( 8月です。お盆の月ですので、いつものように、皆で死者について考えましょう。 )
さとうきび畑 作詞・作曲 寺島尚彦
( 全体的に長い曲なので、意味がとおるように、歌詞の良さがわかるように、部分的に掲載します。)
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日もみわたすかぎりに
緑の波がうねる
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
むかし海の向こうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終わりがきた
夏の陽ざしの中で
( 中 略 )
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
父の声をさがしながら
たどる畑の道
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
お父さんと呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このまま緑の波に
おぼれてしまいそう
夏の陽ざしの中で
( 中 略 )
ざわわ ざわわ ざわわ
忘れられない悲しみが
波のように押し寄せる
風よ悲しみの歌を
海に帰してほしい
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
風に涙はかわいても
ざわわ ざわわ ざわわ
この悲しみは消えない
この歌は、私が中学生の頃(昭和40年代前半)流行った歌で、森山良子が歌っていました。作成の経緯とすれば、沖縄復帰(昭和47年5月15日)前の、昭和40年当時、沖縄に旅行した寺島尚彦さんという方が、その印象で作詞・作曲した歌を昭和42年に初演し、当時カレッジフォーク(学生が支持する歌というべきですかね。)を歌っていた森山良子が昭和44年に初演し、その後持ち歌として歌っています。
森山良子さんは当時、ギター弾き語りスタイルのいわゆるシンガーソングライターで、同時に若く美しい良家の清純派お嬢さんとして、その美しい声で、団塊世代の、殊に男どもに熱狂的に支持された大人気歌手でした(現在の姿と比べどうこう言うつもりはありませんが、皆に等しく時間は流れる、ということで。)。
この歌の歌詞は、「ざわわ ざわわ」と、さとうきびの群落に押し寄せる風と、美しい海に打ち寄せる波の音を連想させる擬音の繰り返しでさわやかで、政治的なアジテーションも薄いように思われ、「 忘れられない悲しみが 波のように押し寄せる 風よ悲しみの歌を 海に帰してほしい夏の陽ざしの中で 」と、今世で逢えなかった父に対する情感があふれるなかなか良い歌であります。昭和39年の作とのことであり、敗戦日に出生した彼女の実年齢は、まだ、春秋に富む、父に対する哀惜を抑えきれないまだ若く美しい女の人かもしれません。長い歌なので、部分的に、NHKの「みんなの歌」(私、当該番組、愛視聴してます。時に、他にも「みんなの歌」のいくつかを、時に愛唱します。)の一曲として、採用されたようです。
他に、彼女の持ち歌、「愛する人にうたわせないで」(昭和43年)という、戦争未亡人が(いつの戦争なのだろう?)遺児に対し戦死した夫について語りかけ、結果的に「戦争責任者」(誰でしょう?ちゃんと突き詰めれば良いのにそれができないのは、ダメであるゆえんですが、当時の雰囲気に基づき、無責任に言えばベトナム戦争の遂行者かもしれませんが)に間接的に問いかけ告発する、というバイアスのかかった歌より、この歌は、はるかにましな良い歌です(昔の日本のフォーク・ソングや「反戦歌」の多くはその程度のものだったわけですが)。
しかしながら、「 むかし海の向こうから いくさがやってきた 」とか、いうのは、いささか不適当(傾向性のある発言)ではないのでしょうか。いってしまえば、南国の農業を主にした桃源郷のように平和な島に、よそ(外国)から、戦争の遂行者が現れ、その巻き添えになった無辜(「辜」は罪の意。罪のないこと。また、その人。)の島民は、親子が引き裂かれ、今も消えぬ塗炭の苦しみを味わった、ということになるのでしょうか。ただし、その島に、その島なりの貧困や、所得格差や差別はなかったのかということは不問になっています。
また、当該「いくさ」が太平洋戦争であれば、それこそ薩摩侵攻(1609年)、明治期の琉球処分(沖縄版「地租改正」(「沖縄の不都合な真実」(大久保潤・篠原章)に拠ります。)以降、国家近代化の歴史を経て、日本の近代から、太平洋戦争の敗北に至るまで、沖縄は、日本国として、同じく日本国民の一人としてそれぞれの現実で総力戦を戦ったはずであり、それは九州であろうと本州・北海道であろうと同様であろうし、「不見識な見解」ですね。沖縄の一部の人と、それに迎合する一部の人たちについては心地よい見解かもしれませんが。過剰で、偏頗(へんぱ:かたよっていて不公平なこと。また、そのさま。)な地域ナショナリズムの手放しの賛美と、その賛同者の合作のように聞こえてしまいます。
「 あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 」という一節も、徴兵によって、戦地に行った、あるいは別の局面かもしれませんが、百田尚樹の言葉を借りれば、兵士大衆の一人として、大正二桁前後に生まれた男たちの三人に一人は戦死しているわけですが、それぞれの局面で死んでいった兵士には語れぬ想いと、他者には説明しがたい理不尽な死があり、無念な思いが、またその家族には他者に説明しがたい理由や悲しみがあるわけです。
うちの父は、大正13年生まれでしたが、幸い(?) 死に至る兵役に行かずに済み、戦後一時育児放棄の時代もあり、歌詞の主人公(彼女は今年で満71歳になられますが)のように最初から不在ではではありませんでしたが、私は、今、別の意味で、(奇しくも私8月15日生まれです。)戦後を生き抜いてきた私の父にかかわるその人性とその死の意味を考えています。それは、歌の中の彼女もふくめ、それぞれで、自己の人性の深化とともに、盆・暮れなどに、個々に自らの先祖からの「詣で墓」にまいり、その死の意味を、個々に思い押し測っていくことです。
テレビ番組で見ましたが、沖縄の墓は墳墓というべきか、家族が広い墓前に参集し、美しい自然の中で、皆で、祖霊のために歌い踊り宴をとり行う、ということで、良い習慣であると思ったことがあります。
また、本日(8月24日)も、北朝鮮の日本海に向けた潜水艦発射弾道ミサイル発射のニュースでもちきりです。潜水艦の可動域でミサイル発射が可能であれば、日本国にとって、これは大変な脅威です。
オリンピック期間を含め、覇権国家中共は、引き続き、自国の勢力拡張を図っています。
彼らの、愚かな、また他国にまで自己の支配下に置こうとする中共「軍国主義」の策動を、私たち一人一人は監視し、自国民に対する安全の侵害と、経済的な権利の侵奪を許さないように、われわれの政府を含め、良く見張る必要があります。どうも、それを怠る政治家すら、存在しているらしいですから。
もう少しして(明日のことはわかりませんが)、私が祖霊の一人になるとすれば、その時は、死して銀河系の素粒子の一つになるかもしれませんが、願わくば怨霊(?) にならずして、日本国及び日本国民が、他国の侵略に合わないように、また、孫や子が、分に応じ努力して、その生の総和の結果として、「幸せ」(?) に暮らせるように望みますが、われわれの祖霊たちの多くもそのように考えているのではないですかね?
今年も、8月においてそのように決意いたします。
さとうきび畑 作詞・作曲 寺島尚彦
( 全体的に長い曲なので、意味がとおるように、歌詞の良さがわかるように、部分的に掲載します。)
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日もみわたすかぎりに
緑の波がうねる
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
むかし海の向こうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終わりがきた
夏の陽ざしの中で
( 中 略 )
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
父の声をさがしながら
たどる畑の道
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
お父さんと呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このまま緑の波に
おぼれてしまいそう
夏の陽ざしの中で
( 中 略 )
ざわわ ざわわ ざわわ
忘れられない悲しみが
波のように押し寄せる
風よ悲しみの歌を
海に帰してほしい
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
風に涙はかわいても
ざわわ ざわわ ざわわ
この悲しみは消えない
この歌は、私が中学生の頃(昭和40年代前半)流行った歌で、森山良子が歌っていました。作成の経緯とすれば、沖縄復帰(昭和47年5月15日)前の、昭和40年当時、沖縄に旅行した寺島尚彦さんという方が、その印象で作詞・作曲した歌を昭和42年に初演し、当時カレッジフォーク(学生が支持する歌というべきですかね。)を歌っていた森山良子が昭和44年に初演し、その後持ち歌として歌っています。
森山良子さんは当時、ギター弾き語りスタイルのいわゆるシンガーソングライターで、同時に若く美しい良家の清純派お嬢さんとして、その美しい声で、団塊世代の、殊に男どもに熱狂的に支持された大人気歌手でした(現在の姿と比べどうこう言うつもりはありませんが、皆に等しく時間は流れる、ということで。)。
この歌の歌詞は、「ざわわ ざわわ」と、さとうきびの群落に押し寄せる風と、美しい海に打ち寄せる波の音を連想させる擬音の繰り返しでさわやかで、政治的なアジテーションも薄いように思われ、「 忘れられない悲しみが 波のように押し寄せる 風よ悲しみの歌を 海に帰してほしい夏の陽ざしの中で 」と、今世で逢えなかった父に対する情感があふれるなかなか良い歌であります。昭和39年の作とのことであり、敗戦日に出生した彼女の実年齢は、まだ、春秋に富む、父に対する哀惜を抑えきれないまだ若く美しい女の人かもしれません。長い歌なので、部分的に、NHKの「みんなの歌」(私、当該番組、愛視聴してます。時に、他にも「みんなの歌」のいくつかを、時に愛唱します。)の一曲として、採用されたようです。
他に、彼女の持ち歌、「愛する人にうたわせないで」(昭和43年)という、戦争未亡人が(いつの戦争なのだろう?)遺児に対し戦死した夫について語りかけ、結果的に「戦争責任者」(誰でしょう?ちゃんと突き詰めれば良いのにそれができないのは、ダメであるゆえんですが、当時の雰囲気に基づき、無責任に言えばベトナム戦争の遂行者かもしれませんが)に間接的に問いかけ告発する、というバイアスのかかった歌より、この歌は、はるかにましな良い歌です(昔の日本のフォーク・ソングや「反戦歌」の多くはその程度のものだったわけですが)。
しかしながら、「 むかし海の向こうから いくさがやってきた 」とか、いうのは、いささか不適当(傾向性のある発言)ではないのでしょうか。いってしまえば、南国の農業を主にした桃源郷のように平和な島に、よそ(外国)から、戦争の遂行者が現れ、その巻き添えになった無辜(「辜」は罪の意。罪のないこと。また、その人。)の島民は、親子が引き裂かれ、今も消えぬ塗炭の苦しみを味わった、ということになるのでしょうか。ただし、その島に、その島なりの貧困や、所得格差や差別はなかったのかということは不問になっています。
また、当該「いくさ」が太平洋戦争であれば、それこそ薩摩侵攻(1609年)、明治期の琉球処分(沖縄版「地租改正」(「沖縄の不都合な真実」(大久保潤・篠原章)に拠ります。)以降、国家近代化の歴史を経て、日本の近代から、太平洋戦争の敗北に至るまで、沖縄は、日本国として、同じく日本国民の一人としてそれぞれの現実で総力戦を戦ったはずであり、それは九州であろうと本州・北海道であろうと同様であろうし、「不見識な見解」ですね。沖縄の一部の人と、それに迎合する一部の人たちについては心地よい見解かもしれませんが。過剰で、偏頗(へんぱ:かたよっていて不公平なこと。また、そのさま。)な地域ナショナリズムの手放しの賛美と、その賛同者の合作のように聞こえてしまいます。
「 あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 」という一節も、徴兵によって、戦地に行った、あるいは別の局面かもしれませんが、百田尚樹の言葉を借りれば、兵士大衆の一人として、大正二桁前後に生まれた男たちの三人に一人は戦死しているわけですが、それぞれの局面で死んでいった兵士には語れぬ想いと、他者には説明しがたい理不尽な死があり、無念な思いが、またその家族には他者に説明しがたい理由や悲しみがあるわけです。
うちの父は、大正13年生まれでしたが、幸い(?) 死に至る兵役に行かずに済み、戦後一時育児放棄の時代もあり、歌詞の主人公(彼女は今年で満71歳になられますが)のように最初から不在ではではありませんでしたが、私は、今、別の意味で、(奇しくも私8月15日生まれです。)戦後を生き抜いてきた私の父にかかわるその人性とその死の意味を考えています。それは、歌の中の彼女もふくめ、それぞれで、自己の人性の深化とともに、盆・暮れなどに、個々に自らの先祖からの「詣で墓」にまいり、その死の意味を、個々に思い押し測っていくことです。
テレビ番組で見ましたが、沖縄の墓は墳墓というべきか、家族が広い墓前に参集し、美しい自然の中で、皆で、祖霊のために歌い踊り宴をとり行う、ということで、良い習慣であると思ったことがあります。
また、本日(8月24日)も、北朝鮮の日本海に向けた潜水艦発射弾道ミサイル発射のニュースでもちきりです。潜水艦の可動域でミサイル発射が可能であれば、日本国にとって、これは大変な脅威です。
オリンピック期間を含め、覇権国家中共は、引き続き、自国の勢力拡張を図っています。
彼らの、愚かな、また他国にまで自己の支配下に置こうとする中共「軍国主義」の策動を、私たち一人一人は監視し、自国民に対する安全の侵害と、経済的な権利の侵奪を許さないように、われわれの政府を含め、良く見張る必要があります。どうも、それを怠る政治家すら、存在しているらしいですから。
もう少しして(明日のことはわかりませんが)、私が祖霊の一人になるとすれば、その時は、死して銀河系の素粒子の一つになるかもしれませんが、願わくば怨霊(?) にならずして、日本国及び日本国民が、他国の侵略に合わないように、また、孫や子が、分に応じ努力して、その生の総和の結果として、「幸せ」(?) に暮らせるように望みますが、われわれの祖霊たちの多くもそのように考えているのではないですかね?
今年も、8月においてそのように決意いたします。
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