今回は、わが親戚のおじ・おばについて申し述べたいと思います。
私は、3年前に実父を、昨年実母を見送り、その葬儀で、久しぶりに、それぞれのおじ、おばに会ったところです。父方のおじたちはすでになくなり、養子などに行き、疎遠になったことも確かなのですが、近くに住む2名のおばたちは元気にしています。一方、母方のおじ、おばたちは、むすびつきが強いのか、このたび、遠方からも集い、葬儀などお世話になったところです。
今後、すくなくとも、親戚との付き合いは、われわれの代ですることとなり、このたびその結びつきと、結果的に、このたび、いとこたちとも、久闊を叙することとなりました。
父方の女兄弟は、2人だけですが、年齢がある程度はなれています(7歳)が、どうも、今も仲のよい姉妹のようです。
一番下のおばが、ちょうど私と18歳くらい年齢に開きがありますが、もの心がつくかつかないころ、まだ家におり、よく面倒を見てもらったそうです。
そのおばが嫁いだのが、隣の市の島しょ部(小さな島が本土と大きからぬ橋によって繫がれていました。)であり、当時、夫のおじは、本土のすぐそばにある地元企業でサラリーマンをやっておりました。
この島は、漁師たちが好むのか、昔から猫の数が極めて多かったのですが、漁師達が引退したり、瀬戸内海の魚が減り、生業として成り立ちにくくなった今になっても、島のあちこちでいくらも見かけられ、NHKのBS放送の朝放送の「世界ねこ識」にあのレンガ塀の上を跳ぶ猫が放映され評判となった場所でもあります。
うちの家から、おばの嫁ぎ先までは、家からローカル鉄道駅まで歩き、到着した鉄道の駅からバスに乗り継ぎ、海に開けた細い運河そばの道や海沿いの曲がりくねった海岸線を一時間くらいかけて、本土から橋がかけられた小さな島まで行っていました。こども心に、離合が困難なような狭い道であり、バスは、道路を踏み外さないだろうかと、毎回気を回し心配していました。祖父が、バスに弱い人だったので、いつも祖母に連れられ、長い道のりながら二人で遊びに行っていました。
その当時、こども心に、地の果てに行くような思いであり、今、思えば、海も知らないような農家から嫁いだおばは、さぞかし心細い思いをしたことでしょう(後年になってもそのことはなかなか本人に聞けません。当時、帰れる場所もすでになかったでしょうから。)。
その嫁ぎ先は、おじ(夫)の父が早世し、元気だった大祖母、義母と一人息子の女所帯で、嫁入ったおばは、当時は大変であったろうと思います。しかし、兄弟のいなかったおじは、「うちは親戚が少ないから」といっており、いなかの人らしく、おじの祖母、義母たちは、われわれの訪問を喜んで歓迎してくれました。
その家は、貴船神社という、海に開いたお宮のすぐそばにあり、おじの祖母は夏の間は、こども会のラジオ体操に毎日参加していました。福々しく陽性の人で、近所の人たちに慕われていたようです。祖母と私と滞在しても、歓迎され、こどもとも対等に話せるように童心のあるやさしい人であったように覚えています。
私は二男で、物怖じしなかったせいか、また多少のひいきにされたのか、小学校の低学年時に、長期(?) にとう留したことが何度もあり、私はあたかもディズニーランドに行ったような心持ちでした。盆・正月以外にも逢えることで、私の祖母も娘(おば)も、お互いに幸せな時間であったかもしれません。しかしながら、夏の夜は、海はべたなぎであり、蒸し暑さに眠れなかったことをよく覚えています。
その島には、小学校、また本土側に中学校があり、昭和30年、40年代のことであったので、まだ親たちも若く、こどもたちも数多かったところです。
その島は、瀬戸内海の島ですが、ふく延縄(はえなわ:長く太い丈夫な糸に針とえさをつけ何キロメートルも漁場で流し食いついたふぐを巻き上げる漁法)漁発祥の地として有名で、当時、島のまそばまでが砂浜となっており、潮の引いた日は、潮干狩りも可能であり、必要があれば、離島でもどこでもおじに漁船でつれて行ってもらえました。おじの導きで、おっかなびっくり、外国籍のタンカーに乗せてもらったこともあります。
また、少しわが生家とは気候が違い、南方系のクマゼミが異様に繁殖し、そうなれば生態も凡庸(?) になるのか、普段は採集が困難な貴重で美しいクマゼミが容易に採れました。このセミは、大型種で、羽は透明、胴は漆黒であり、前足には強いとげが生えており、必死でつかんでいても、痛くて逃がしたこともあります。「わし、わし、わし」と、夏の午前中を好み、強烈な声でなき、うるさいせみでもあります。その声を聞くたびに、胸を躍らせ、捕虫網を持ち飛び出したいった覚えがあります。
ご存知のとおり、セミは夜の間に、樹木の小枝や、広葉樹の葉裏などで、さなぎから成虫に羽化します。それを偶然に見つけるのはきわめて幸運なことですが、この島では、いくらも見つかりました。自分では野外観察に飽き足らず、夜遅く羽化するまで、起きていられなかったこともあり、貪欲な私は、一度、羽化直前のせみを逃げられないよう箱に入れてしまったことがありました。せみはご存知のように最初に背中が割れ、本体が姿を現しますが、ちぢんでいた羽は体液の流れにより、その殻の強いつめでつかまっていた葉裏などから、だんだん地面に向かって伸びていき、最後にあの美しく透明な、ちから強い羽に変わるわけですが、あの美しい光景は忘れられませんが、箱に入っていたセミにはそれができず、ゆがんだ羽のセミとなり、さすがに強く悔やんだことがあります。怖くなってすぐ、くさむらに捨ててしまいました。われながら、罪な話ですね。
クマゼミは暖かい気候を好む南方系のセミだと思いますが、私的な見解ですが、海そばの潮風が吹くような環境を好むような気がします。おばの嫁ぎ先の庭は格好の採取地で、庭先で羽化する前のさなぎもたくさん採れました。桜の低木に何匹も鳴くセミの成虫の存在とともに、私にとってのディズニーランドでした。
もうひとつ、とてもうれしかったのは、この家に行くと近所のおねいさんたちが面倒をみてくれたことです。
二人とも中学校の低学年くらいの年齢だったのですが、おばの口ぞえが利いたのか、また、彼女たちにはあまり幼い兄弟がいなかったせいなのか、私は口が達者ではあったが、生意気であり、特にかわいくもなかった幼児の面倒を実によくみてくれました。
泳ぎにつれていってくれるし、頼めば、真そばの海でサザエでも何でもいくらでもとってくれます。
一時、もう少しで、たこを捕獲できたこともありました。
波打ち際で、タイドプール水族館を作った私を大変ほめてくれました。
保護され、かわいがられるばかりの環境は考えものですね、あれからおねいさんに付きまとうようになってしまいました。
二人とも、島のこどもらしく、すれておらず、やさしく親切なのですが、こども心に(クレヨンしんちゃんではないですが)きれいな方のおねいさんについていきたかったことをよく覚えています。
時間の流れは速く残酷(?) なもので、こんな時間は、私にも彼女たちにとっても、つかの間(数年間)のことではありましたが。
同様にこの島は、当時、活力にあふれた漁師の島でもありました。
ふぐ漁が盛んで、おじは、サラリーマンの片手間に先の延縄により、ふぐなどを採っており、そばの神社(貴船神社)の祭礼時のお祭りには、大皿に何皿もうす作りの刺身を用意していました。売れば高価な魚ですが、晴れの日には、親類縁者にもたくさん振舞われます。毒魚ですが、漁師たちは平気で調理し、刺身を引くおじにすすめられ、ためしにまだ生きているふぐの口に割り箸をさし入れてみると、噛み割ったこともあり、危険な魚でもありました。
貴船神社の祭礼の日には、贅をつくし、遣唐使(?) に使う船のような、美しく飾られた白く長いこぎ船が艇庫から20数名くらいの若者たちによってひきだされ、沖合いに漕ぎ出し、船頭に立つ仮装した若者が、全員の掛け声に合わせ、船上で奉納舞を踊るのです。
そのうち、フィナーレとして、海を渡る神輿(みこし)として有名な、神輿がひきだされ、はちまき白衣と白ズボンの格好の担ぎ手によって粛々と海の中に入っていくと、その後に、我が家の長男を肩に乗せた父親たちが、付き従います。洋上には決められたコースがありますが、ところどころ深みもあり、怖がった幼児たちが泣きわめきます。波止場の上から、観光客などが感心してみています。
それから、無礼講ということとなります。鉢巻、白装束の男たちが、とおりすがりの男たちをつかまえて、海中に放り込みます。潮によるお清めということになるのでしょうが、さすがに女性がほうりこまれることはなかったところですが、私としても、次は自分の番ではなかろうかと、「僕の番になったらどうしよう」と、心底怖くて逃げ惑ったことをよく覚えています。実際は、完全におみそ(遊びに入れてもらえないにぎやかし)だったわけですが。
今にして思えば、標的になったのは、その多くがこの島の出身者で、この地を離れた方々かも知れません。いずれにせよ、お神酒をいただき、郷土民としての一体感(?) が盛り上がり、振りがついた結果、ついでに、通行人や生意気そうなやつ(?) など、「かまうこったない」という雰囲気があったことは確かです。
また、この島は、北海道方面まで漁場開拓のため雄飛し成功した人や、一代での起業家などが出て、それを地元に還元したりという気質の島らしく、レンガ造りの居宅や土蔵など内福な家も多かったようで、各家の塀も高く立派なレンガ造りで長く続き、漁師町の狭い路地も、御影石で拭かれたようなきれいな趣のある路地が、島の居住部分一体に広がっています。
祭りの日は、男どもは、このときとばかり、その路地を伝って親類のみならず、知人宅まで飲み歩きます。まさしく祝祭だったんですね。また、まだ右肩上がりの時代でもありました。
後年になり、うちのおじが、おばとの間に生まれた長男を肩に乗せ、うれしそうに、神輿の列に参加したことをよく覚えています。
その後、おじは、本島のすぐそばにある会社のサラリーマン生活を早期退職し、漁師に専念することとなり、漁に出て長時間船上で過ごすこととなりましたが、そんな折、島の女の仕事は、畑つくりが大きな比重です。
私も、野菜などをくれるという、高齢になったおばにつき従い、背負いかごを担ぎ、迷路のようになった厳しい里道の坂道を登り、ようやく、おばが義母から譲りうけた畑にたどりつきます。
同時にここは島の女性たちのアジール(避難所)でもあり、毎日の農作業に励むかたわら、「まだまだ元気よ」と社交の場でもあります。行き交う女性たちが、口々にあいさつと言葉をかけていきます。今はまだ12月ですが、水仙が咲き誇り、蝋梅(ろうばい) の香りが立ち込めています。そういえば、おじは、畑仕事には一切手をださないようにしていました。それが知恵というものかもしれません。
この島は、海そばで、方向を変え常時風が吹いているようなところですが、この畑は、冬でも暖かい無風のところです。見晴らしの利く、畑から、本土側を見ると、企業そばの傾斜地の中腹と高台に双子のように、当時、大量のレンガを焼いたという高いレンガの煙突がそびえています。
また、正面を見ると、ほんの百メートル先に無人島の小島、岩島(いわしま)が見えます。島全体が花崗岩のような大きな一塊の白い岩で、全体を松などが覆っています。遠景に、石油化学コンビナート企業の構造物が見えますが、あたりは藍色の海の色とあいまって息を呑むような美しさです。
そういえば、向こうに見えるあの無人島岩島に、30数年前、我が家全員で、鍛錬キャンプに行くこととして、おじにつれて行ってもらったのだった、真夏の日で、まったく日陰がない島で、まずともかくと、ブルーシートで日よけを作り、私たちは暑さでまったく動けず、しばらくみなで寝転んでいました。大量の水を運んだつもりだったが、みな我慢できずに、がぶがぶ飲んでいました。日がかげるにつれ、少し持ち直し、採取した手のひら大の大きな貝を使って海鮮カレーを作るなどして、一晩をようやく過ごしましたが、忘れられない体験ではあります(蚊はいなかったが夜中、船虫の幼生に襲われた。)。
思えば、半世紀以上も前、今は亡き私の祖父母たちも、末のかわいい娘を、知り人もいない、環境も何もわからない島の生活に送り出したのは不安でさみしかったことでしょう。
私も、還暦を過ぎ、こどものころからよくかわいがってくれた、今もまだ元気なおばと、ここに立ち、穏やかな気持ちで、新たに作られた漁船の係留施設や、防潮堤、貼りつくように家々が続いている、島の営みを見通せるのは幸福なことかも知れません。今ここで、遠くまで見渡せば、私のこども時代から、ずいぶん変わった現在のありようまで、島の景色を、当時と、二重写しに見ているような気がしてきます。
「時間は誰にとっても等価である」ともいいますが、この島での穏やかな時間の流れが、私にとっては大変心地よいように思えるところです。
ところで、おばに聞いたところ、今年(平成28年)は、7月下旬、還暦を迎えた男どもが寄り集まり、久しぶりに貴船神社の海上のお祭り(ホーランエー)が復活したそうです。このたび盛り上がった彼らは「来年も、ぜひやりたい」といっていたそうなので、成り行きを見守りたいところです。
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