さしものわけぎも根あがりし、プランターに妻が、青じそを植えました。田舎者ですが、私は青じそを、からむしと見間違えてなりません。とんでもない、田舎者です。
**************************************************************************
わが郷里、下松市(「くだまつし」と読みます。)の公立図書館も、コロナ下のもとで永く閉館し、5月末から、ようやく開館しました。しかしながら、開館営業時間は縮減されたままであり、10時半から17時半までです(現在、検索してみると、現在(R2.6.23現在)は、正常どおり、営業しているようです。)。
ただし、利用者に対し、マスクの着用は厳しく定められています。
いなかでは何もかも終了時間が早く、近隣の他市の図書館は、通常17時半で終わります。
下松市は、例外的に、従前から18時半に終了することとなっており、非正規ながら勤め人の私とすればとても重宝していました。
私は、下松市に居住しているのは、水道下水道料が安いことと、公立図書館のアクセスが便利であるためと公言しておりましたので、うれしいことです。
しかしながら、市内大企業H製作所で、5月にコロナの、り患者が出たせいなのか、その後の小・中学校の授業再開、公共施設の利用については、極めて厳しい適用がされ、長い間、その付帯施設とともに閉館していました。
これは、来たる都知事選挙のように、このコロナ過剰防衛を人気まきかえしの手段として、今年の下松市長選挙の人気取りをするためなのかと勘繰っていましたが、このたびは無投票で、市長選が終わった後も、戒厳令は続きます。
下松市のコロナ啓発情宣車が、どうも、恥ずかしいのか、高速で走っていく。
しかし、図書館併設の公民館は、今も、依然として「コロナ特殊営業」を続けており、なかなか、煩わしいことです。
せめて、顧客サービスが優良な民間企業のように、利用者に対してマスク着用を義務づけるより、個々人に任せ、飛沫感染の注意などにとどめるべきです。
山口県は久しく感染者が出ておらず、行政として、無意味で不合理な手順はやめましょうよ、という、当方の率直な感想であります。
民間企業とすれば、風評被害が極めて怖いので、自社従業員に、毎朝の厳しい健康チェックと、勤務中・勤務外の自己管理を科していることであり、また、利用者、顧客にまで、マスクの着用、ソシアル・ディスタンシングの勧奨(強制)、マスク未着用者への冷たい視線(ここはジョーク)を、厳しく課していることはよく理解できます。
それが、従業員を守るはずの企業の破綻にまでつながりかねないわけですから、その当否は別として、当該企業の恐怖や判断の根拠は理解できます。
先に、歯医者に行った際、(歯医者の)隣の美容院で、北九州市小倉区から来た客から、美容師さんに感染があり、結果的に美容院全体が休業においこまれたといっていました。
当該歯科医院も、危機意識からなのか、客が手に取る、雑誌から全部処分して、開け放った待合室の椅子以外に何もない状況です。
懇意(?)にしている歯医者なので、「先生はジムにもいけないね」、というと、私の担当者(当該奥さん)にとっては、それは冗談にもならない様子です。
後日、機会を改め、私もコロナ渦でうんざりしていたので、どうも死亡者が1,000人にも満たないし、ほぼ老人の死者しかないのに、毎年のウイルス感染死亡者は、二万人弱に比べて少ない数であり、すぐにでも平常に戻した方がいいじゃないか、というと、うちの先生も同じことを言っています、との回答である。
しかし、彼女は、平常業務に戻すとは、決して言わない。言えない。
ついでに、私は、もし私がコロナになって死んでも、あるいはがんになって死んでも、私の天命と思って頓着しないといったが、スルーされた(そういうものかもしれない。)わけです。
私の通院履歴は、ほぼ一月につき一日であり、私がその間にどのような行動をとっているか、彼女は知らない、県内に一人も発症者がいない中で、私がジムに通おうと、プールに通おうと彼女は関知しないのである。
私も、私の一月間の行動を彼女に話さない。妻にさえ、そんなことは言わない(時にトラブルになるが)。
これが高じれば、心理ゲームになる。互いに疑心暗鬼になり、今まで培ってきた相互の信頼関係を破壊する。
これも、コロナ全体主義がもたらす重大な災禍なのだ。
かつて、彼女は、率直で、自分の専門以外のことでもいろいろ思うことを語ってくれるので、私にとって好ましい人であった。
彼女に対し、ひと月のうちに、私が何をしたか、何を感じたか、しゃべれないのは、私の狭い交友範囲のうちで、苦痛である。
相互に感情のやり取り、思いやり、共感を示せない会話とは、社会生活とは、かくもつまらないものなのか。
先に、友人の図書館員と話した際(別の市の職員である。)、彼女が、しばらく閉館となる、というので、じゃあ、閉架式で、貸付を始めたらどうなのか、と提案したら、そんなことは無理だとの回答である。
まともな行政職なら、それくらいのことを検討すべきではないかと、私がいうと、怒られた。
上述した、わが下松市では、コロナ災禍のもとでも、ネット予約と、当該図書の窓口引き渡しだけはしていた。
足りないが、工夫した対応ではある。
閑話休題、友人の彼女はコロナを憎んでおり、彼女のコロナ過剰防衛に対する意図と気持ちは、どうも、彼女は、父母と同居しており、その体調と、り患の可能性をおもんばかっているように思えた。
十分に理解できることである。したがって、彼女の声も大きくなる。
しかし、個の問題と全体の問題をはき違えてはいけない。
日本社会の全体の問題として、現在のコロナ災禍が、政府の無策を助長する、一般大衆のそれこそ「弱者を思いやる」とか、「人に嫌われることはしない」などの、それだけでは安い善意や無思慮な正義によってあと押しされ、それが、強力な同調圧力や、間接強制として、国家経済の正常復帰を妨げ、若者たちの雇用を追い詰めている窮状、公立教育・国民の医療さえ妨げとている、この現実のもとで、何の意味があるのか。
また、当該現象を危機としてとらえず、本来採るべき適正な経済・財政政策に着手せず(まず最小限として消費税の停止・事業者の粗利補償)、コロナ騒ぎを停止しない中央政府に何の価値があるのか。
笑い話ではない、このままいけば、この冬のインフルエンザウイルスまで、際限なくコロナ全体主義のもとで、戒厳令は続くであろう。
その中で、日本経済はとどめをさされ、なお一層、敵国中共に食い物にされる状況となり、日本国は、あのファシスト国家の属国(経済的に、パナソニックなど、いつでも国民の知的財産を売り渡す準備に入っているではないか。ファシスト国家に加担し体制強化に直接加担する売国行為である。商売人が商売だけを目的にするとどうなるかと、警世家・実践家であった、創業者に恥ずかしくないのか。)と化し、若者たちには、絶望と無気力がまん延するであろう。
そこは、老人であっても、例外はない。ああ、なんと恥ずべき企業に成り下がったかと、思うOBも少なくない筈である。
そうなれば、それこそ今後の社会は、無秩序と犯罪が頻発するようになるかもしれない。
礼儀正しく、他者への思いやりと察しを大事にする、日本国の伝統も、文化も死に絶えるかもしれない。
そんな、暗い救いのない未来を、私たち老人は望まない。
再度申し上げる。
若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか?
死ねと言っているわけではない。若さに執着しても、寿命に執着しても、あまり意味はない。私たちの多くはそのようにできている。
社会の中で普通に、できれば楽しく暮らし、運が悪ければ死んでいく。それだけのことである。
また、その方が、普通の人性として「自然」である。
私たちは将来に希望を残して、幸福に死んでいきたい。
うちのおば(82歳)に聞いてみると、彼女も在宅の一人暮らしであるが、何もかも制約されて、私もうんざりしたのは同様だが、もし、運悪く、り患したら私はいつ死んでもいいと思う、といっている(いざとなれば、お互いに多少あがくかもしれないが)。
それが、多くの、今世に、在宅で暮らす、老人たちのそれが平常時の良識(コモンセンス)で、本音でありはしないか。
つくづく、私たちは、3.11東日本大震災の教訓を、早々と忘れていたのではないかと思われる。
当時、り災、被災した人がまず必要であったのは、それぞれが、速やかに自立した日常生活に復帰することを望み、それを支援することが第一義だった。
しかし、中央政府による、その対応に、時間がかかればかかるほど、被災者は日々に生活に困窮し、苦しみ、復興と、被災者の速やかな社会復帰に大きな禍根を残した。
なぜあの時に、組織的な早期支援ができなかったのか、というのは、政府・地方・市民たちの中の、それぞれの局面で、心ある関係者大衆の反省ではなかったかと思う。
(自然災害が、パヨクによって、反原発運動にすり替えられたのは、非常にくやしい思いがする。)
大規模な自然災害に対して、「がんばろう日本」だけでは済まなかったのである。
あの時は、2万人弱の犠牲者を出したが、この度の犠牲者は、コロナが直接の引き金になったかわからないところで、まだ、1,000人に達していない。
数の問題ではないというかもしれないが、社会全体に与える損害と、今後の私たちの孫子(まごこ)たちに与える影響は、この度のコロナ災禍の方がもっと大きく、国民に甚大な被害を与えるものかもしれない。
わが県でも、岩国市では、5月の連休明けから公立小中学校が再開され、独自の取り組みを始めた。
それで支障が生じたとは聞いていない。
相対的に英明な首長である。
わが市では、5月下旬にようやく学校が再開された。それぞれの学校で、学ぶ権利、教える権利を奪われた、日常生活を送る権利をうばわれた、生徒たちや、心ある教師たちの、苦衷と無念を私は思う。
小学校の校庭のそばを、車で通るたび、楽しく遊んでいる生徒たちが、熱い中で、友達ともみ合いながら遊びつつ、マスクを強いられるのは、本当にかわいそうである。
それを強制せざるを得ない、教職員たちもお気の毒なことである。
それこそ、私たちは、その社会生活を支障なく過ごせることをずっと、かれこれ半年間の間も、コロナファシズムによって阻害されてきた。
言ってしまえば、中央政府がバカでも、地方自治体までバカである必要はない。
かつて、地方自治体の、能力ある指導者は、過日、国を承服させる「正しい」選択を行ったことも記憶にある。
地方からでも、今すぐ、コロナ規制をやめましょうよ。
それは、十分可能と私は思います。
**************************************************************************
わが郷里、下松市(「くだまつし」と読みます。)の公立図書館も、コロナ下のもとで永く閉館し、5月末から、ようやく開館しました。しかしながら、開館営業時間は縮減されたままであり、10時半から17時半までです(現在、検索してみると、現在(R2.6.23現在)は、正常どおり、営業しているようです。)。
ただし、利用者に対し、マスクの着用は厳しく定められています。
いなかでは何もかも終了時間が早く、近隣の他市の図書館は、通常17時半で終わります。
下松市は、例外的に、従前から18時半に終了することとなっており、非正規ながら勤め人の私とすればとても重宝していました。
私は、下松市に居住しているのは、水道下水道料が安いことと、公立図書館のアクセスが便利であるためと公言しておりましたので、うれしいことです。
しかしながら、市内大企業H製作所で、5月にコロナの、り患者が出たせいなのか、その後の小・中学校の授業再開、公共施設の利用については、極めて厳しい適用がされ、長い間、その付帯施設とともに閉館していました。
これは、来たる都知事選挙のように、このコロナ過剰防衛を人気まきかえしの手段として、今年の下松市長選挙の人気取りをするためなのかと勘繰っていましたが、このたびは無投票で、市長選が終わった後も、戒厳令は続きます。
下松市のコロナ啓発情宣車が、どうも、恥ずかしいのか、高速で走っていく。
しかし、図書館併設の公民館は、今も、依然として「コロナ特殊営業」を続けており、なかなか、煩わしいことです。
せめて、顧客サービスが優良な民間企業のように、利用者に対してマスク着用を義務づけるより、個々人に任せ、飛沫感染の注意などにとどめるべきです。
山口県は久しく感染者が出ておらず、行政として、無意味で不合理な手順はやめましょうよ、という、当方の率直な感想であります。
民間企業とすれば、風評被害が極めて怖いので、自社従業員に、毎朝の厳しい健康チェックと、勤務中・勤務外の自己管理を科していることであり、また、利用者、顧客にまで、マスクの着用、ソシアル・ディスタンシングの勧奨(強制)、マスク未着用者への冷たい視線(ここはジョーク)を、厳しく課していることはよく理解できます。
それが、従業員を守るはずの企業の破綻にまでつながりかねないわけですから、その当否は別として、当該企業の恐怖や判断の根拠は理解できます。
先に、歯医者に行った際、(歯医者の)隣の美容院で、北九州市小倉区から来た客から、美容師さんに感染があり、結果的に美容院全体が休業においこまれたといっていました。
当該歯科医院も、危機意識からなのか、客が手に取る、雑誌から全部処分して、開け放った待合室の椅子以外に何もない状況です。
懇意(?)にしている歯医者なので、「先生はジムにもいけないね」、というと、私の担当者(当該奥さん)にとっては、それは冗談にもならない様子です。
後日、機会を改め、私もコロナ渦でうんざりしていたので、どうも死亡者が1,000人にも満たないし、ほぼ老人の死者しかないのに、毎年のウイルス感染死亡者は、二万人弱に比べて少ない数であり、すぐにでも平常に戻した方がいいじゃないか、というと、うちの先生も同じことを言っています、との回答である。
しかし、彼女は、平常業務に戻すとは、決して言わない。言えない。
ついでに、私は、もし私がコロナになって死んでも、あるいはがんになって死んでも、私の天命と思って頓着しないといったが、スルーされた(そういうものかもしれない。)わけです。
私の通院履歴は、ほぼ一月につき一日であり、私がその間にどのような行動をとっているか、彼女は知らない、県内に一人も発症者がいない中で、私がジムに通おうと、プールに通おうと彼女は関知しないのである。
私も、私の一月間の行動を彼女に話さない。妻にさえ、そんなことは言わない(時にトラブルになるが)。
これが高じれば、心理ゲームになる。互いに疑心暗鬼になり、今まで培ってきた相互の信頼関係を破壊する。
これも、コロナ全体主義がもたらす重大な災禍なのだ。
かつて、彼女は、率直で、自分の専門以外のことでもいろいろ思うことを語ってくれるので、私にとって好ましい人であった。
彼女に対し、ひと月のうちに、私が何をしたか、何を感じたか、しゃべれないのは、私の狭い交友範囲のうちで、苦痛である。
相互に感情のやり取り、思いやり、共感を示せない会話とは、社会生活とは、かくもつまらないものなのか。
先に、友人の図書館員と話した際(別の市の職員である。)、彼女が、しばらく閉館となる、というので、じゃあ、閉架式で、貸付を始めたらどうなのか、と提案したら、そんなことは無理だとの回答である。
まともな行政職なら、それくらいのことを検討すべきではないかと、私がいうと、怒られた。
上述した、わが下松市では、コロナ災禍のもとでも、ネット予約と、当該図書の窓口引き渡しだけはしていた。
足りないが、工夫した対応ではある。
閑話休題、友人の彼女はコロナを憎んでおり、彼女のコロナ過剰防衛に対する意図と気持ちは、どうも、彼女は、父母と同居しており、その体調と、り患の可能性をおもんばかっているように思えた。
十分に理解できることである。したがって、彼女の声も大きくなる。
しかし、個の問題と全体の問題をはき違えてはいけない。
日本社会の全体の問題として、現在のコロナ災禍が、政府の無策を助長する、一般大衆のそれこそ「弱者を思いやる」とか、「人に嫌われることはしない」などの、それだけでは安い善意や無思慮な正義によってあと押しされ、それが、強力な同調圧力や、間接強制として、国家経済の正常復帰を妨げ、若者たちの雇用を追い詰めている窮状、公立教育・国民の医療さえ妨げとている、この現実のもとで、何の意味があるのか。
また、当該現象を危機としてとらえず、本来採るべき適正な経済・財政政策に着手せず(まず最小限として消費税の停止・事業者の粗利補償)、コロナ騒ぎを停止しない中央政府に何の価値があるのか。
笑い話ではない、このままいけば、この冬のインフルエンザウイルスまで、際限なくコロナ全体主義のもとで、戒厳令は続くであろう。
その中で、日本経済はとどめをさされ、なお一層、敵国中共に食い物にされる状況となり、日本国は、あのファシスト国家の属国(経済的に、パナソニックなど、いつでも国民の知的財産を売り渡す準備に入っているではないか。ファシスト国家に加担し体制強化に直接加担する売国行為である。商売人が商売だけを目的にするとどうなるかと、警世家・実践家であった、創業者に恥ずかしくないのか。)と化し、若者たちには、絶望と無気力がまん延するであろう。
そこは、老人であっても、例外はない。ああ、なんと恥ずべき企業に成り下がったかと、思うOBも少なくない筈である。
そうなれば、それこそ今後の社会は、無秩序と犯罪が頻発するようになるかもしれない。
礼儀正しく、他者への思いやりと察しを大事にする、日本国の伝統も、文化も死に絶えるかもしれない。
そんな、暗い救いのない未来を、私たち老人は望まない。
再度申し上げる。
若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか?
死ねと言っているわけではない。若さに執着しても、寿命に執着しても、あまり意味はない。私たちの多くはそのようにできている。
社会の中で普通に、できれば楽しく暮らし、運が悪ければ死んでいく。それだけのことである。
また、その方が、普通の人性として「自然」である。
私たちは将来に希望を残して、幸福に死んでいきたい。
うちのおば(82歳)に聞いてみると、彼女も在宅の一人暮らしであるが、何もかも制約されて、私もうんざりしたのは同様だが、もし、運悪く、り患したら私はいつ死んでもいいと思う、といっている(いざとなれば、お互いに多少あがくかもしれないが)。
それが、多くの、今世に、在宅で暮らす、老人たちのそれが平常時の良識(コモンセンス)で、本音でありはしないか。
つくづく、私たちは、3.11東日本大震災の教訓を、早々と忘れていたのではないかと思われる。
当時、り災、被災した人がまず必要であったのは、それぞれが、速やかに自立した日常生活に復帰することを望み、それを支援することが第一義だった。
しかし、中央政府による、その対応に、時間がかかればかかるほど、被災者は日々に生活に困窮し、苦しみ、復興と、被災者の速やかな社会復帰に大きな禍根を残した。
なぜあの時に、組織的な早期支援ができなかったのか、というのは、政府・地方・市民たちの中の、それぞれの局面で、心ある関係者大衆の反省ではなかったかと思う。
(自然災害が、パヨクによって、反原発運動にすり替えられたのは、非常にくやしい思いがする。)
大規模な自然災害に対して、「がんばろう日本」だけでは済まなかったのである。
あの時は、2万人弱の犠牲者を出したが、この度の犠牲者は、コロナが直接の引き金になったかわからないところで、まだ、1,000人に達していない。
数の問題ではないというかもしれないが、社会全体に与える損害と、今後の私たちの孫子(まごこ)たちに与える影響は、この度のコロナ災禍の方がもっと大きく、国民に甚大な被害を与えるものかもしれない。
わが県でも、岩国市では、5月の連休明けから公立小中学校が再開され、独自の取り組みを始めた。
それで支障が生じたとは聞いていない。
相対的に英明な首長である。
わが市では、5月下旬にようやく学校が再開された。それぞれの学校で、学ぶ権利、教える権利を奪われた、日常生活を送る権利をうばわれた、生徒たちや、心ある教師たちの、苦衷と無念を私は思う。
小学校の校庭のそばを、車で通るたび、楽しく遊んでいる生徒たちが、熱い中で、友達ともみ合いながら遊びつつ、マスクを強いられるのは、本当にかわいそうである。
それを強制せざるを得ない、教職員たちもお気の毒なことである。
それこそ、私たちは、その社会生活を支障なく過ごせることをずっと、かれこれ半年間の間も、コロナファシズムによって阻害されてきた。
言ってしまえば、中央政府がバカでも、地方自治体までバカである必要はない。
かつて、地方自治体の、能力ある指導者は、過日、国を承服させる「正しい」選択を行ったことも記憶にある。
地方からでも、今すぐ、コロナ規制をやめましょうよ。
それは、十分可能と私は思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます