天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

思い出すことなど(小学校の卒業アルバムをのぞいて)その6 その②

2016-11-18 19:06:28 | 日記
アルバムに戻ります。
わが、6年2組クラスは、女性のT村先生の担任ですが、このクラスは、5年生から6年生、同じメンバーで過ごしたクラスで、自分では居やすいクラスでした。担任は、40歳の半ばくらいの年齢でしたが、折り目正しい、信賞必罰のタイプの方でした。当時こちらも、少しは団体生活に慣れたかもしれず、前よりは要領よく小学校生活を過ごしていました。ただ、こどもは現実家で冷酷なもので、成長期を通じて知らず知らずに付き合う友達が変わってくるんですね。このクラスにおいても、時間を経て、そのまま今も付き合っている友人もほとんどいないところです。
特に覚えているところは、T村先生は、読書が、あるいは生徒に読者をさせるのが非常に好きな先生でした。自分自身で色々な教科を教えることに自負心を持っていたと思われますが、たぶんあの先生は、国語が一番好きであったのだと今でも受感されます。それに併せて、生徒に対し、読書感想文を書くことが大いに賞揚され、たびごとに、先生の朱書で長文の書き込みがされ、生徒に帰ってきます。私自身、運動神経も鈍く、特に得意な学科もなかったわけですが、読書体験と読書感想文だけは非常にほめられ、大変うれしかった覚えがあります。私のように、くすんで見えるような子でもほめて、伸びるところは伸ばす方針だったのでしょう。こどもにも自負心が必要なんですね。当時、それをきっかけに学校生活が楽しくなっていったこともたしかです。
当時、何かのきっかけで、クラスの幾人かで、休日に先生の家に行くこととなり、皆(5~6人)でバスに乗り、先生の家に行かせてもらったことがあります。にこやかに迎えてもらいましたが、ちょうど、来訪した際に、立派な書斎に通され、授業の準備でしょうか、きちんと勉強されているようで、その広い書斎と蔵書の多さに、こどもながら圧倒されました。こども心に、初めて見た、知性ある人の姿だったんですね、今はよくわかります。
生涯、現場を選ばれ、最後まで、子供たちと向き合い担任として生き方を貫かれたよう
です。なかなか厳しく、狷介なところもありましたが、個人的には、「読書」への意欲を教えていただき、長く教わり、今思えば「恩師」といえばこの方かなと思いますが、常に、きちっとスーツを着こなされ、生徒に対し、背筋を伸ばした方でした。そういえば、このたび私たちの卒業アルバムの寄せ書きに、「本を読む生活を」と書かれていたことをこのたびアルバムの寄せ書き中で現認し、「やっぱりな」とほほえましくも納得しました。
小学校もクラブ活動を行う、ということとなり、担任の影響ではないですが私も「読書クラブ」に入りました。「読書クラブ」で、クラブ活動に係る私自身のうろ覚えの記憶を書きたてれば、当時、学芸会で、「大岡さばき」を、生徒の脚本で上演させてもらい、登場人物の魚屋が、とおりすがりの町娘の役で出演した下級生の女の子に、「ねーちゃん、いい脚してるな(だったと思う。)」と呼びかけ、「いやーね、エッチ」と答えさせる、アドリブを入れ、とても受けました(児童にですが)。創作劇を許していただいたT村先生には、ちゃんと、前思春期のユーモアを理解していただいたですね。むしろ、当時、男ども皆で、ちょっとかわいかったその下級生をなだめ、納得させるのに苦労した覚えがあります。
その後T村先生は残念ながらすでにお亡くなりになっていますが、退職後、大活字の書道を始められたそうであり、そういえば、その後、市美展出展とか、私も広報で見たような覚えがあります。水彩画も、音楽も得意で、小学校教師としての自己の目標とそれに向かう努力を怠らなかった方であり、かえすがえすも、何故、20数年前の同窓会で、なぜもっと長くお話しできなかったか、と、今でも後悔しています。しかし、今思い起こせば、その当時、何を話すべきか、考えても話す言葉がなかったんですね、もう少し時間をもらえば、その過ぎ去った時間をほぐすことは可能だったかもしれませんが、私のようなものではつい余計なことをしゃべりだしそうです。
自分の社会生活のある側面で、自己の仕事の責任以上に他人に「親切」を施すことはできる、しかしそれは瞬間瞬間のものかもしれない。実際のところ、良い出会いとはそのようなものかもしれません。小学校高学年で出会ったかの先生は、今思えば、私の社会的自立を助けていただいたんですね、生徒との間で、節度のある、また狎れないを許さないその態度を思い出すたび、「T村先生」と聞けば、今でも、背筋を正す思いがします。

高学年では、直接指導は受けませんでしたが、6年1組のT田先生に、小学年低学年時
の担任となり、その授業では、社会科が最も楽しかった覚えがあります。当時は、うちの父親の腰が定まらずあちこちで働き、今思えば、我が家に父親不在の時期で、生まれて初めて、男親から、今思えば規範意識を教えていただいたように思います。この先生の指導のもとに、私は生徒の最前列のその前の特待席に一人で座って(座らさらせて)おりました。そのうち、普通の席に戻してもらったはずですが、それが「多動性」だったのか、どこか家庭的な、あるいは人格的な欠損があったのか、それはやっぱりわからないところです。それは、それなりの熟練度が高い教育者だったらわかる問題なのかもしれませんが。
T田先生は、当時、まだ、20歳代の熱血青年教師でしたが、いわゆる宗教文学者「宮澤賢治」に傾倒され、学芸会で、「シュプレヒコール「人間の手」」というのを企画され、「手、手、人間の手」と、舞台から身振りを加え、全員で客席に叫ぶ、前衛劇のようなその劇は、私にとって今も強い印象があります。宮澤賢治の作品というのは小学生に多大な影響を及ぼします。その「過剰な倫理観」のためですかね。そういえば、高学年で、T村先生に、相互で鑑賞を求められた友人たちの読書感想文は、「よだかの星」、とか「なめとこやまの熊」とか、宮澤賢治の著書を扱ったものが多かったですね。
20数年前再会を果たした同窓会の際(まだ先生は現職だった。)に、「宮澤賢治がお好きなんですか」と私が聞いたとき、T田先生は「なぜだかわかりますか、彼は、農民文学者だからですよ、私も農民ですから」というのが、その答えでした。その後、私も、宮澤賢治フリークを続け、後年、実際に花巻市の「宮澤賢治祭」まで行ったこともあり、やっぱりこの先生にも、多くを負っている、とその時思いました。
T田先生について、私の最も大きな思い出は、小学校低学年時に、クラス全員で自転車に乗って、砂利道を一時間くらいかけて、K市、米川、高垣(こうかけ)の秘境、白雲(しらくも)の滝を観に行き、滝つぼのそばで、飯盒炊さんをしてとてもうれしかったことであり、私は、当時、忙しい親に一緒に遊んでもらった記憶がほとんどなく、大変うれしかったことを、今も忘れられません。「父」は厳しく、また、同時に、優しくあるべきなんですね。当時のT田先生も、まだ、30歳前の熱血教師でしたが、たぶん周囲の反対を押しきって実行されたであろう、その行事をしていただいた恩義とか、人としての親切のようなものは今も忘れられません。今思っても幸せな思い出であり、やっぱり、ありがたいことに、先生方は私たちの人性で、一生涯「先生」であり続けるのですね。


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