいつら(その扇動と盛り上がり方を見てフランス国民の多くも)、結構バカじゃないか、と私は思ってしまいました。
要は、外見など大してあてにならないのは確かなことなのですが、しかし、かの、エマニュエル・トッド氏は、写真で見ても外見もいい男であり、そのうえ自立した知識人としても社会学者としても十分に買える人であります。しかし、彼が肩入れする、「自由」、「平等」、「博愛(実は同胞愛)」が、現在の世界規模で、どれだけ有効なのか、疑義がないわけでもないですが。
結局、私には、フランス人が過剰に自負するように(嘘とは言わせないぞ。散々見てきたからな。)、たかだかフランス民族語の「鼻濁音が、ステキ」とはあまり思えないわけです。こういうのを、悪しき「共同幻想」というんじゃないのですかね。
深読みすると、現在この番組のMCを勤める、シャンソン歌手、美輪明宏(1935年生まれ)氏の影響下の作られた歌かなと思ってしまうのです。彼の、政治的・社会的発言を私は評価しません(彼をモデルにした野田秀樹作の「MIWA」という劇はとても良い出来だったが。)。
彼の生育した時代はいざ知らず、我々の世代では、欧米系の国々に対する幻滅で、さすがにコンプレックスは希薄になったように思われ、また、短大・高専・大卒の人口割合が40%を超えるようなこの国で、逆に一部の文化人のように欧米国家が社会・国家的にも、理念的にも、先進国であるという虚妄の偏見に、今更、すがる必要などないじゃあありませんか。
多くの日本人が「どこの民族国家も、ちょぼちょぼや」、と思っており、鼻濁音云々は、同様に英語において「もてる男はRとLをきちんと分けてしゃべれる」という安いテーゼと似たようなものです。他国民にとっては、等しく陳腐で無意味な見解である、という意味で。
「日本語は美しいぞ」、私は、田村隆一や、鮎川信夫、あるいは吉増剛三の良い詩は、きわめて美しいと思う。古典でも、あるいは樋口一葉の「たけくらべ」など、その朗読だけを聞いていても、慰藉と、民族語日本語の美しさをわれわれに与えてくれる。最初に小学校の学校放送で聴いて当時心底感心した覚えがある。もともと「にほんごであそぼ」は、古き美しい日本語を、若い世代に継承する試みではなかったのか、と思うところです。
また、明治以降の近代の先人たちの苦心と多大な労苦による達成で、ランボーも、ファーブルもこなれた日本語で読めることはありがたいことです。
当該楽曲は、当該番組に登場していた、三味線演奏家、「うなりやベベン」の作詞ということになっています。この曲は、「ことばあそび」、お遊びかもしれない。しかし、もし、彼が、おフランス人、おフランス語に、過剰の意味を感じ、迎合しているのであれば、そんな質の悪い共同幻想には早くおさらばした方がいいですね、また、このたび、そんなつまらない伝承(悪しき共同幻想を)を、反復継続することで、次のまた次の世代に継承しない方が良いですね、と思います。
私、EU内部での、フランス政府及びそれに同調するフランス国民の身の処し方、グローバリズム全肯定に深く苛立っています。そして、一般的に、欧米国家の、バイアスのかかった考え方と、それを意識化することもなしに、他の文化圏の違う民族国家に、独自文化・宗教を貶め、その価値観を押し付ける傲慢さに同じく深く苛立っています。
私は、今後とも、愚かな日本政府が過剰に迎合した、TPP条約を通じた、一部、米欧金融資本の、国境を超える暴虐に対し、引き続き、闘っていきたいと思います。
ところで、男の子3人組、思春期前期の、「ちーむ・ひこ星」、てるみくん、あもんくん、かいとくん、彼らが操る鼻濁音が美しい日本語でない、という議論はしません。それは、受け取る恣意でしかないような問題でしょうから。
しかし、もう一つ、この良質な番組において、一言申し上げたい。
宮澤賢治の素朴な詩(?)「雨ニモ負ケズ」に乗せて、その辺のフツーのおっさんに、自分の生きざまを、「素朴に」、自己肯定させるのはやめろ、あれは見苦しい。
今後、あんな調子で、そこらあたりのおっさんが、あちこちの街角で、ストリートミュージシャンのように、つぶやきだしたらどうするのだ。非常に不快である、あれは男の病だ。賢い(あるいは徹頭徹尾リアリストである)女どもは、あんな無様な真似は決してしない。
おやじよ、長くつぶやくのはブログだけにしろ、それがまっとうなやり方です。
かつて、それぞれの方言で、あの「雨ニモ負ケズ」を原典のとおり朗読させる試みは、あれは「にほんごであそぼ」らしく面白かった、はずなのですが。
これからも、「にほんごであそぼ」のスタッフの方々の、様々な、優良な取り組みを期待しています。
この番組は、日本語の面白さや、近代の日本芸能や、文化を扱ったり興味深いところではあります。殊に、洋楽から唱歌に係るまであらゆる楽曲に対応し大きな鳥の模型を肩に乗せたシュールな姿(説明が難しくまことに超現実的な姿です。)の藤原道山さんの、尺八演奏は聞くべき価値があります。ほかにも、人形浄瑠璃の太夫の語りや、人形の操作など、こどもが見るにはきわめて貴重なものです。そのあたりは、演者も心得ているようで、底辺を広げるためにか(?) 大変前向きです。そのほか、着ぐるみ仮装の元大相撲のコニチャン(小錦)が歌い、幼児と遊戯をするのも、面白いものです。
先ごろのヒットを挙げれば、東京近郊のてまり歌なのか、「一番初めは一の宮、・・・・・・・・」から始まり、十番まで行くと地元の東京心願寺まで帰っていく、お寺社づくしの数え歌ですが、その選択といい、大変興味深いものです。日本中の名刹、鎮守を巡り、最後は自分のなじみ深い寺に帰ってくる、たぶんその歌詞は軒端遊びのパターンなんですね。われわれとは文化圏が違うので、私は生まれて初めて聞きましたが、関東圏の人によっては思い入れのある、慣れ親しんだ数え歌なのでしょう晩節の吉本隆明が、「○番目は、どこだったのかなー」と述懐していたといいますが、その状況や幼児期の 記憶への執着(?) が、感覚・体験的にも私にもよくわかるところです。
この番組は、「恋そめしわれ」に代表されるように、ごく目立たない普通の男の子、女の子たちが、グループでレギュラー出演しているようですが、その年代間で差があるところも笑えるところです。最初はこどもこどもしていた筈のこどもたちがだんだん年を経て育っていき、わが子(孫)を見るようなその好ましいような変化がカメラを通して見えるようで楽しみでもあります。観ている我々にも、彼らの、「時分の花」のかわいさ、その良さがよく伝わってくるのです。私の個人的な好みでは、「恋そめしわれ」、「あさき夢みし」、の彼女たち(「ちーむ・をとめ座」)の行く末を観たいとおもいますが。
このたびの、その評判がどうなのか今まで知らなかったところですが、新たに、ちょうど思春期前期の変声期にあると思われる、男ども三人の歌及びダンス「華麗に(もてる男の)鼻濁音(びだくおん)」が始まっています。てるみくん、あもんくん、かいとくん、「ちーむ☆ひこぼし」の命名で、現在、とても膾炙しているようです。私、このたび、日本語に鼻濁音が在ることを、初めて知りました。殊に西日本では、使用する文化がない、ということも聞きましたが、ところで、昔、「がきデカ」のこまわり君の、「ん、がア―」という一発ギャグはありましたが、あれも何を隠そう鼻濁音なんですね、彼は決してもてなかったが、しもぶくれがかわいいこまわり君であったわけですが、先の、てまり歌と同様に、私の知らなかったことはいくらもあるものです。
しかしながら、「恋そめしわれ」、「あさき夢みし」のヒットで、「をとめ座」に押されるばかりであり、いまいち精彩を欠いていた、例の男組3人組(途中であと2人加わる。)、彼らの奮闘と、彼らが操る鼻濁音が、美しい日本語でない、というつもりは毛頭ありませんが。
(ここから暴走します。)
しかし、なぜ、曲名が「華麗に鼻濁音」なのか、よく理解できないところです。はっきり言って、私のような長州人としては聞き苦しい。もし、鼻濁音といえばフランス語、フランス語をしゃべるのはフランス人、フランス人はよくもてる(ワンダフルラバー(優秀な愛人)ということですかね。)、良くもてるのには鼻濁音、といった、安易な連想の八艘とびにつながっているのだろうか、と勘繰ってしまう。
昔、昔、その昔、近所のおねいさんに、「アラン・ドロンを見ると、体の芯までしびれる」と教えていただいたことがあり、「いい男とはそういう人なのか」とこども心に思い、その時の呪縛からか、「サムライ」(最近有料BS放送の放映があったぞ、寡黙で禁欲的な殺し屋の生と死を描いた印象に残る映画でした。)という映画を、最初に見たとき、「何とかっこいい」と、こども心(小学校高学年だったと思う。)に思いました。俗にいう「苦み走ったいい男」というやつですかね、その後も、昔、日本のブランド既製服、「ダーバン」のアラン・ドロンによるコマーシャル、「ダーバン、セ、レレガンス、デュロ、モデルヌ(Tの責任聞き取り)」(1974年、昭和49年)で、その時、是非、ダーバンのスーツを着たい、と強く思ったわけです。一張羅のダイエーのスーツしかなかった私も、人並みに、良いスーツを着て、もてたかったのでしょうね。
しかし、その後は、女性にもてる鼻濁音の男を知らず、フランス人にそんないい男もいないじゃないか、と思っていました(知らないだけかもしれないが。しかし、そうとも思えない。)。そして、当然、極東の日本人と同様で、デブもいれば、ハゲも、不細工な奴もいるわけですが。
ただ、一人、後年日本にも来た、「言葉と物」の著者のミシュル・フーコーのその魁偉ともいうべき巨大な禿頭と造作の大きい容貌とその存在感にびっくりしました。これも知識人なのだと、その時、やっぱり、異人さんというのはいる、と心底思った次第です。
手元に本がなくなり、うろ覚えになってしまいますが、良い時代の内村剛介が、彼の「生き急ぐースターリン獄の日本人」という著書で、ロシアラーゲリ(強制収容所)での、極限状況における様々な人種の生態を描いた一節があり、先進国人である筈のフランス人は、食い物に汚く徹底した自己主義であり、むしろその鼻音も聞き苦しい、むしろ、後進国の(ラーゲリに入れられた)ロシア人の方が、おおらかで、人間性も豊かである、とも書いていたと思いだします。
それからまたずっとあと、例の「シャルリ騒ぎ」を経て、こいつら(その扇動と盛り上がり方を見てフランス国民の多くも)、結構バカじゃないか、と私は思ってしまいました。
要は、外見など大してあてにならないのは確かなことなのですが、しかし、かの、エマニュエル・トッド氏は、写真で見ても外見もいい男であり、そのうえ自立した知識人としても社会学者としても十分に買える人であります。しかし、彼が肩入れする、「自由」、「平等」、「博愛(実は同胞愛)」が、現在の世界規模で、どれだけ有効なのか、疑義がないわけでもないですが。
結局、私には、フランス人が過剰に自負するように(嘘とは言わせないぞ。散々見てきたからな。)、たかだかフランス民族語の「鼻濁音が、ステキ」とはあまり思えないわけです。こういうのを、悪しき「共同幻想」というんじゃないのですかね。
深読みすると、現在この番組のMCを勤める、シャンソン歌手、美輪明宏(1935年生まれ)氏の影響下の作られた歌かなと思ってしまうのです。彼の、政治的・社会的発言を私は評価しません(彼をモデルにした野田秀樹作の「MIWA」という劇はとても良い出来だったが。)。
彼の生育した時代はいざ知らず、我々の世代では、欧米系の国々に対する幻滅で、さすがにコンプレックスは希薄になったように思われ、また、短大・高専・大卒の人口割合が40%を超えるようなこの国で、逆に一部の文化人のように欧米国家が社会・国家的にも、理念的にも、先進国であるという虚妄の偏見に、今更、すがる必要などないじゃあありませんか。
多くの日本人が「どこの民族国家も、ちょぼちょぼや」、と思っており、鼻濁音云々は、同様に英語において「もてる男はRとLをきちんと分けてしゃべれる」という安いテーゼと似たようなものです。他国民にとっては、等しく陳腐で無意味な見解である、という意味で。
「日本語は美しいぞ」、私は、田村隆一や、鮎川信夫、あるいは吉増剛三の良い詩は、きわめて美しいと思う。古典でも、あるいは樋口一葉の「たけくらべ」など、その朗読だけを聞いていても、慰藉と、民族語日本語の美しさをわれわれに与えてくれる。最初に小学校の学校放送で聴いて当時心底感心した覚えがある。もともと「にほんごであそぼ」は、古き美しい日本語を、若い世代に継承する試みではなかったのか、と思うところです。
また、明治以降の近代の先人たちの苦心と多大な労苦による達成で、ランボーも、ファーブルもこなれた日本語で読めることはありがたいことです。
当該楽曲は、当該番組に登場していた、三味線演奏家、「うなりやベベン」の作詞ということになっています。この曲は、「ことばあそび」、お遊びかもしれない。しかし、もし、彼が、おフランス人、おフランス語に、過剰の意味を感じ、迎合しているのであれば、そんな質の悪い共同幻想には早くおさらばした方がいいですね、また、このたび、そんなつまらない伝承(悪しき共同幻想を)を、反復継続することで、次のまた次の世代に継承しない方が良いですね、と思います。
私、EU内部での、フランス政府及びそれに同調するフランス国民の身の処し方、グローバリズム全肯定に深く苛立っています。そして、一般的に、欧米国家の、バイアスのかかった考え方と、それを意識化することもなしに、他の文化圏の違う民族国家に、独自文化・宗教を貶め、その価値観を押し付ける傲慢さに同じく深く苛立っています。
私は、今後とも、愚かな日本政府が過剰に迎合した、TPP条約を通じた、一部、米欧金融資本の、国境を超える暴虐に対し、引き続き、闘っていきたいと思います。
ところで、男の子3人組、思春期前期の、「ちーむ・ひこ星」、てるみくん、あもんくん、かいとくん、彼らが操る鼻濁音が美しい日本語でない、という議論はしません。それは、受け取る恣意でしかないような問題でしょうから。
しかし、もう一つ、この良質な番組において、一言申し上げたい。
宮澤賢治の素朴な詩(?)「雨ニモ負ケズ」に乗せて、その辺のフツーのおっさんに、自分の生きざまを、「素朴に」、自己肯定させるのはやめろ、あれは見苦しい。
今後、あんな調子で、そこらあたりのおっさんが、あちこちの街角で、ストリートミュージシャンのように、つぶやきだしたらどうするのだ。非常に不快である、あれは男の病だ。賢い(あるいは徹頭徹尾リアリストである)女どもは、あんな無様な真似は決してしない。
おやじよ、長くつぶやくのはブログだけにしろ、それがまっとうなやり方です。
かつて、それぞれの方言で、あの「雨ニモ負ケズ」を原典のとおり朗読させる試みは、あれは「にほんごであそぼ」らしく面白かった、はずなのですが。
これからも、「にほんごであそぼ」のスタッフの方々の、様々な、優良な取り組みを期待しています。