天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

騒がしい子供を見たら、なぜ「イラッとしたり」するのか、から(いろいろ)考える、併せ暴走老人を観察する。その2

2017-06-17 13:37:09 | 時事・風俗・情況
先に、娘に外孫ができて以来、ときおり「子(孫)守り」をすることとなりました。
 内省的に申し上げれば、子育てでいろいろ失敗して以来、実例であるわが子(娘)は私の監護能力にあまり期待はしていませんが、自らの繁忙と日々の育児疲れのためか、「背に腹は変えられず」、土、日、祝日などに、孫(男)を連れてきます。こちらとすれば、日ごろの親子レベルでの無沙汰にかかわらず、機嫌のよい状態の孫がニコニコと近寄ってくれば、やはり「かわいい」わけです。一般的には、歓迎する態勢です。
 それ以降、波及効果というのか、近頃は、その孫から連想するのか、同年代の子を見ると、理不尽に「イラッとしなくなる」ことが多くなり、人間は感情の動物でもあり、その部分、一部訂正します。抗うつ剤の効果と似ているというか、われながら、恥ずかしいことです。やはり、想像力の欠如というものは、無理解とか、かたくなな感情を誘発するものではあります。先に触れた、小学校の運動会の音がうるさい、とか、保育園のこどもの声がうるさい、撤去しろ、などとの暴走老人は、その一部に貧困による性格のゆがみや自己の血族に手ひどく裏切られたか(虐待されていたか)、あるいは無理解や親族の放置にさらされたことがあるなど、社会的な孤立と孤独が、その背景であるならお気の毒なことではあります。しかしながら、逆境に強いられる人々すべてが暴走老人になるわけでもなく、人性の長きにわたり、自分のマイナス感情、自己の人格の負性を陶冶(とうや)する契機を持たなかったのは、自分の問題ではありますが。
 殊に最近、若い母親に抱かれた(文字通り今は胸ですが)幼児の顔をつい覗き込んでしまうことがあり、十分に配慮され健やかそうに見えるこどもを見れば見ている小幸福であるところです。相手にもその感情は理解できるようです。

 歌手の宇多田ヒカルさんが、やはりあの方くらいになると、若いお母さん方のロールモデルくらいにはなるようで、「「日本の社会は育児に冷たい」(エレベーターにベビーカーで乗りにくい、いろいろな場所でこどもが泣いたりぐずったりすれば嫌な顔をされる)と友人に聞いた、とのコメントがあり、多くの女性が、わが意を得たりと賛同した」、という記事を読み、なるほどと思った覚えがあります。欧米との比較は触れませんが、確かに、混んだエレベーターにベビーカーで乗ろうとすると、人によっては嫌な顔をするだろうし、よたよたと老人や、汗臭い姿の男どもが乗ろうとすれば忌避されるでしょう。確かに、日常的に、日本国民は過度にストレスフルな状態にあるのですね。仮に空いたエレベーターの中であれば邪けんなふるまいもないだろうし、休日などであれば、寛容な、弱者への配慮が自然にできるかもしれないところです。

 ところで、先日、わが娘がどうしても、軽食でもいいので、外で食事がしたかったようで、妻と三人でショッピングモールの中のチェーンの喫茶店に入りました。うちの孫は、安いバナナが大好きなとても良い子ですが、バナナジュースを飲めば待ってはいない、途端に店外に走り出します。これはしつけとかそういう段階ではない、追っかける私を尻目に、彼女たちは平然と飲み食いしています。一連のバタバタが終わり、「こっちにおいで」とようやく妻が抱き上げ、私と交代です。場なれているので、いつもコンビで役割をこなしているのでしょうが、当該支援のない母親が一人で、外でお茶を飲むのは無理ですね。
 娘に言わせると、さるファミレスでは、眉をひそめる老人なのか若者がいるためなのかどうなのか、特に野放しをしていなくとも、幼児が声をあげれば厳しく注意されるそうです。幼児お断りとは書いてないので、店の管理者側の「正義感」の表れかもしれませんが、つまらない安い正義ですね。また、たまたまそこに居あわせたとして、そんなつまらない正義には、ひとこと申し述べたいところですね。

 確かに私の学生時代なら、「こども、うるせー」とか思っていたかもしれないところですが、あの頃は「・・・だれにも従わず、傷の手当てもせず・・(「サムデイ」(佐野元春)」の時代ではありました。
 そういえば、その後、就職したあと、その職場にパートタイムに入った女性が、なにかのときに「私は自分の結婚式で、「こどもはつくりません」と宣言した」と話していたので、「埴谷雄高のファンなんですか」と頓珍漢な突っ込みをしてしまいました(註 埴谷雄高によれば人間にできる意識的な行為は2つしかない。一つは自殺すること。もう一つはこどもをつくらないこと。)。私はとてもびっくりしました(相手もそうかもですが)。実際のところ、いろいろな人がいるものです。

 現在での私の結論、やっぱり、こどもは作るものではないのですね、できるものなのです。

晩年期の吉本隆明が、その著書で孫を「孫殿」と呼んでいましたが、わが家においても「孫殿」というのが適当な呼称であるやに思われます。
きちんと適正に自己形成したかと疑わしい(?) うちの娘でさえ、「うちの○○くん」、「・・○○くんのために・・・」と、言い出しましたが、それだけですめば「あれですら、母になったのだ」と慨嘆すればいいところです。しかしながら、彼女自身の自己欲望や自己利害に基づき無自覚に、「孫殿」に対し、私及び妻から過大な労力や、金銭の無償支出すら真顔で求めるようになってしまえば、これは、わが家の「主君」ですね。そのピラミッド型序列は明確であり、私たちとすれば当該主君に仕える幸福(いささか不健康な)は、今後、加齢や、面会の頻度に応じ、ますます高まる一方かもしれません。

ところで、「人間は社会的存在である」というのは、私には、反対する必要がないようなテーゼですが、「こどもの教育は社会で行う」という言説は、首を傾げるところです。
公立学校の義務教育は、当然、国家の義務であり、責任であると思います。国民の子弟に未熟練で低技能な人材を求めた(?) ゆとり教育は論外にしても、意欲ある子に必要な教育をほどこし、義務教育の質を保持し、広義の国力を維持するのは、国家の重要な責務であります。教育の目的とは、「自立心を培うこと、他者世界に対する想像力を養うことであり一方が片方を相互に支えあう」(小浜逸郎氏)ことであるということはよく理解できます。それこそ、われわれの世代、公教育しかない時代を通過し、含蓄ある言葉として骨身にしみ、その継承がない教育など、国民の一人として、断じて認められないところです。また、星の数ほどある(?)かのような家族の中で、かわいがられ、しつけ、訓育、善悪の判断などの贈与すら与えられない子供とはなんと不幸なことではないのか、と思われるところでもあります。片面でだけいえば、ろくでなしの政府のもとでも、家庭と家族の協力と努力で、「いい子は育つこともある」、というところですね。
すると、たとえば、ひとつの例として、「こどもの教育は社会で行う」というのは扶助費の問題かも知れない。
現実的な形として、国家の贈与としての「児童手当法」(昭和46年法律第73号)第1条には、「(給付を以て)次代の社会を担う児童の健やかな成長に資する」と書いてあり、その解釈については、当初から当該手当の受給経験のない私とすれば、「次代を担えないような児童については特に給付する必要はないのだな」と反対解釈が考察されます。それは税負担者とすれば許しがたいことであり、将来は、「ろくでなし」の国民になる一定数は別に、優秀な子は無理にせよ(わが家と一緒で)、多くが規範意識のある、協調的で温和な人間になって欲しい、と望みます。何も、国民の愛児がかわいいから政府が支出するわけではない、はき違えてはいけない、わけです。
児童手当の、その効果が、所得再配分としての「貧困」家庭への「ばらまき」、ということであれば、民主党以来、現自民党政権まで継続中の「○○臨時交付金」と同様に、馬鹿げた財政政策であり、政治的な党派対策により、いわゆる「愚民」に媚びる(当該受給者を堕落させる)、世紀の悪法であると考えます(「われわれは乞食ではない」と誰か言わなかったのか。)。ついでに申し上げれば、かつて存置した、広い所得階層にその適用と恩恵があった「恒久減税」という制度は、有効需要の創出及び景気回復を嫌悪しそれに反対する財務省の横やりで廃止となりましたが、当時、当該政策は、「ばらまき」よりはるかに意味があった、と私は考えます。いずれにせよ、「恒久」であるはずの減税を、即時撤回というのは、言葉そのもののみならず、軽い「政府」ではありますが。

まず、身内から、と考察すれば、うちの娘は、「わが子は社会全体の財産」などと、ふと考えていはしないかと、疑われます。そのような「社会人」としていわゆる「恥ずい」ような感覚をわかっていないとすれば、少々嫌われても、老骨に鞭打ち、私が教育しなければならないか、と思ってしまう。また、孫は「家族の財産」として、「孫はかわいいでしょ、接面させてあげてるんだから・・・・」と仮に思っているすれば、それは納得できないところです。たとえば、家族の本質として「愛の直接性」(ヘーゲル 一組の夫婦がこどもを持ちその過程で自らの最良の部分を相手に相互に差し出すことによりその人格が陶冶されまたその役割がこどもに継承されるという人倫のサイクル)において、相互のとはいうけど、それを恣意的に無理強いされることはないだろう、と思うわけです。うちの妻は「そうじゃないのよ、面倒みさせてもらっていると思わなきゃならないのよ」、と厳しく私をけん制していましたが、その後、娘に、おさんどん支援とか、用事で何度も呼びつけられる中で、その意欲が下がっているのも現実です。
まあ、私の残り少ない「愛」を、身内といえども勝手に測って欲しくない、というのが本音であります。たぶんこれは究極においてひとつ身を分けた、妻とは別の感覚です。

しかしながら、先ごろから、いろいろな場所で、高齢(?)女性同士の世間話を漏れ聞いていると、例外なく、愛もお金も注いだわが子や孫などの仕打ちに対する怨嗟(うらみ)の話ばかりです。友人に話せば気持ちが治まるかもしれませんが、最初から最期までその話であれば、漏れ聞くほうも暗澹たる気持ちになりそうなところです。うちの親も「時には寄れよ」とよく言っていましたので、これはいずれ通る(通ってきた)道であるかも知れませんが、義理づくでも、義父母と付き合ってきた、彼ら(私たち)の世代と比べてれば、損な役回りかもしれません。彼女たちも相互に愚痴をこぼせば、孫や子と、また破綻しない普段とおりでの、人間関係に戻れるのかもしれません。

いずれにせよ、あいまいに括る「われわれ」の現在としては、双方の両親を看取った(まだ全部ではないが)学んだことは多かったが、自己の人性の残年数を考え、できれば健康ですごし、貯金残高の懸念、自己をどのように埋葬するかの懸念、「埋葬の義務」(ヘーゲル 死者を看取り、墳墓にきちんと葬るという家族に与えられた大きな仕事)を果たしていただくことも怪しくなり、こどもの支援もあまりないであろうことを含めて、不安で仕方がないことも、確かなことです。
文字通り、やれるようにやるしか、なるようになるしかないのです。正直に、率直に言って、家族は時々は、相互に訪問しあい、こどもの様子や、孫の声を聞きたいことは確かではあります。

わが家は、こども二人とも仕事を持ち、家族を持ち、どうやら社会生活を反復継続することができる状況になった。
妻が言うように、おいしいものを食べたい、どこかに旅行に行きたい、とか、今になれば、是非にとは思わなくなった。

それが一般的なものであれば、「(現世的な)自己欲望・自己利害の実現」を多少逸れ、正しい義のために(見極めがきわめて難しいところですが)多少なりとも働きたい、という気持ちと行動をした方がよくはないですか、と思うわけです。

 「もう仕様がないんだから、人もため、とか、あなたの近所や身近な皆のために〇〇しようよ」とか考えた方がいいんじゃないですか」、とそんなことをおばあさん方に話したいと思うが、うちの妻を説得できないように、通じないでしょうね。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿