6月14日、先ごろ(5月と言っていた。)から中断していた、NHKEテレの、NHK杯将棋早指し選手権を見た。
従前から、コロナ戒厳令のもとで、日常生活の娯楽さえ奪われた、国民大衆のため、なぜ、NHKは、せめて社会的引きこもり(?) である視聴者の無聊を慰める(?) 良質な番組を、なぜ、追加作成しないのか、と思っていた。
それこそ、肉体のぶつかり合いどころか、究極のボードゲームである日本将棋の放映をなぜやめたのか、と不審に思っていたのである。
そもそも、限られた人数しか存しない、スタジオ録画で、出演者・スタッフ相互で感染が生じるかどうか疑わしいにも拘わらず、勝手に放映を休止し、国民の意欲低下に、また、将棋ファンへの裏切り行為に、なぜ、公共放送として、加担するのか、不思議にも思っていた。
公益社団法人日本将棋連盟の思惑もあり、調整するのであろうが、一時のタイトル戦のように、寺社の広間を借りるなどとか、大スタジオで行うなど、なぜ、対応ができなかったのか。
最近の将棋ブームのもとではあるが、コロナ騒動で、若手棋士たちに対局の機会が与えられないのであれば、彼らの収入は対局料と聞いていたので、対局料なしにいかに生計を立てるのであろうと、私も心配していた。
その一方で、NHKは、コロナの原因国である中共を扱う番組を、最近とみに過大に報道し、その歴史・文化、少数民族の歴史、中華人の歴史・史跡などを好んで放映している。
あたかも、中共が歴史ある平和な文化国家であるかのように。
NHKは、報道機関として、なぜ、ウイグル・チベットの少数民族の政治的抑圧、中共ファシスト国家の現在の内部矛盾問題と、台湾・東南アジア諸国、日本国に対する軍国侵略体制、コロナ下で彼らが使嗾する、世界平和に対する国境を越えた反動・敵対体制についてなぜ放映しない。
これはどうも、パヨクマスコミの常套手段であるが、「国民の皆さんお怒りはごもっともですが、冷静に対応しましょう。彼らは、資本主義の矛盾の中から、歴史上稀に生じた、サヨク国家なのですから・・、おまけに国力が増し、批判報道すればどんな支障が生じるかわからないので、反中共などという怖いことはできません。」、いつものバイアスのかかった迎合主義である。
NHKは、なぜ、そんな、腐った、サヨク迎合商業主義に追随・加担するのか。
国民の、反中共感情を和らげるため、インテリ放送局として冷静に国論のバランスをとっているとでも考えたら、とんだおかど違いである。
何度も言うが、公共放送NHKの運営費は、ブローバリズムの暴威の中においても、日本に住むしかない、外国にも逃げ出せない、貧しい大多数国民大衆の受信料によって賄われている。
私たち大衆の立場に立たない、またその利害を自らの番組の理念に繰り込まない、また、それをすっかり忘れた、公共放送を標榜して、何の意味があるのだ。
私は、早くに、政治的な引き回しを受けず、健全な国民国家を肯定し、大多数国民大衆に加担するナショナリストとして、転向した。
しかしながら、その宿痾が、死んでも治らない馬鹿左翼は延命し、いまだに、毒気を振りまいている。
いまだにとどめをさされない、パヨク信仰を、米欧の偏ったマスコミに倣うことはないではないか。
私たち国民は、そんなバカの抑圧擁護や根拠のないサヨク信仰に忖度せず、現在、一様に、不快な思いで、いやな世相を暮らしている。
一部の奇矯な支持者(私の偏見) もあるだろうが、せめてNHKは、コロナ戒厳令のもとでは、韓流ドラマの放映をやめて欲しい。あれは、娯楽ではない、ストレスになる。
だいたい、例のソシアル・ディスタンティング、ではないが、なぜ、NHKは、対人間隔が、2メートルなどという迷妄言説に加担し、毎日・毎回、反復放映するのか。
いつものように脱線するが、私は、かつての名作アニメ、「人造人間エヴァンゲリオン」の作中に出てくる、ATフィールド(対人の距離感というのか、人間関係に基づく桎梏(しっこく)と愛憎の矛盾)に似ているものと、思わず笑ってしまった。
まさしく、精神の病は、「人間(じんかん)」の病である、というテーゼに従えば、これは、NHKが悪乗り・加担した、コロナ戒厳令下の、精神の病ではある。
先に、NHKBS放送で、この度、新作映画が公開されるという「人造人間エヴァンゲリオン」のオマージュ番組が放送された。
それは、オタクの味方、NHKの知性派かつ美人の杉浦友紀アナウンサーのMC(司会)で始まった。
しかし、それは、コロナ下におけるNHKの苦肉の策かもしれないが、熱い思いを語るはずの各出演者は、全員、個別・映像参加であり、したがって、対話を通じた相互の意見対立も共感も、いわゆるそれを通じた相互共感・理解も、盛り上がりようもなく、杉浦アナウンサーの努力にもかかわらず、しまいにはこちらの興味もとだえてしまい、まことに残念な結果になった。
せめて、彼女がMCを勤める「英雄たちの選択」の時のように、丸い、大テーブルででも、皆を集めて実行すべきであったでしょうに、と感じた。
更に脱線するが、先の番組で、杉浦アナウンサーが、城址の現場にロケに行くこととなり、口を滑らせたらしい、磯田道史氏が、「あなたがもし現場へ行くというなら、世のおやじどもは喜んでついていきますよ」と発言した。
彼の友人たちの多くはそう思っていたかもしれず(多分彼女は人気者です。)、思わず笑ってしまった。
予てから、公序良俗を体現するかのようなNHKのアナウンサーでありながら、突っ込みが鋭く、下世話にも通じ、知性豊かな杉浦アナウンサーは、有能な人であり、私もひそかなファンであったのであるが・・・・。
というのが、かつてこの番組で古代史を扱い、縄文の妊婦を模したと思われるあの女性土偶をみた杉浦アナウンサーが、「私この像を見ると泣きそうになる」と言明したことがあり、それは出産が、古代においていかに命がけの仕事(使命)であったか、女性として身につまされる、と思ったのだろうと思うが、私は、彼女の豊かな想像力と情感に感動した。
久しぶりに、NHKの良質なアナウンサーを見たと思った。
かえすがえすも、この度の失敗はとても残念です。後日、リメイクがあればよいと思います。
閑話休題、この失敗は、対人距離と、同時存在性というものが、いかに人にとって重要であるかを、如実に証明することとなった。
いまさら言うまでもなく、相互の対話とか、面と面を合わす、コミュニケーションというのは大変重要で本質的な問題でもあり、人間の歴史の深層・基底に根差しているものです。
それに対して、それこそ、この度の騒動で、その人間的な営みの中で、「コロナにより、一人も犠牲者を出さない」などと、安易に集団を排除し、安い正義で、人の自然な営みに踏み込んでいいものとは思えない。なぜ、こんな理不尽な規制をするのか。
何度も繰り返すが、私たち老人は死んでいくのが仕事である。
今世にいれば、娑婆で暮らせば、いずれ病気・事故で死んでいく、それこそ普通に日常生活を繰り返す中で、若者たちの希望ある未来のために、笑って死んでいこうではないか。
最初に戻って、どのように、将棋対局をするのか、とみていると、このたびの対局者は、若手の中村太地七段と、大ベテランの谷川浩二九段の対局となり、抱負の言明ということとなり、中村棋士が、「長いこと対局できない状況が続いたが、本当にうれしい、一手一手心を込めて指したい」と言っていた、感動した。
引き続き、谷川浩二九段が、日本・世界の大きな危機の中で、ここに至るまで、ご手配ご協力いただいた、関係者に感謝すると述べ、常識と深みのあるあいさつであった。デビュー以来、「光速の寄せ」という天才的な棋士であったが、長く棋士であることで、人間的な成長を遂げた人であろう。
対局は、囲い付きの座卓に面した椅子で行われることで、将棋盤の中央が、木枠の中央に例の塩ビの仕切りが設置されている。双方ともマスク着用対戦である。
伝統的に、畳・正座対局であるという、将棋において大きな変換である。やむを得ないものであろうが、棋士諸氏には、驚天動地のことであろう。
勝負の結果は、谷川九段の勝ちになったが、二人とも、順位戦(例のA組とか、B組とかいうあれです。)B級2組というあれなので、それぞれ実力的には伯仲していると思われる。
読み上げ係も、計測の係りも、離れて一人で賄い、極力、人を減らす努力をしていた。
そのためなのか、終了後、感想戦も何も行われず、終了とほぼ同時に、番組は終わってしまった。
駒指しが、素手で、薄い手袋を使ってとはされず、さされたのはせめてと思うが、マスクと、塩ビの仕切り越しに行われる、真剣勝負、殺し合いは、当事者にとってまことに、まどろっこしく、悔しいものであったろうと、推察される。
お気の毒なことである。もし、それが実力を出されるために支障であれば、相互の任意で、取っ払えばいいのではないか、と、私は思う。
それを言明すること自体、自分自身のみならず、所属の将棋連盟、傘下の友人棋士一同を、困った立場に追い込むことは、想像の範囲である。
今後も、このような体裁で番組を継続するのであれば仕方がない、しかし、死者も増えない、軽微なウイルス防護を至上のものとして、あらゆる「人間的活動」を妨害・阻害する、悪の根源、コロナファシズムを、私たちは、自ら追放しようではないか。
NHKの番組作成者、もう少し見識なり、識見を持ってよ、という言説になる。
私の信条、
マスク着用を義務づける店舗・商店には入らない。
協力をお願いする店舗には入る、そして、時に、えずくことなどがあれば、自己の飛沫を防護・処理する手段は講じる。
コロナファシズムに抗するため、自己欲望(大したものではないが)は追及する。もし、周囲といさかいになった場合は、私自身の知性と、倫理によって、判断する。
うちの英会話の教師が、自己のコモンセンスで判断するといったことは正しい、と思う。
きちんと自分の意見を持ち表明することについて、西欧人は一日の長があると思うが、私は、日本人も、あなた任せのバカばかりではないのでは、と考えている。
従前から、コロナ戒厳令のもとで、日常生活の娯楽さえ奪われた、国民大衆のため、なぜ、NHKは、せめて社会的引きこもり(?) である視聴者の無聊を慰める(?) 良質な番組を、なぜ、追加作成しないのか、と思っていた。
それこそ、肉体のぶつかり合いどころか、究極のボードゲームである日本将棋の放映をなぜやめたのか、と不審に思っていたのである。
そもそも、限られた人数しか存しない、スタジオ録画で、出演者・スタッフ相互で感染が生じるかどうか疑わしいにも拘わらず、勝手に放映を休止し、国民の意欲低下に、また、将棋ファンへの裏切り行為に、なぜ、公共放送として、加担するのか、不思議にも思っていた。
公益社団法人日本将棋連盟の思惑もあり、調整するのであろうが、一時のタイトル戦のように、寺社の広間を借りるなどとか、大スタジオで行うなど、なぜ、対応ができなかったのか。
最近の将棋ブームのもとではあるが、コロナ騒動で、若手棋士たちに対局の機会が与えられないのであれば、彼らの収入は対局料と聞いていたので、対局料なしにいかに生計を立てるのであろうと、私も心配していた。
その一方で、NHKは、コロナの原因国である中共を扱う番組を、最近とみに過大に報道し、その歴史・文化、少数民族の歴史、中華人の歴史・史跡などを好んで放映している。
あたかも、中共が歴史ある平和な文化国家であるかのように。
NHKは、報道機関として、なぜ、ウイグル・チベットの少数民族の政治的抑圧、中共ファシスト国家の現在の内部矛盾問題と、台湾・東南アジア諸国、日本国に対する軍国侵略体制、コロナ下で彼らが使嗾する、世界平和に対する国境を越えた反動・敵対体制についてなぜ放映しない。
これはどうも、パヨクマスコミの常套手段であるが、「国民の皆さんお怒りはごもっともですが、冷静に対応しましょう。彼らは、資本主義の矛盾の中から、歴史上稀に生じた、サヨク国家なのですから・・、おまけに国力が増し、批判報道すればどんな支障が生じるかわからないので、反中共などという怖いことはできません。」、いつものバイアスのかかった迎合主義である。
NHKは、なぜ、そんな、腐った、サヨク迎合商業主義に追随・加担するのか。
国民の、反中共感情を和らげるため、インテリ放送局として冷静に国論のバランスをとっているとでも考えたら、とんだおかど違いである。
何度も言うが、公共放送NHKの運営費は、ブローバリズムの暴威の中においても、日本に住むしかない、外国にも逃げ出せない、貧しい大多数国民大衆の受信料によって賄われている。
私たち大衆の立場に立たない、またその利害を自らの番組の理念に繰り込まない、また、それをすっかり忘れた、公共放送を標榜して、何の意味があるのだ。
私は、早くに、政治的な引き回しを受けず、健全な国民国家を肯定し、大多数国民大衆に加担するナショナリストとして、転向した。
しかしながら、その宿痾が、死んでも治らない馬鹿左翼は延命し、いまだに、毒気を振りまいている。
いまだにとどめをさされない、パヨク信仰を、米欧の偏ったマスコミに倣うことはないではないか。
私たち国民は、そんなバカの抑圧擁護や根拠のないサヨク信仰に忖度せず、現在、一様に、不快な思いで、いやな世相を暮らしている。
一部の奇矯な支持者(私の偏見) もあるだろうが、せめてNHKは、コロナ戒厳令のもとでは、韓流ドラマの放映をやめて欲しい。あれは、娯楽ではない、ストレスになる。
だいたい、例のソシアル・ディスタンティング、ではないが、なぜ、NHKは、対人間隔が、2メートルなどという迷妄言説に加担し、毎日・毎回、反復放映するのか。
いつものように脱線するが、私は、かつての名作アニメ、「人造人間エヴァンゲリオン」の作中に出てくる、ATフィールド(対人の距離感というのか、人間関係に基づく桎梏(しっこく)と愛憎の矛盾)に似ているものと、思わず笑ってしまった。
まさしく、精神の病は、「人間(じんかん)」の病である、というテーゼに従えば、これは、NHKが悪乗り・加担した、コロナ戒厳令下の、精神の病ではある。
先に、NHKBS放送で、この度、新作映画が公開されるという「人造人間エヴァンゲリオン」のオマージュ番組が放送された。
それは、オタクの味方、NHKの知性派かつ美人の杉浦友紀アナウンサーのMC(司会)で始まった。
しかし、それは、コロナ下におけるNHKの苦肉の策かもしれないが、熱い思いを語るはずの各出演者は、全員、個別・映像参加であり、したがって、対話を通じた相互の意見対立も共感も、いわゆるそれを通じた相互共感・理解も、盛り上がりようもなく、杉浦アナウンサーの努力にもかかわらず、しまいにはこちらの興味もとだえてしまい、まことに残念な結果になった。
せめて、彼女がMCを勤める「英雄たちの選択」の時のように、丸い、大テーブルででも、皆を集めて実行すべきであったでしょうに、と感じた。
更に脱線するが、先の番組で、杉浦アナウンサーが、城址の現場にロケに行くこととなり、口を滑らせたらしい、磯田道史氏が、「あなたがもし現場へ行くというなら、世のおやじどもは喜んでついていきますよ」と発言した。
彼の友人たちの多くはそう思っていたかもしれず(多分彼女は人気者です。)、思わず笑ってしまった。
予てから、公序良俗を体現するかのようなNHKのアナウンサーでありながら、突っ込みが鋭く、下世話にも通じ、知性豊かな杉浦アナウンサーは、有能な人であり、私もひそかなファンであったのであるが・・・・。
というのが、かつてこの番組で古代史を扱い、縄文の妊婦を模したと思われるあの女性土偶をみた杉浦アナウンサーが、「私この像を見ると泣きそうになる」と言明したことがあり、それは出産が、古代においていかに命がけの仕事(使命)であったか、女性として身につまされる、と思ったのだろうと思うが、私は、彼女の豊かな想像力と情感に感動した。
久しぶりに、NHKの良質なアナウンサーを見たと思った。
かえすがえすも、この度の失敗はとても残念です。後日、リメイクがあればよいと思います。
閑話休題、この失敗は、対人距離と、同時存在性というものが、いかに人にとって重要であるかを、如実に証明することとなった。
いまさら言うまでもなく、相互の対話とか、面と面を合わす、コミュニケーションというのは大変重要で本質的な問題でもあり、人間の歴史の深層・基底に根差しているものです。
それに対して、それこそ、この度の騒動で、その人間的な営みの中で、「コロナにより、一人も犠牲者を出さない」などと、安易に集団を排除し、安い正義で、人の自然な営みに踏み込んでいいものとは思えない。なぜ、こんな理不尽な規制をするのか。
何度も繰り返すが、私たち老人は死んでいくのが仕事である。
今世にいれば、娑婆で暮らせば、いずれ病気・事故で死んでいく、それこそ普通に日常生活を繰り返す中で、若者たちの希望ある未来のために、笑って死んでいこうではないか。
最初に戻って、どのように、将棋対局をするのか、とみていると、このたびの対局者は、若手の中村太地七段と、大ベテランの谷川浩二九段の対局となり、抱負の言明ということとなり、中村棋士が、「長いこと対局できない状況が続いたが、本当にうれしい、一手一手心を込めて指したい」と言っていた、感動した。
引き続き、谷川浩二九段が、日本・世界の大きな危機の中で、ここに至るまで、ご手配ご協力いただいた、関係者に感謝すると述べ、常識と深みのあるあいさつであった。デビュー以来、「光速の寄せ」という天才的な棋士であったが、長く棋士であることで、人間的な成長を遂げた人であろう。
対局は、囲い付きの座卓に面した椅子で行われることで、将棋盤の中央が、木枠の中央に例の塩ビの仕切りが設置されている。双方ともマスク着用対戦である。
伝統的に、畳・正座対局であるという、将棋において大きな変換である。やむを得ないものであろうが、棋士諸氏には、驚天動地のことであろう。
勝負の結果は、谷川九段の勝ちになったが、二人とも、順位戦(例のA組とか、B組とかいうあれです。)B級2組というあれなので、それぞれ実力的には伯仲していると思われる。
読み上げ係も、計測の係りも、離れて一人で賄い、極力、人を減らす努力をしていた。
そのためなのか、終了後、感想戦も何も行われず、終了とほぼ同時に、番組は終わってしまった。
駒指しが、素手で、薄い手袋を使ってとはされず、さされたのはせめてと思うが、マスクと、塩ビの仕切り越しに行われる、真剣勝負、殺し合いは、当事者にとってまことに、まどろっこしく、悔しいものであったろうと、推察される。
お気の毒なことである。もし、それが実力を出されるために支障であれば、相互の任意で、取っ払えばいいのではないか、と、私は思う。
それを言明すること自体、自分自身のみならず、所属の将棋連盟、傘下の友人棋士一同を、困った立場に追い込むことは、想像の範囲である。
今後も、このような体裁で番組を継続するのであれば仕方がない、しかし、死者も増えない、軽微なウイルス防護を至上のものとして、あらゆる「人間的活動」を妨害・阻害する、悪の根源、コロナファシズムを、私たちは、自ら追放しようではないか。
NHKの番組作成者、もう少し見識なり、識見を持ってよ、という言説になる。
私の信条、
マスク着用を義務づける店舗・商店には入らない。
協力をお願いする店舗には入る、そして、時に、えずくことなどがあれば、自己の飛沫を防護・処理する手段は講じる。
コロナファシズムに抗するため、自己欲望(大したものではないが)は追及する。もし、周囲といさかいになった場合は、私自身の知性と、倫理によって、判断する。
うちの英会話の教師が、自己のコモンセンスで判断するといったことは正しい、と思う。
きちんと自分の意見を持ち表明することについて、西欧人は一日の長があると思うが、私は、日本人も、あなた任せのバカばかりではないのでは、と考えている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます