天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

思い出すことなど(今は亡き明治生まれの祖父のために) その3

2016-05-25 20:05:42 | 日記
引き続き、わが、父方の祖父母について申し述べたいと思います。
私の曽祖父は、行政単位が「村」という時代に、家のそばを流れる河から堰を設け取水し水車などを利用し、当時製麺業などの商売をやっており、当時は内福であったらしく、田舎のノーブレス・オブリージュではないですが、村の世話役をやっておりました。
以前に祖父の除籍を見たとき祖父の兄弟に早世した子が大変多く、当時の保健衛生を考えればさほど珍しいことではなかったかもしれませんが、そのせいかどうか、曽祖父は村営の尋常小学校の育成・運営に務め、学校林(学校の維持、運営経費をねん出するために、植林し、林業の利益を還元する資産、私の通った高校にもまだ、当時ありました。)の造営に力を注いでいたそうです。その過程で、地区民の共同での山仕事の中で、植林をするための山焼きで火を放った際に、不注意でふもと側から誤って放たれた火に巻き込まれ、曽祖父を含め3人くらい焼死したといいます。のちに、叔父の一人に聞いたところ、遺体に焼け残っていたのは金時計だけだった、との話でした。その後も聞き語りになりますが、その死にざまが極端だったせいか、曾祖母は、物心とも、檀家(今も変わっていませんが)信仰に入れ込んだそうです。私にもその気持ちが理解できないこともないのですが。
そのてん末を、祖父から直接聞いたことはないのですが、祖父が生業に教育職を選んだことになにがしかの影響があったのかも知れません。
前述したとおり、祖父の兄弟には夭折が多かったため、それが余計に村営の小学校の運営に対し曽祖父が入れ込んだ訳かもしれませんが、生後祖父はとても大事に育てられたようです。結局祖父には兄弟がおらず、そのかわりに、後日、自分のこどもが男5人、女2人の計7人の多人数の兄弟であったのはご同慶の至りです。
私の祖母も、当時の大家族から嫁入りしたようです。当時の祖父の所帯は小規模の自作農であったので、一応水稲栽培(稲作)、畑作はありましたが、薄給のもとで、大家族を抱え、やりくりは大変であったろうと思います。繁忙の祖父に替わって、牛を使って田んぼの代かき(しろかき:耕作泥土の掘り起し)までもしていたとも聞きました。男女の分業が明確だった当時では、叔父の話によればこれは快挙だったらしいところです。
当時の営農家は、頑迷で扱いにくい牛や馬を使役することができるかどうかが、大きなポイントだったんですね。また、祖母は祖母で、肝心な時に働かない祖父に不平がなかったわけではないのですが、明治生まれの妻であり、面と向かって、それは言えなかったのでしょう。
祖母は、立ち居振る舞いも優しく、性格的にも受け身でひたすら優しい人でしたが、私としては兄弟二人の末子としては最後の育児のように面倒をみてもらったような覚えがあります。母方の祖母は、理に勝った人でしたが、祖父同士と同様にまったく肌合いの違う人で、そののち、それぞれ娘たち(双方の叔母たち)にも同じような性格や雰囲気が伝わるのは興味深いものですね。やっぱり、奇妙なほどタイプが違います。祖母は、「青い、渋い、固い」タイプの、融通の利かない傾向の祖父に比べ、近所でも、人気者だったようですが、行き会う人に、また話の相手に、安心感を与える人でした。祖母に、私たちのこども(ひ孫)に会わすことができたのは幸せでしたが、祖父母とあまりに長い時間(通算して26年間くらい)一緒に暮らしていたので、「こ
うしてあげればよかった」とか、「もっと優しくしてあげればよかった」と、悔いを残すのも、いわゆる「世間」の家族と同様のことでしょう。
しかしながら、80歳代後半で祖母を先に亡くし、90歳代前半まで存命した祖父は、その後、大変落ち込んでしまい、「(みんな亡くなって)友達もいなくなった」と言いつつも、私に対してどこかで目にした自分の知らない新しい言葉の意味をたずねてみたりとか、ときどき生き死にがわからない囲碁を始めたりと(対局した私もくたびれました。)、新たな取り組みで、自分を鼓舞しよう、鼓舞しようとしているのが見えるにつけ、同じ男として、気の毒なところでした。「(祖母が死んで)さみしい」とは、私には、決して言いませんでしたが、人性とは辛いものですね。
叔父、叔母にとっても、殊に遠くで暮らす叔父たちにとっては、母親は別格だったらしく、急逝したため連絡が遅れ、祖母の死に目に会えなかったことをなじるような話もしており、男にとっては、厳父よりは、先に早世した優しかった母親がより大事であったと思われ、ました。仕方がないにせよ、これもさみしいものですね。
いずれにせよ、私にとって、祖父母の死というのは、在りし日を含め、私にとって大変鮮明に思い浮かびますが、まだ、父母については、まだそれだけ距離がおけないせいなのか、それだけくっきりした印象が浮かびません。
父は、祖父にいろいろな事情で頭が上がらなかったせいか、「曽祖父(父にとっては祖父)は本当に優しかった」としみじみと述懐したこともありましたが、それは、どちらかといえば祖父母に親近感が強い、私たち「夫婦」としては、人情の機微というか、感情の不可解さというか、説明に窮するところです。まあ、本当のところは、妻にはよくわからないでしょうが・・・。

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