天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

特別編集 思い出すことなど(昭和42年度花岡小同窓会・卒業後文集)H29.8.12

2017-08-14 20:27:50 | 日記

先ごろ、T.T子さんより、追加投稿いただきました。
 長文にわたるため以下に掲載します。
 私の足りない部分を補っていただき幸せます。
 併せ、追加コメントさせていただきます。

   小学校の同窓会を終えて思うこと    T.T子
 今年の夏、小学校を卒業して半世紀という節目の同窓会が実現し、ずっと疎遠になっていた方々と本当に久しぶりにお会いし、昔を思い出し懐かしむ機会を得ることができました。長い年月の間にそれぞれ波乱万丈な生活があったことでしょう。(私を含め)でも、小学校の頃に戻り、楽しいひと時を過ごすことができました。
 改めて私の小学校時代を振り返ってみると、私は二年生の始めに、防府市立富海小より転入、低・中学年の頃の記憶はほとんど残ってないのですが、四年生の時にできた合奏クラブに入ったのが、大きな思い出です。指導者は林惇先生、NHK学校音楽コンクールに出るために、夏休みも毎日のように練習していたのですが、林先生が、こともあろうに日本脳炎にかかられて入院され、その年の出場は叶いませんでした。
 実は私の父が釣り好きで先生に島田川での鮎かけを教えてさしあげ、それがきっかけなのか、先生も炎天下の中度々釣りに行っておられた様子、それが原因の一つではなのではと、我が家で話題になったように覚えています(日射病ではないから、関係ないかもしれませんが。)。
 先日、林先生のお宅に伺った時、「私はあの、日本脳炎にかかった時から少し頭がおかしくなってね。」と言われ、びっくりしてしまいました。回復されるまで、大変だったかも知れませんね(岩国市周東町在住、82歳、我が家から近いのに初めて伺い、薄情な私を反省しました。)。
 私が合奏クラブに入ったのは、下手ながらピアノを習っていたことと、やはり音楽が好きだったのでしょう。私はソプラノアコーデオン、五年生の時は「インドの女王」、六年生の時は「カルメン序曲」を演奏し、件大会で最優秀校に選ばれ、中国大会では優秀校でした。夏休みもほとんど毎日練習がありましたが苦にならず、お母さん方が交替でお茶を用意してくれたり、先生が度々アイスクリームを奢ってくださったりしたのが、懐かしい思い出です(林先生はハンサムで若く、お母さん方はみなファンだったのでは?私は子供ながらに、いつもアイスを買ってくださる先生はお金持ちだなあと思っていました。)。今でもカルメンのメロディを右手が覚えています。実は林先生には山大の教育学部3年の時の光付属小での教育実習で、音楽の指導教官でお世話になりました。
 前に述べましたが、同窓会前に林先生がお元気でいらっしゃるか是非お会いし、ご様子を皆さんにお伝えしなければと思いお電話をしてみたら、とても喜んでくださり、お宅を探してお邪魔しました。ご高齢になられたものの、とてもダンディで、昔とあまりお変わりない様子にびっくりしました。持病はおありのようで、余り遠出はできなくなったとおっしゃっていましたが、「ミュージックカフェ」と名付けられたご自分の部屋に嬉しそうに案内してくださり、ハイドンを聴き、独学のピアノで今もショパンを弾いておられる生活には驚くばかりです。本箱には、先生が編曲して書かれた合奏用の楽譜がびっしり、先生にとって音楽は歴史であり、人生そのものなのだなあと改めて感じました。帰りに、ご自慢の畑や木工室も見せていただき、充実した老後を送っておられるお姿に触れ、とても感動し勉強になりました。
 今年4月に、6年1組の担任だった富田先生が急にお亡くなりになりました。先生には同窓会に出席していただく予定でしたので、とても残念です。林先生には、まだまだお元気でいていただきたいものです。これからも、時々伺わせていただこうと思います。
 小学校の同窓会の幹事をやらせていただいたことで、何十年と疎遠になっていた同窓生との繋がりが復活し、私の老後の楽しみが一つ増えました。これからも、小学校時代の思い出を共有し、懐かしみながら、長くお付き合いしていただければ嬉しいです。お互いに刺激しあいながら、残りの人生を豊かなものにしていければと思うこのごろです。


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「卒業後文集」に係る趣旨説明
 このたび、小学校の同窓会を行うということで、私にとってその目的としたのは、「当時の自分自身を知りたい」、という強い思いがあったのは確かでした。
 それは当時嫌であったこと(うれしかったことはあまり記憶に残っていません。)に対しては、その後何度も(悩み)考え、今ではほぼ説明がついて、自分自身を納得させることができた、という達成感のようなものがあります。また、それ以外に悩みの種はいくつもあったかも知れないが、それは、現在の「自己」(意識でいいです。)と、当時の「自己」のすり合わせの努力によってその解決が可能ではなかったのか、と今は思えるところです。そうであれば、その認識を、当時の「自己体験」(自分がそうであったと考えるもの)を相対化して考えてみたい、再度客観視(正しいものかどうか判定したい)したい、とこうなります。
 しかしながら、このたび、同窓会の準備の過程で、同志の方々と話していて、自分の記憶や思い出が実に不確かであり、いつの間にか、自分自身が自己の記憶をずいぶんと改ざんしていたことに思い当たり、憮然としたこともありました。
 また、同時に、その記憶の追及が同時に当時の同級の相手を交えて行えば、きわめて楽しい、ことにも気づきました。どうも学童期の記憶は、その後の友人との親和力より、もっと強いところがあります。たぶん、みな、そのあたりを目指して、同窓会とか試みるわけですね。
 実のところは、私は、その後の自己意識における記憶の操作で、半ば神聖化するように、クラス担任の先生がたも、そのよいイメージを付加したかも知れません。
 それは、このたび、先生たちに関する女性たちの厳しい批評も聞いたうえで、なるほどと思い、いわば私の記憶がこのたび修正・相対化できたようなところもあります。しかしながら、人性において、他者の無償の親切など、尊く美しい姿は瞬間のものであり、決して永続化するものではないのも、確かなことでもあります。同時にその「無償の」親切を決して軽んじていいものではないわけですが。
 このたびの、参加者の問わず語りで、少なくとも、悪かった先生より、よかった先生の思い出が上まわったのは、われわれがその後、人並みの苦難を経て、それぞれ人格の陶冶(とうや)を経て、品格を向上(?) した結果であることなのか、そうであれば幸せなことです。

 また、どうも、みなの先生にかかわるその話を聞いていると、(私が思った)出来の悪い生徒ほど、後々から、先生方の目が届いていたらしい、というのは、関西弁で「アホな子ほどかわいい」(失礼)というか、私たちが今思えば理解できる「なるほどな」という、人性の機微というか醍醐味ではあります。
 また、もう一つ、少なからぬ時間を一緒に過ごした同級生(長くは幼稚園から高校まで一緒に過ごした)彼らに死ぬまでに一度あいさつをしたい、というのはひとつの目的でありましたので、お互い先行きを知らない身ですが、このたび、みなの記憶をたどり、あらたに「なるほどな」とか、みなの当時のそれぞれや、その後の決して楽でなかった状況に思い至り、感慨深い楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがたいことではありました。

 どうぞ、皆様、「卒業後文集」に投稿してください。


卒業後文集           (H29.8.12)        
◎始めに
まず、私たちの卒業アルバムを前に、卒業当時の小学校の現状(?) を振り返ってみたいと思います。
私たちは、昭和42年度の下松市立花岡小学校の卒業生です。したがって、昭和43年3月に花岡小学校を去ったこととなります。当時の友人にお借りした「思い出」というアルバムをひも解いていきますと、最初に卒業記念の時計台の写真が貼ってあり、どうもあのアルバム作成に間に合わなかったようで、糊で貼付してあります。当時、塔の造作まで負担できたとも思えず、設置した時計の裏面に昭和42年度卒業記念との記載があるのかもしれません。
アルバムに戻ります。
最初に、職員室棟と、講堂の左方向から見た写真が載り、花壇とあの懐かしいソテツの植え込みが見えます。遠景ですが、新築間もないあの輝ける学校プールが見えます。職員室棟は、木造モルタルの二階建てで、決して新しい建物ではありませんが、授業の合間に職員室に呼ばれたことなど、その際の不安と期待のないまぜになった、当時の自分の気持ちにいつでも戻れるような気がします。
かの棟の二階には、当時は学校方針として努力してその充実を目指したのでしょう、小学校にはもったいないほどの規模の図書室がありました。その校舎の写真の右上には、すかした(私の主観)K校長の写真が載っています。
続いて、当時の教職員の集合写真となります。
教職員全体で23人です。当時私の学年だけでも、2クラス100人弱くらいであり、単純に考えて全校600名弱として、この人数で学校経営をしていたのですね。30人クラスなど夢のまた夢です。6学年、各2クラスとして、最低12人の先生が必要になるとして、また、23名のうち、校長、教頭を含め、男職員が8名しかいない、というのにはびっくりしました。現在と比べれば相対的な評価にしかならないかも知れませんが、人数配分を見ると当時の小学校も激務だったのですね。先生方の顔ぶれを見ていれば、当時の同窓の皆様には、それぞれの先生方にまつわる、それぞれの数だけ思い出があるものかもしれません。
続いて、6年1組の集合写真です。総員で43名です。
さすがに懐かしい顔が並びますが、幼稚園以来ずっと顔ぶれが変わらない同級生たちも多く、学童期の顏つきを見ていると懐かしい思いです。我々の担任学年2人と特殊学級(当時の呼称)の担任、校長、教頭が付き添います。児童たちのなんとそのかわいいことか、卒業後、中学校・高校と引き続き相まみえることとなりますが、ここまで時間が流れ、今の私たちと年齢がかい離すると、「おー、偉い、偉い」と、抱き上げたくなるようなところですね(嫌がるでしょうが)。
続いて6年2組の集合写真です。総員が46名であり、私にとってやはり、より懐かしい友人たちです。
思えば、良いことも、悪いこともあった。今思えば、それ以降に膨大な時間が去り、それぞれの距離が近かった分だけ、愛憎が多い様で、より、懐かしい思い出です。

私たちの、小学校の在籍の担任の先生方を下記のように列記します。実は私の記憶が定かでなく、問い聞きで作成しましたので、誤記載、錯誤はご容赦ください。
 1年生  K野先生    Y野井先生
 2年生   YT先生  I先生
 3・4年  M永先生    F岡先生
 5・6年  T村先生    T田先生

 それぞれ、かけがえのない懐かしい先生方ですね。

◎富田賢士先生に係るインタビュー
先生おひさしぶりです。
 昭和42年度花岡小学校卒業の、天道公平といいます。
 先に同窓会をして以来、また、20数年も経過してしまいました。
 長年の無沙汰をお詫びしますとともに、このたびお会いできる機会をいただいてありがとうございました。
 つきましては、これから、いくつかご質問させていただきたいと思います。
 私たちも還暦を過ぎ、この試みを考えたわけですが、先生と行き来があるということでT田(旧姓U)T子さん(以下「Tさん」と略称します。)に同行をお願いしたところです。男の年齢曲線とすれば、多くは、仕事を引退し、過去の総括と、自分の今後の残時間(死
ぬまでの時間です。)を計算し、体勢をたてなおす猶予時間(甘いといわれても実感というものは後でやってくるものですよ。)であるような段階になっています。
また、多くの女性たちは夫の引退を経て、(これは個人的な見解ですが、)夫はうざいと思いつつ、老親の監護は別にして、子育ての方では一段落してほっとされた時期とも思われます。
そんな時期であり、先生にお会いしたいという気持ちをにわかに思いつき、誠に勝手ながら、われわれの前思春期を知る、先生とお会いし、当時のお話を聞かせていただきたいと思います。
先生同様、私たちにとって思い出深いT村K子先生は残念ながら先にお亡くなりになったということです。

残念ながら、私は、先生とずっと一緒のクラスというわけにはいきませんでした。その分、当時6年2組担任の同僚、T村K子先生について多めに語っていただければ、私たちもうれしいところです。
また、今日は、始末の良い、Tさんのおかげで、当時の卒業アルバムも用意しております。私たちと一緒に、記憶をよみがえらせていただければと思います。
 それでは、始めます。

Q 私たちは、昭和43年(1968年)3月に(昭和42年度)下松市の花岡小学校を卒業させていただいた、6年2組の生徒ですが、私たちの記憶とすれば、クラス替えが少なく、持ち上がり(5年、6年)だったため、先生と児童(私たちの)関係がとても密であったように思います。そういったところで、何か印象に残っていることがおありですか。
また、私たちの卒業当時の先生の年齢を教えてください。
A 昭和9年生まれで、ちょうど33歳くらいですね(現在は満年齢で82歳となる。)。
(ということであれば、T村桂子先生は、10歳年長と聞いているので、43歳くらいとなります。そのお二人の当時の年齢を聞いて、改めて現在の私たちは、胸を突かれるような思いでした。)
Q 先生は確か我々が6年間在学中に一度Y川小学校へ異動され、また復帰されたように思います。当時の思い出(もう時効ですからいい思い出でも、悪い思い出でもどちらもOKと思いますが)があれば、カミングアウトされてもいかがですか。私たちとすれば、特にもう一人のT村桂子先生と、ダンディで音楽指導について定評があり、女子児童とお母さんがたにもきわめて人気の高かった、音楽のH先生が、強く印象に残っていますが。
A 下松市米川小への異動については、当時K校長が、異動内示があったがどうするか、高森か米川だ、という話があり、高森は嫌だったので、米川にしてもらいました。
 また、当時の私の在任中に事故で亡くなられたM校長先生も印象深いですね。
Q 当時通勤については、花岡小時代は岩徳線で花岡駅まで通勤し、米川時代は、その後花岡駅からバス通勤していました。
(人事異動についてはもう少し生臭い話を予想していましたが・・・。Tさんたちは、後述のH先生の指導のもとで、猛練習の末、合奏コンクールに出場され、見事、県大会で優勝されたそうです。音楽が好きだったK校長先生は、夏休み中の練習中にも、よく、後ろの方で、皆の練習を見守ってくれたそうです。
K校長の前任のM校長については、国道二号開通の間もないころで、スクーターでの交通事故で亡くなられ、私は当時「先生だって死ぬんだ」、と強烈に思ったことを覚えています。)
Q T村K子先生については、
A 熱心な先生だったという覚えがあります。
  当時、学年主任としておられたと思います。
(私とTさんは、5年、6年と田村先生に教わり、Tさんに至っては、後年、下松小学校の新任教員時代に、一緒に勤務し、先輩として指導を賜ったそうです。生涯、現場を選ばれ、最後まで、子供たちと向き合い担任として生き方を貫かれたようです。なかなか厳しく、狷介なところもありましたが、個人的には、「読書」への意欲を教えていただき、それについてほめられ、とてもうれしかった記憶があります。私のように、運動神経も鈍く、学校の勉強もあまりできなかった子でも伸びるところは伸ばす方針だったのでしょう。
長く教わり実際のところ「恩師」といえばこの方かなと思いますが、常に、きちっとスーツを着こなされ、背筋を伸ばした方でした。そういえば、このたび私たちの卒業アルバムの寄せ書きに、「本を読む生活を」と書かれていたことをこのたび現認し、「やっぱりな」とほほえましくも納得しました。(ちなみに、T田先生の寄せ書きは、「誠実」(アルバムを虫眼鏡でみて見ます。となっています。)
Tさんが言っていましたが、T村先生は、後年、大活字の書道を始められたそうであり、そういえば、市美展出展や、私も広報で見たような覚えがあります。自己の目標とそれに向かう努力を怠らなかった方であり、かえすがえすも、何故、20数年前の「美沢(みさわ)」同窓会で、なぜもっと長くお話しできなかったか、と、今でも後悔しています。「T村先生」と聞けば、今でも、背筋を正す思いがします。同窓会会場に広報に扱われた先生の記事を掲示します。)
A H淳先生については、
 H先生は、下松の米川から養子に行かれた方と聞いています。
 光付属小で音楽専科として後進の指導、その後岩国市の小学校の校長として勤められましたが、早期に教職を退職され、周東町で家業のガソリンスタンド経営や、不動産業に携われたようです。
(Tさんは、光付属小での教育実習で、H先生に巡り合い、合奏部以来、厳しくも懇切丁寧な指導を受けたといいます。二度も指導を受けられた幸運な方です。
私自身、一時家業であった、薬局屋のおやじをやっていた時、買い物に来られたことを思い出します。本当はあらかじめ、知っておられたのか、こちらから、「先生、お久しぶりです」と話しかけたら、ニコッと笑われました。もし、私が分かるなら認めようと思われたんでしょうね、どこかで見守っていただける先生とは有り難いものです。
Tさんは、H先生は校長にまでなられ、順調な教員生活をされていたのに、なぜ、辞められたのかね、と話していました。)
A その他の先生については、
 K口虎雄先生((注)伝説の教師でした。)から、私自身はまったく泳げないのに、花岡小にプールが設置された年に、水泳部の副担当に指名され、陸トレやなんやらに動員され大変でした(とても苦痛だったという言外の意味あり。)。

Q 小学校の先生であるので、当時まだ専科というのはなかったと思いますが、先生が最も好きであり、あるいは最も得意であった、また逆に、嫌いで、苦手とした学科を教えてください。
A 社会科でしたね(即答)(苦手については言及なし。)。(そういえば、T田先生は、「歴史クラブ」の顧問でした。
 高学年では、直接指導は受けませんでしたが、中学年時に、T田先生の授業は、社会科が最も楽しかった覚えがあります。
当時は、熱血青年教師でしたが、宗教文学者「宮澤賢治」に傾倒され、学芸会で、「シュプレヒコール「人間の手」」というのを上演され、「手、手、人間の手」と、舞台から身振りを加え、全員で客席に叫ぶ、前衛劇のようなそれは、私にとって今も強い印象があります(後年、宮沢賢治全集などを探したのですが結局見つけることができませんでした。)。
20数年前料亭「M沢」(KNさん経営)で再会を果たした際に、「宮澤賢治がお好きなんですか」と私が聞いたとき、富田先生は「なぜだかわかりますか、彼は、農民文学者だからですよ、私も農民ですから」というのが、その時の答えでした。その後、私も、宮澤賢治フリークを続け、実際に花巻市主催の「宮澤賢治祭」まで行ったこともあり、やっぱりこの先生にも、多くを負っている、とこのたび思いました。)(今では、好きな賢治と、そうでもない賢治とわかれてしまいましたが。)
Q 花岡小学校以後の、その後の先生の勤務地など、差支えなかったら教えてください。
A まず米川小に赴任し、周東町内の小学校、それから周東町教育委員会に勤務しました
(玖珂小学校の校長で退職され、最終的には、周東町の教育長を長く勤められたそうです。このたび会場掲載写真の教育功労の叙勲に奥様と一緒に出席されていました。)。
Q 皆が気にするかもしれませんので、先生のご家族と、先生の現在の状況を教えてください。
A 男2人と女一人の子供たちがいます。長女は広島で、息子たちは、熊毛(清光台と思われます。)と、光に住んでいます。一遍、行ったけど、団地の中で、良く所在がわからなくなったですね。
( 実は、先生は、数年前に奥様をなくされたそうであり、思えば大変な時期にお邪魔してしまったわけです。これは申し訳ないところです。
しかし、なぜ、あの20数年前に、まだ玖珂小の校長をされていた現役の教育者であり、退職間もないころのT村K子先生を含めて、元気であった、両先生に、もっとよく、話が聞けなかったかと、悔ゆるばかりです。)
Q 先生について、私の最も大きな思い出は、小学校低学年時に、クラス全員で自転車に乗って、米川高垣(こうかけ)地区の秘境、白雲(しらくも)の滝を観に行き、その後滝つぼのそばで、皆で飯盒炊さんをしてとてもうれしかったことですが、そのほかのことでも、先生何か記憶がありますか(当該白雲の滝は、現在末武川ダムに取り込まれています。希望があれば案内します。)。
A そのことはよく覚えています。
( 私は、当時、忙しい親に一緒に遊んでもらった記憶がほとんどなく、大変うれしかったことを、今も忘れられません。先生も、まだ、30歳前の熱血教師でしたが、たぶん周囲の反対を押しきって実行されたであろう、その恩義とか、人としての親切のようなものは今も忘れられません。やはり、先生はありがたくも、一生先生なんですね。

 たぶん、わが同窓たちも同様に、またほかにもさまざまで、異なった良い思い出がたくさんあると思います。是非、個々に語っていただきたいところです。)

◎おわりに
このたび、当該原稿を書くのに、花岡小学校へ行ってみました。
下手の法静寺側の市道から、正門をおそるおそる入ってみると、全校活動日らしく体操服姿の子供たちがグラウンドで遊んでいます。見とがめられずそのまま進むと、講堂のそばを流れる小川があり、その後の土木工事の成果、水辺への遊歩道が作られています。かつては、あの川でアヒルを飼い、夏休みもアヒル当番というのありましたが。
校内をあちこち徘徊することは、先生方の目もあり断念しましたが、現在の「コミュニティスクール」という方針なのか、一時期よりは、外来者に寛容なのがありがたいところです。
グラウンドには、まだ、あの藤棚が残っています。
時間を経て、変わるものと、変わらないものがあるのは確かなことですが、それはそれぞれの時間の流れに差があるためなのかもしれません。私の通学路である校庭の西門のそばに植わっていた、むくの木(本当のところ樹種がよくわかりません。)の巨木はすでになく、さみしいところです。思えば、花岡八幡宮、重要文化財多宝塔や、中がうろになったせんだんの大樹もあった花岡公園と、寺社に囲まれ、花岡小学校は、本当に良い環境に、存置したのですね。
低学年時、石垣によってグラウンドに沿接する、法静寺及び同級生のK君の家のそばまで、石垣を乗り越え、近道をしていましたが、あれほど高いと思っていたあの石垣が、今下側から見ると、私の目の高さで校庭内が容易にのぞけるのは、拍子抜けです。グラウンド側から、間を縫って(槇の植え込みがあったと思う。)、何度も法静寺側へ飛び降りたことがあり、今思えば迷惑なことでしたね。そのあたりは、見逃していただいた先代の住職さんに感謝するところですが、思えば私の人性も、幼稚園から小学校へと、引き続き隣接する場所で過ごせて、ありがたいことでありました。
もし、卒業後、私が、近所に住んでいれば、私のこどもを連れて立ち寄ったかもしれませんが、そのような機会がなかったことも今思えば残念なことです。
しかし、私たちがいなくなっても、連綿と、花岡小学校は続いていたし、また、続いていくだろうということで、なんとなく納得してしまいます。
 
◎追記
ところで、大変残念ながら、さる4月中旬にT田先生が、突然に逝去されました。
私が、通夜に参列いたしましたが、当日は大雨洪水警報が発令され、さながら、なみだ雨という状態でありましたが、100人以上も列席者があり、盛大なものでした。
奥様に先立たれ、やはり気落ちされたことがあったのでしょう・・・・。
三月に、肝臓の病巣を発見され、早すぎるご逝去でありましたが、長患いとならなかったのは、幸いであったと申し上げるべきでしょうか。
在りし日の先生が、地元の教育長退任後、大賀ハスを育てる地元活動に尽力されたことや、平成20年に叙勲されたことなど、会場に設置された写真スライドで見せていただきました。お二人で、大変晴れがましく、また、楽しそうな表情でした
(この写真は、当日会場でご覧ください。)。
このたびのわれわれの同窓会に、先生をお呼びできなかったことは大変残念ですが、T村K子先生と同様に、このたび、胸に手をあて、在りし日の先生の姿と思い出をしのびたいと思います。

今思えば、この文章は明らかに「T村K子先生」仕込の「読書ノート」であると納得しますが、私は、現在ブログ「天道公平の「社会的」参加」(blog.goo.ne.jp)というものをやっております。その中(「思い出すことなど(小学校の卒業アルバムをのぞいて)」)において、両先生についてふれさせていただいております。
せっかくなので、このたび、(特別篇「思い出すことなど(2017小学校同窓会始末)」)を、アップしますので、今後、皆様方のうちで意欲のある方は、お二人の先生方に対する切実な思い出をコメントしていただければ大変幸せます。閲覧もよろしくお願いします。
先の中学校の同窓会以来、小学校同窓会の検討に入り、その際一緒にやっていただく幹事の方々の、小学校時のさまざまな思い出を聞くにつれ、ますます、そのありがたさ、とか懐かしさとか、記憶のあいまいさや錯誤などいくらも出てきて、これらを是非共有したいと思ったところです。(文責 T・K)


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5 コメント

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見る人によって、「わたし」は変わる (Anonymouse)
2017-08-18 20:14:10
「そうであれば、その認識を、当時の「自己体験」を相対化して考えてみたい、再度客観視したい、とこうなります。」
そうですね。結局のところ、自分探しで見つかった自分と、どう折り合いをつけるか、またまた、難問に向きあうこととなります。

 数年前、PTA誌に頼まれて、こんな事を書きました。
 少し論点は異なりますが、なんであれ、客観的とはホント、むずかしいものです。
(前略)
 毎朝、校門の前で、立哨指導をしています。
 いつも元気な挨拶をして、その正門の前を通り過ぎる近くの小学生がいます。
 昨年四月、ランドセルのいつもの黄色いカバーがとれ、進級したようなので「お兄ちゃん、二年生?」と問いかけたところ、「兄はいません」とのこと。
 お兄ちゃんと呼びかけた側には、一回り大きくなったこの一年間の成長を賞賛する気持ちもありますが、はじめに「わたし」があって「兄」は存在するという小学二年生としては、当然の答えです。
 少し大きくなれば、私は確かに「わたし」だけれど、「わたし」は、実は私だけで成り立っているわけではないことが分かってくるでしょう。  後輩がいるから私は「先輩」と呼ばれ、妹のような存在がいるから「お姉ちゃん」と言って慕われます。
 もっと大きくいえば、社会に生きるいろいろな人と交わって、その関係性のなかで、「わたし」は、私として成長していくのだと言えるのではないでしょうか。
 学校生活も「わたし」が私だけで成立しているのではないことを集団生活のなかから学び合うはじめの一歩です。
 ”わたしは、・・・赤ちゃんから見ると、おねえちゃん。おにいちゃんから見ると、いもうと。見る人によって、「わたし」は変わる。”
   <谷川俊太郎 『わたし』>
 さて、卒業おめでとうございます。(後略)
返信する
コメントありがとうございます (天道公平)
2017-08-21 20:50:39
 このたびも、本来の趣旨をわきまえず、相変わらず、固い、書生じみたブログで、すみませんでした。多少、反省しました。しかしながら、個人的には、「青い、渋い、硬い」は決して嫌いではありません。自分の、思惟(考え)に執着するのは、つまらないと思われるかも知れませんが、自分には大切なことです。
 このたび、同窓会で、少なからぬ同窓が、教育職につかれていたのを聞いて、いろいろ思うところがありました。少なくとも、われわれの年代であれば、教育職はとても狭き門であったと覚えています。それが、もし小学校時代以来の、先生たちの影響であれば、お祝いを申し上げるべきでしょうか。
 「教育の根本精神は、自立心を培うこと、もうひとつは、視野を広め他者世界に対する想像力を養うこと、一方が他方を互いに支えあうこと」という、小浜逸郎氏の名言がありますが、自分を含め、育っていくこどもの思考や観念は、いや人間の人性世界は、年齢を重ねるにつれ、そのように展開するのだと思います。優秀でない子も、優秀でない子も。この外に向ける目がこどもに備わっていけば、他人をそねんだり、足を引っ張ったり、退屈まぎれにいじめをしたり、ということは、なくなりはしないかと、甘いといわれるかもしませんが、素人の私は思います。
それが、親の監護を経て、最初に出会う小学校の先生の役割で実現できるのであれば、きわめて幸福な出会いではないのでしょうか。
少なくとも、体験的に、私は、T村先生と、T田先生にそれを教わったように思います。
 それは、同窓の皆さんも、子を持ってよく理解できる体験ではなかったでしょうか。
 ところで、「よみびと知らず」さん、ボランティアで交通立しょうをされているのですね、それに縁のない私とすれば、地域内でそれができるあなたの力量に感服し、うらやましい限りです。うちの妻が、近所でなくなられた方が、かの方は彼女の子供時代からずっと交通立しょうをし、こどもたちに声を掛けられた人らしいですが、告別式に出席するといっていましたので、赤の他人でも、知らず知らずに、他人(こども)に影響を及ぼすことはいくらもあることなのですね。

 この文集は卒業文集であり、さまざまな投稿があることを期待しています。
 簡単なものでも、長くても、それはかまいません。むつかしいことを書いていただくこともありません。
 よろしくお願いします。
 また、希望もありましたので、今は亡きT田先生にかかる、インタビューを再掲します。
返信する
お世話になりました (T.T生)
2017-09-16 11:25:39
その節はお世話になりました。
近況報告ですが、私も(あなたと同様に)カラオケ好きで、週末昼カラオケ1000円歌い放題で歌っています。今、好きな曲は竹内まりあの「人生の扉」今のわたしたちにぴったりの曲で、youtube ででも聞いてみてください。
では、またお会いしましょう。
返信する
お久しぶりです。 (天道公平)
2017-09-16 11:37:42
当日、雑用で十分にお話できず残念でした。
T.T さんは純粋理系でしたが、カラオケ好きとは知りませんでした。意外です、カラオケの造詣の深い私と、次は是非カラオケに行きましょう。残念なのは、だんだん、知っている曲が少なくなることです。
私は、相変わらず「おたく」道を走っていますが、このたびの大ヒットアニメ「君の名は」の主題歌は当然歌えますが、その前作「言の葉の庭」の主題歌「レイン」も得意曲です。昔、大江千里が歌っていました(私の方がうまい)。また、当然ながら、この二つのアニメは、震えがくるほどいい出来です。あのアノミマス(詠み人知らず)も、飛行機のサービスで何べんも見た、とほめてました。感動することは必要ですね、そう思います。
また、よろしく。
返信する
T.T子さんの「思い出の記」に触発されて (天道公平)
2017-10-13 22:26:21
  このたびの王道ともいうべき、T.T子さんのこころあたたまる手記に触発されてひと言申し上げたいと思います。
 林惇(はやしあつし)先生は、私たちにも思い出深い先生です。わが富田先生は、汽車(ディーゼルカー)その後チャリンコで通勤しており、一方、林先生は自家用高級車(誰かが言っていた。)のマイカー通勤で、ほぼ同年齢でも肌合いが全く違う先生でした。服装も洗練され、その西欧的な容貌と振る舞いに、皆(女児も男児も)魅了されたものです。いまでも、そのスタイルを崩しておられないと、彼女の話で理解でき、また、懐かしく、今後もご壮健にと、思うところです(同窓会は無理だろうか?)。
  それはそうとして、彼女も転校生であり、現在では、親の転勤によってそのこどもたちが学校を転校するということは、非常にストレスを与える(女親及び本人)(それまで築いた社会生活が根こそぎになるということでしょうか。)らしく(その後そのために単身赴任が一般的になったかどうかは別の問題ではありましょうが)、私たちのこども時代は、「転校生」(映画もあったなあ。)はビックニュースであり、村上春樹のエッセイにもあったと思いますが、「転校してきた美少女が不安そうなしぐさをみせていると、「もう、これしかない」と、クラスの男どもは大喜びという大イベントである」、というようなことで、それは、私のような、いなかのネイティブ(原住民)としても全く同様な状況でした。
  当時の転勤族たちは、学校の先生などの子弟か、高度成長期の現地工場に派遣される技術職や営業職、中間管理職とかのこどもたちなどが主なところでした。したがって、彼らは、成績もよく、なんと言うか、早熟で都会の雰囲気をまとっていました。東京弁を自在に操り、父母とも大卒の子もいます。友人同士語らって彼の家に押しかけ、高級・希少なおもちゃで自由に遊ばしてもらったり、遊具を、お人よしの彼から、ばくちで取り上げたりしました(その彼は今回もちゃんと参加してくれました。)。
  このたび、T.T子さんと同様に、親の転勤で、転校してきたN.Kくん(現在は整形外科医らしい。)から、「深さ」を測るという授業の中で、中庭のコンクリート池(現在でいえばビオトープ)に、「池の深さを測ってきます。」と、授業中に飛び込んで、全身びしょぬれになった、しかし、担任の富田先生は叱らなかった、という逸話が披露されました(内容をあまり外してないと思います。)。
  どうもそれは、転校生でまだナーバスであった彼が、周囲に受けを狙い、ひょうげたらしいのですが、それが、富田先生にはお見通しだった(いい先生ですね。)、という話でした。今は温和になっていますが、もともと隣クラスで、優等生ですかしたやつだと思い、あまり口を利いたこともなかった彼ですが、彼にも彼の煩悶と悩みがあったのだな、と得心しました。お互いの膨大な時間の経過を経て、こういう発見はとても興味深く、心が動くものです。
  私のとても好きな宮沢賢治の童話「風の又三郎」は、二百十日に転校してやってきた異族(風の神らしい)のこども又三郎が、異族のおきてによって、二百二十日に帰っていくという、見知らぬ存在に出会った、いなかのこどもたちの成長記のような物語ですが、こどもたちの生き生きとした姿と、その見知らぬものへの畏怖と感動はとてもすばらしいものです(一方で「銀河鉄道の夜」はあまり好きになれません。)。やはり、「転校生」とはいいものですね。好奇心というか、未知なるものへの想像力というか、新しいものを求めるこどもの気持ちというものは、私は手放しで肯定します。
  ところで、今にして思えば、彼女たち、当時の学校の先生の子弟としては、周囲の目もあり「優等生」であれ、という「同調圧力」が厳しいものではなかったかと思われます。当時、「転校生(スター)になってみたい」などと無考えに思っていた自分が「恥づい」様なところですが、彼女が言うように、膨大な時間が経過しながら、今になって、当時の友人たちが参集し、お付き合いできるのもありがたいことです。
  このたびも、私たちの知らなかった逸話や実情を教えていただき、これも、私にとって「小幸福」のひとつなのです。
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