昔(最近いつも同じ出だしになってしまい我ながら恥ずかしいことです。)、学生時代(1974年から1978年まで)のころ、私は、京都の私大の、文学・社会科学系のサークルに入っていました。
70年代全共闘の余波で、怒れる若者たちの「政治の時代」のくすぶりくらいはまだ残っており、サークルの先輩にも、高共闘(高校版全共闘)で退学処分、大検、受験入学のような人もおり、普段は温厚でおとなしいが、酒を飲むと暴れるとか、殴られるとか、畏怖と、敬遠のような存在となっていました。そんな人たち、オールド・ボルシェヴィキは、すでにサークルに来ることはなく、語り草のようになっていました。
74年入学の私とすれば、それなりの「青春期」の鬱屈を抱え、まだ、政治の時代の余燼くらいは残っている大学で、政治目的(?)は別にして、学校の教養課程の郊外移転とかに絡み、ストライキとか、ロックアウトとかはまだ残っておりました。キャンパスでは、運悪く学生に捕まった学長の吊るし上げなどがありましたが、自分たちの社会通念をか、世論を恐れたか、大学当局はまだ、学生自治(?)に直接に手を出さず、徒党政治学生に遠慮し、徒党政治学生たちは、表向き学友会自治の学生会館に居ついていました。当該学生会館は、地階から5階まであらゆる壁とドアはお互いに貼り塗りつぶしあったビラで一杯で、階段や踊り場は、立て看板で足の踏み場もないようです。ビラとレジュメをきるためのガリ版のインクのにおいの中で(そのにおいを今も思い出してしまいます。)、一般学生としては、時間を持て余し、サークルの部室で、昨日読んだ本を今日話すような議論を毎日していました。
また、当時、暇に任せ、一生分、近所の喫茶店に通ったような気がします。
第二次オイルショック(1973年)の影響で、物価(学生食堂で、今日からAランチ80円値上げとかありました。それでも150円くらいです。)、学費等が一気に引き上げられ、学費引きあげ反対デモもあり、一般学生を含めた、少なからぬ学生たちが参加したことも確かだったのですが。
全共闘の後かどうか、現代詩がはやり、石原吉郎、荒地派、鮎川信夫、北村太郎、田村隆一、そして吉本隆明などが全盛で、ごく普通に、現代詩文庫の詩集が売れ、あのマイナー雑誌「現代詩手帳」が書店に山積みでした。「死霊」の埴谷雄高を含め、言葉によるロゴスの力とか、思想とかまだまだ重みがあり、若者、学生が突き動かされる状況もあったと思います。
団塊世代の橋本治が、彼の世代では(東大全共闘の時代)「吉本隆明はチャンピオンだった」と言っていましたが、それ以降それなりの時間は経過していたにせよ、京都は田舎なのか、まだまだ、高共闘崩れ(?)を含め、根強い支持と、人気を集めていました。
当時、サークルでは、景気づけに、例年行事で、定期的な講演会をやろうとしていましたが、わが大学の出身でもあり、現代詩人でもあった清水昶さんを呼びました。本当は、吉本隆明を呼びたかったのですが、もし呼べば学内の徒党政治党派(?)(今思えば「笑っちゃお」、ですが)と明らかな対立関係となり、それ以上に、お前ら程度で、あの吉本が呼べるのかよ、という身内(?)からの見下しや圧力がきつかったように思われます。(私の在学中に、一度京大の西部講堂で講演会があり、当日、到底会場にたどりつけず、参加を断念しました。あとで聞いた話では、吉本隆明に反対する政治党派がいろいろ集まり、腰の据わらぬ主催者はバタバタだったらしいです。)
また、吉本隆明の長女の多子(ハルノ宵子)さんが、京都青華女短に在学していたこともあり、父、吉本隆明は講演を快諾されたそうです。当該講演のことをあとで聞いて、残念な思いをしました。
ところで、清水昶さんは、軍人の家に生まれ、海外から引き揚げてきた人で、戦後の混乱と戦後民主主義の始まりを経てきた人でもあり、当時、詩人としても評論家としても人気があった人でした。学生の生意気な質問にも、本心は「ナイーブ(バカ)だなー」と思ったでしょうが、自然体で、真摯に答えてくれました。講演終了後の、歓迎会会場まで、京都御所そばの寺町通りを四条通りまで、一緒に歩いてもらいましたが、今、思い起こせば、昔ここはどうだった、ここは中原中也が住んでいたとか、この書店のおやじは昔武装共産党にいたとか、知らない話もあり、結局、当時の学生はどうだったとかの話に終始してしまい、今思い起こせば、大変快い時間であったことしか覚えていません。
その清水昶氏は、2011年に物故されました。
私たちの前年の講演会で、夏目漱石の研究家として著名な、山口県の梅光女学院の佐藤泰正先生に、夏目漱石について講演してもらいました。「漱石と明治の精神」という演題だったと思いますが、その時、佐藤先生には、学究者としての品位とか、長い時間をかけ、取得した、教養の重み(?)というか精神性のようなものを感じさせてもらいました。
かの、先生とはもう一度、山内県で開催された梅光女学院(一応チャペルがあった学校だったぞ)の出張市民講座で出会いました。「宮沢賢治」がテーマでしたが、当時とまったく変わらぬような様子で、遺書で親族に改宗を迫った宮沢賢治の法華信仰に触れた中で(実際改宗するんですね。)、私が、佐藤先生は何か信仰があるのですか、と聞いたときに、「私の代から、カソリックです」、との回答で、なんとなくその背景を納得したところです。
当該梅光女学院は、高校を退職した詩人の北川透が教師になっていました(今はどうなったかわかりません。)。また、学長佐藤泰正さんの関係でしょうが、吉本隆明を招いた講演会があり、吉本は、遠藤周作をこきおろし、ナイーブな女子学生の憤激と悲しみを買ったらしい、です。大騒ぎだったろうが、出られるものならば私も出て、遠藤周作の通俗さについて、私見を一言申し述べたかった。
その後、京都のかつてのキャンパスと、学生会館に行ってみましたが、校舎は相変わらずぼろで、学長たちが必死で作った当時最新鋭の図書館も少し陰りがみられ、学生会館に至っては、旧建物は完全に建て替わり、私の風体が悪いのか、前に立つだけで、警備員がよって来るような体たらくで、二度と来るかよ、と捨てゼリフを投げたいような実態でした。
徒党を組んだ「サヨク暴力学生」は、当時はその程度のものだったが、キャンパスの警備を外注するような、大学とはいかがなものでしょうか、とも思われました。
同時に、京都は、喫茶店も、ジャズ喫茶なども淘汰され淋しい限りです。ドアを開けると、紫煙の中から「きっ」と睨まれた、斜に構えた、あの汚い学生たちはどこへ行ったのだろう。
70年代全共闘の余波で、怒れる若者たちの「政治の時代」のくすぶりくらいはまだ残っており、サークルの先輩にも、高共闘(高校版全共闘)で退学処分、大検、受験入学のような人もおり、普段は温厚でおとなしいが、酒を飲むと暴れるとか、殴られるとか、畏怖と、敬遠のような存在となっていました。そんな人たち、オールド・ボルシェヴィキは、すでにサークルに来ることはなく、語り草のようになっていました。
74年入学の私とすれば、それなりの「青春期」の鬱屈を抱え、まだ、政治の時代の余燼くらいは残っている大学で、政治目的(?)は別にして、学校の教養課程の郊外移転とかに絡み、ストライキとか、ロックアウトとかはまだ残っておりました。キャンパスでは、運悪く学生に捕まった学長の吊るし上げなどがありましたが、自分たちの社会通念をか、世論を恐れたか、大学当局はまだ、学生自治(?)に直接に手を出さず、徒党政治学生に遠慮し、徒党政治学生たちは、表向き学友会自治の学生会館に居ついていました。当該学生会館は、地階から5階まであらゆる壁とドアはお互いに貼り塗りつぶしあったビラで一杯で、階段や踊り場は、立て看板で足の踏み場もないようです。ビラとレジュメをきるためのガリ版のインクのにおいの中で(そのにおいを今も思い出してしまいます。)、一般学生としては、時間を持て余し、サークルの部室で、昨日読んだ本を今日話すような議論を毎日していました。
また、当時、暇に任せ、一生分、近所の喫茶店に通ったような気がします。
第二次オイルショック(1973年)の影響で、物価(学生食堂で、今日からAランチ80円値上げとかありました。それでも150円くらいです。)、学費等が一気に引き上げられ、学費引きあげ反対デモもあり、一般学生を含めた、少なからぬ学生たちが参加したことも確かだったのですが。
全共闘の後かどうか、現代詩がはやり、石原吉郎、荒地派、鮎川信夫、北村太郎、田村隆一、そして吉本隆明などが全盛で、ごく普通に、現代詩文庫の詩集が売れ、あのマイナー雑誌「現代詩手帳」が書店に山積みでした。「死霊」の埴谷雄高を含め、言葉によるロゴスの力とか、思想とかまだまだ重みがあり、若者、学生が突き動かされる状況もあったと思います。
団塊世代の橋本治が、彼の世代では(東大全共闘の時代)「吉本隆明はチャンピオンだった」と言っていましたが、それ以降それなりの時間は経過していたにせよ、京都は田舎なのか、まだまだ、高共闘崩れ(?)を含め、根強い支持と、人気を集めていました。
当時、サークルでは、景気づけに、例年行事で、定期的な講演会をやろうとしていましたが、わが大学の出身でもあり、現代詩人でもあった清水昶さんを呼びました。本当は、吉本隆明を呼びたかったのですが、もし呼べば学内の徒党政治党派(?)(今思えば「笑っちゃお」、ですが)と明らかな対立関係となり、それ以上に、お前ら程度で、あの吉本が呼べるのかよ、という身内(?)からの見下しや圧力がきつかったように思われます。(私の在学中に、一度京大の西部講堂で講演会があり、当日、到底会場にたどりつけず、参加を断念しました。あとで聞いた話では、吉本隆明に反対する政治党派がいろいろ集まり、腰の据わらぬ主催者はバタバタだったらしいです。)
また、吉本隆明の長女の多子(ハルノ宵子)さんが、京都青華女短に在学していたこともあり、父、吉本隆明は講演を快諾されたそうです。当該講演のことをあとで聞いて、残念な思いをしました。
ところで、清水昶さんは、軍人の家に生まれ、海外から引き揚げてきた人で、戦後の混乱と戦後民主主義の始まりを経てきた人でもあり、当時、詩人としても評論家としても人気があった人でした。学生の生意気な質問にも、本心は「ナイーブ(バカ)だなー」と思ったでしょうが、自然体で、真摯に答えてくれました。講演終了後の、歓迎会会場まで、京都御所そばの寺町通りを四条通りまで、一緒に歩いてもらいましたが、今、思い起こせば、昔ここはどうだった、ここは中原中也が住んでいたとか、この書店のおやじは昔武装共産党にいたとか、知らない話もあり、結局、当時の学生はどうだったとかの話に終始してしまい、今思い起こせば、大変快い時間であったことしか覚えていません。
その清水昶氏は、2011年に物故されました。
私たちの前年の講演会で、夏目漱石の研究家として著名な、山口県の梅光女学院の佐藤泰正先生に、夏目漱石について講演してもらいました。「漱石と明治の精神」という演題だったと思いますが、その時、佐藤先生には、学究者としての品位とか、長い時間をかけ、取得した、教養の重み(?)というか精神性のようなものを感じさせてもらいました。
かの、先生とはもう一度、山内県で開催された梅光女学院(一応チャペルがあった学校だったぞ)の出張市民講座で出会いました。「宮沢賢治」がテーマでしたが、当時とまったく変わらぬような様子で、遺書で親族に改宗を迫った宮沢賢治の法華信仰に触れた中で(実際改宗するんですね。)、私が、佐藤先生は何か信仰があるのですか、と聞いたときに、「私の代から、カソリックです」、との回答で、なんとなくその背景を納得したところです。
当該梅光女学院は、高校を退職した詩人の北川透が教師になっていました(今はどうなったかわかりません。)。また、学長佐藤泰正さんの関係でしょうが、吉本隆明を招いた講演会があり、吉本は、遠藤周作をこきおろし、ナイーブな女子学生の憤激と悲しみを買ったらしい、です。大騒ぎだったろうが、出られるものならば私も出て、遠藤周作の通俗さについて、私見を一言申し述べたかった。
その後、京都のかつてのキャンパスと、学生会館に行ってみましたが、校舎は相変わらずぼろで、学長たちが必死で作った当時最新鋭の図書館も少し陰りがみられ、学生会館に至っては、旧建物は完全に建て替わり、私の風体が悪いのか、前に立つだけで、警備員がよって来るような体たらくで、二度と来るかよ、と捨てゼリフを投げたいような実態でした。
徒党を組んだ「サヨク暴力学生」は、当時はその程度のものだったが、キャンパスの警備を外注するような、大学とはいかがなものでしょうか、とも思われました。
同時に、京都は、喫茶店も、ジャズ喫茶なども淘汰され淋しい限りです。ドアを開けると、紫煙の中から「きっ」と睨まれた、斜に構えた、あの汚い学生たちはどこへ行ったのだろう。
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