家族社会学的考察(正月のテレビを見て考えたこと)
(男の孤独と、周囲からみたその「やりきれなさ」について)
H26.1.24
事情があって正月中テレビばっかり見ていましたが、NHKのEテレで、午後9時頃から「団塊世代スタイル」という番組があります。その時まで知りませんでしたが、この団塊世代は50歳第以上が対象ということで、我々も立派な視聴者です。このたび興味深かったのは、高齢者ストーカーというタイトルで、高齢者の破廉恥犯、粗暴犯の急増に対する対応を扱った番組でした。
地方紙を見ても、老人(異論があるかも知れませんが60歳以上とします。)の事件が大変多いのは毎度のことです。万引き、窃盗、暴行、わいせつ行為など、新聞に載らない日は少ないかのように思われます。先に、70歳代女性に対するストーカー行為というのがあって、年下のストーカーの被害を受けるという事件があり、お気の毒な話です。
また、他にも施設入所の70歳代の女性が、同所に住んでいる複数の60台の男を手玉に取った(愛と性をかけて男二人が傘で決闘をしたそうです。)とかいうのもあって、なかなか深い話です。
番組の中で、老人融和(ほぼ男です。)の試みというのがあって、熟年者デート支援というので、若い女性を時間給3000円で雇い、散歩、食事(酒を伴わない。)、コンサート観戦、カラオケなどいわゆる中学生みたいなデートをする、というものです。この試みは、熟年男性の、疎外感、孤立感をいかに癒すかというものなのです。
今回出演した利用者は63歳で、妻と死別(離別でもいいですが)し、子どもがなく、独居世帯です(たぶん自分で何ら感情の澱を感じないような人なのでこのサービスを利用するのに、道徳(?)的な逡巡はあまりないのでしょう)。
今日の予定は、まずジャズ喫茶を梯子し、散歩して、食事し別れるという予定です。カメラがずっとついて行きますが、話が弾み、女性は聞き上手で、ちゃんと相槌を打ってくれます。彼は、最後にお金を払って機嫌よくわかれますが、やっぱりカメラの眼は冷徹で、彼の孤独もわびしさもみんな映し取ってしまいます。
たぶん、男は、退職と同時に、ほとんどの社会的関係を失い(男だけの職場であったかも知れない)、しろうと(?)の女性と話す機会をほとんど失ったのでしょう。殊に、妻も子もいなければ、気の毒な境遇になります。このたびの彼の習慣は、ストーカー行為に及ぶよりははるかに健全で、理性的な方法なのですが、どうしても、いうなれば、いかがわしさが付きまといます。しかし、たぶん、男にとっては、異性に話を聞いてもらって、承認してもらうための時間が、是非とも必要なのがよくわかります。例えば、私たちにもし相談があれば、この人には、自治会活動や、行き所がなければ、女性を含む趣味の集まりとして、公民館とかで活動されたらという話になりますが、そのような関係にも入りにくい人かなとも思います。人には、向き不向きがあって、男には在職時の社会的な関係(地位)がこびりつき、退職後も序列を要する人はいるわけで、その意識が呪縛のように更にストレスになり、参加できない人もいるのも、うそではないと思います。また、趣味の会も知らず知らずに(男も女も含めて)序列を含むので、皆にとって居やすいという環境は難しい。誰かの言いぐさではないですが、自己努力で、また彼の能力や資力で、彼の状況が変わるかも知れませんが、それも若い男と同様、持つものと持たぬもの(小谷野敦の「もてない男」参照)は、生まれてからずっと不断に存在するので、(終わった)老年者に対し、能力を高めよとか自己努力(村上龍のいうように、「意中の人に振り向いて欲しい」若い男にはそれしかないでしょう。)を期待するのは酷な話です。
しかし、ごく平凡なモデルのおじさんは、「昔はジャズが好きで、コルトレーンがどうでアイラーがどうの・・・」、と、聞き上手の若い女の子と楽しく話ができたでしょう。それだけとはいいませんが、楽しく、充実した時間であったに違いありません。また、お金を払ってもの、そんな話(?)をよく聞いてくれる性格のいい若い子が、普通にいるとも思えません。
その後で、司会の吹雪ジュンが、「なぜ男の人は(いい年になって(お金を払ってまで))そんな付き合いを求めるんでしょうねー。趣味とかに生きればいいのに。」というと、他の出演者(全部男)全員が、カメラの前で凍りつきます。
*ナイーブな人がいたら困りますので説明しますが、男が50~60歳台になった時点で性的にニュートラルになるなどあり得ない話です。また、同時に、吹雪ジュンは勝者なのです。たぶん、愛も性も抜きに、お食事をおごってくれたり、どこかへつれて行ってくれたりする男はいくらでも、彼女は確保しているのでしょう。いわば彼女は、彼女が付き合っている金も教養もある男の立場から、疎外されている男全体を鳥瞰(いわば意識されない勝者の目線で)しているのです。ただし、女性は、同性のお友達を大切にしますし、「今日からフラ」とか、前向きです。期せずしてこのような話が出るのも確かです。(「女は関係、男は立場」という含蓄のある言葉もあったですよね。)
止むを得ず、年をとってもいい男の鳥越俊太郎が(平凡な男たちの恨みを買わないように謙虚に)答えます。「うちは妻がいてとても幸せです。私には、そんな孤独には堪えられそうもありません。」
他にも参加している、修羅場を踏んでいるはずの心理学者なども、吹雪ジュンの単純で率直な質問に、また余りに天然な疑問に、はかばかしい答えができません。
参加の男ども(同席の男アナウンサーを含めて)には、多くの(わびしい)高齢の男の、不器用さと、切実さと、ある意味で切々とした悲しみが、心に沁みてくるからです。
この前、秋葉で、お出かけデート斡旋所というのが摘発されました。
女子高生などと、時間契約で、希望した男が秋葉周辺をデートしてお金を斡旋所に払う
という、老年デートクラブといわば同様なシステムです。ただ、(間違いなく)男はそれ以上のサービスを求めるので、被害が出て、警察に摘発された事件です。
また、以前に、「耳かきサロンストーカー事件」(常連男の付きまとい殺人事件)というのがありましたが、被害にあった子は、可哀そうですが、彼女は、最初「耳かきサロン」は風俗ではないと思っていたとしても、仕事をしていくうちにその危うさは、被害者の女の子にはたぶんわかっていったと思います。しかし、サービスとサービスの隙間を埋めるような、いかがわしさと、お話し相手になってあげるという中間のサービスで、お金をもらう仕事ではありますが、実は相互に人間同士としての微妙な駆け引きと交流の刹那があったのかもしれません。「生活者はその隙間を生きる」と昔、山田太一(脚本家)が言っていたように思います。そうでなければ、風俗の無意味さと殺伐さに人間の精神が堪え切れるはずがないと思われるからです。
いずれにせよ、(ありがたいことに全部が全部ではないでしょうが、)男は暴走するのです。今回の老年者デートクラブも、現象的には、秋葉デートクラブなどと違ったものとは思えません。老人にそれ以上踏み出す余力(?)や、過剰な思い込みがあるかどうかです。
以前(2002年)、「アバウト・シュミット」という映画がありましたが、怪優ジャック・ニコルソン主演の映画で、男誰もが自分の将来として想定できるような嫌われ者の老人のおかしさ悲しさをこれでもかと描いた笑える凄い映画(最後は、チャップリン映画のように、上質な悲哀に逢着するのです。)でした。その中で、定年後、妻と死に別れたシュミット(ニコルソン)が、娘との折り合いが悪く、思いつきで放浪の旅に出たとき(彼は若いときイージーライダーに主人公と放浪する酔いどれの弁護士の役で出てました。)、旅先で親切にしてくれた女性に一方的にほれ込み情愛を込めてキスして、相手方が逆上して怒り出すというシーンがありました。女性にすれば、自分の至上の善意(隣人愛)が、汚い老人に汚されたような気がしたのでしょうが、男と女の行き違いというか、人間の存在意義(?)に触れたというか、なかなか深い話です。
ところで、暴走は、暴走なので、犯罪ですから、老若を問わず司直で裁きを受けるのは当然ですが、なぜ、こんなに枯れない老人が増えたかということとなれば、やはり超高齢化社会の到来と、家族の規範が弱くなったとしか言いようがないような気がします。それと同時に、ストレス過重の社会の中ではありますが、規範意識の鈍磨と、現在の社会で際限ないように拡大される自己欲望の無限追求が、老人の中ですら一般的になってしまったようにも思います。
今にして思えば、我々の父祖は少なくとも、家庭で「倫理」とか「正義」はちゃんと説いていたように思います。嘘でも「四十にして惑わず」とか、理不尽にでも「悪いものは悪い」と言い、その「倫理」を説く人間は、家族や「世間」(地域社会)の無意識の集団的な監視にもとで、余りに極端な行為には踏み出せなかったはずです。
ただし、現在では、若い男と同様に、老人も暴走する人が多い、ということは、よく認識する必要があります。それはもう、若い男と同様で、きっぱりふってやり、必要であれば司直に直ちに連絡してください。それがそれぞれの救い(悪いことは悪いのですから若者でも老人でもそれとして認識してもらわなければどうしようもない。)にもつながります。
これから、更に、ちょっと暗い話をします。
村上龍の短編で、失業し手持金の無くなった初老の男が、女子高生と交渉してカラオケに一緒に行く(カラオケに付き合うなら○○円よ、という話です。)、という短編があります。カラオケボックスで、「北風吹きぬく寒い朝を・・・」とひとりで歌いながら、男は自分の人生を脳裏で回想します。苦学してやっと出た二流の私立大学、二流企業への就職、職場結婚、親を無視しひきこもる息子、リストラ、就職できず、代わりにパートに出た妻の浮気、最初から話もせず携帯をいじりくすくす嗤う二人連れの女子高生の前で、「・・・騙されていた。俺は騙されていた・・・」と、心中で独白しながら、唯一青春時代に覚えた歌を続けます。すさまじい光景ですが、瞬時に切り取られた、それぞれのどうしようもない孤独と、隔絶と、その救いのなさが、背筋を凍らすように優れた凄い作品になっています。
(歌は「寒い朝」昭和37年、吉永小百合)
日本人の自殺者は、一昨年からようやく二万人を割り込むようになりましたが、自殺者のほとんどが熟年(40歳代後半から50歳代以上と思ってください。)の男であり、もちろん形而上学的な悩み(愛とか恋とか蜂の頭ではなく(お前はフーテンの寅か))ではなく、リストラ、離婚、生活苦、病気(心を含む)、孤独、孤立です。リストラが大流行りだったころ、リストラされた男が妻に責められ、居宅を引き渡し、必死の求職の挙句、浮浪者になるか、自殺するようなケースも多かった(「村上龍」のエッセイがあった。)ようです。これは、私たちにとって、現実的に、本当に、耐えがたい話ですが、労組や、職場や、家庭(妻)からでさえも支援がなく、一人で全ても背負わなくてはならない、おそろしいほどの男の孤独の状況は、本当は、ストーカーどころか、そんな余裕のある話ではないようです(当然、女の厳しい状況もありますが今回は敢えて触れません)。
また、熟年の男の自殺は、同時に彼の周囲の家族も崩壊させていきます。
当時、年収500万の人間を20人リストラして、社長の退職金を一億円払うという笑えない、話がありました。
現在でも「自己努力がない」とか、「おれのように出世してみろよ」、とか右肩上がりの時代のように言い切れる人がいるのか、私は疑問に思います(個々の努力を否定するわけでは毛頭ありませんが)。
まだまだ、少なからぬ、温厚な日本の男たちは、最後には、命すら、家族に、世間に差し出し、黙って死んで行くのか、と昏い(くらい)気持ちになってしまいます。
これは、多くの、殊に大正末期生まれの男たちが、当時の太平洋戦争の絶望的な状況の中で黙って死んで行った時代に比べても、現代の、その背後にひかえる家族からの絶望的なほどの孤立を前提とすれば、現在はもっと切実で悲劇的な状況ではないでしょうか。
私の心の「澱」のようなものは、積み重なっていくばかりです。
「君たちは無罪である、敵は「制度」である。「制度」を撃て。」と、学生時代のように大見得を切ってみましょうか?
しかし、今になって思えば、敵は「制度」(政治的な問題)だけではないような気もします。
何が「制度」で何が「敵」なのかは、相変わらず今も見えにくいですが。
(男の孤独と、周囲からみたその「やりきれなさ」について)
H26.1.24
事情があって正月中テレビばっかり見ていましたが、NHKのEテレで、午後9時頃から「団塊世代スタイル」という番組があります。その時まで知りませんでしたが、この団塊世代は50歳第以上が対象ということで、我々も立派な視聴者です。このたび興味深かったのは、高齢者ストーカーというタイトルで、高齢者の破廉恥犯、粗暴犯の急増に対する対応を扱った番組でした。
地方紙を見ても、老人(異論があるかも知れませんが60歳以上とします。)の事件が大変多いのは毎度のことです。万引き、窃盗、暴行、わいせつ行為など、新聞に載らない日は少ないかのように思われます。先に、70歳代女性に対するストーカー行為というのがあって、年下のストーカーの被害を受けるという事件があり、お気の毒な話です。
また、他にも施設入所の70歳代の女性が、同所に住んでいる複数の60台の男を手玉に取った(愛と性をかけて男二人が傘で決闘をしたそうです。)とかいうのもあって、なかなか深い話です。
番組の中で、老人融和(ほぼ男です。)の試みというのがあって、熟年者デート支援というので、若い女性を時間給3000円で雇い、散歩、食事(酒を伴わない。)、コンサート観戦、カラオケなどいわゆる中学生みたいなデートをする、というものです。この試みは、熟年男性の、疎外感、孤立感をいかに癒すかというものなのです。
今回出演した利用者は63歳で、妻と死別(離別でもいいですが)し、子どもがなく、独居世帯です(たぶん自分で何ら感情の澱を感じないような人なのでこのサービスを利用するのに、道徳(?)的な逡巡はあまりないのでしょう)。
今日の予定は、まずジャズ喫茶を梯子し、散歩して、食事し別れるという予定です。カメラがずっとついて行きますが、話が弾み、女性は聞き上手で、ちゃんと相槌を打ってくれます。彼は、最後にお金を払って機嫌よくわかれますが、やっぱりカメラの眼は冷徹で、彼の孤独もわびしさもみんな映し取ってしまいます。
たぶん、男は、退職と同時に、ほとんどの社会的関係を失い(男だけの職場であったかも知れない)、しろうと(?)の女性と話す機会をほとんど失ったのでしょう。殊に、妻も子もいなければ、気の毒な境遇になります。このたびの彼の習慣は、ストーカー行為に及ぶよりははるかに健全で、理性的な方法なのですが、どうしても、いうなれば、いかがわしさが付きまといます。しかし、たぶん、男にとっては、異性に話を聞いてもらって、承認してもらうための時間が、是非とも必要なのがよくわかります。例えば、私たちにもし相談があれば、この人には、自治会活動や、行き所がなければ、女性を含む趣味の集まりとして、公民館とかで活動されたらという話になりますが、そのような関係にも入りにくい人かなとも思います。人には、向き不向きがあって、男には在職時の社会的な関係(地位)がこびりつき、退職後も序列を要する人はいるわけで、その意識が呪縛のように更にストレスになり、参加できない人もいるのも、うそではないと思います。また、趣味の会も知らず知らずに(男も女も含めて)序列を含むので、皆にとって居やすいという環境は難しい。誰かの言いぐさではないですが、自己努力で、また彼の能力や資力で、彼の状況が変わるかも知れませんが、それも若い男と同様、持つものと持たぬもの(小谷野敦の「もてない男」参照)は、生まれてからずっと不断に存在するので、(終わった)老年者に対し、能力を高めよとか自己努力(村上龍のいうように、「意中の人に振り向いて欲しい」若い男にはそれしかないでしょう。)を期待するのは酷な話です。
しかし、ごく平凡なモデルのおじさんは、「昔はジャズが好きで、コルトレーンがどうでアイラーがどうの・・・」、と、聞き上手の若い女の子と楽しく話ができたでしょう。それだけとはいいませんが、楽しく、充実した時間であったに違いありません。また、お金を払ってもの、そんな話(?)をよく聞いてくれる性格のいい若い子が、普通にいるとも思えません。
その後で、司会の吹雪ジュンが、「なぜ男の人は(いい年になって(お金を払ってまで))そんな付き合いを求めるんでしょうねー。趣味とかに生きればいいのに。」というと、他の出演者(全部男)全員が、カメラの前で凍りつきます。
*ナイーブな人がいたら困りますので説明しますが、男が50~60歳台になった時点で性的にニュートラルになるなどあり得ない話です。また、同時に、吹雪ジュンは勝者なのです。たぶん、愛も性も抜きに、お食事をおごってくれたり、どこかへつれて行ってくれたりする男はいくらでも、彼女は確保しているのでしょう。いわば彼女は、彼女が付き合っている金も教養もある男の立場から、疎外されている男全体を鳥瞰(いわば意識されない勝者の目線で)しているのです。ただし、女性は、同性のお友達を大切にしますし、「今日からフラ」とか、前向きです。期せずしてこのような話が出るのも確かです。(「女は関係、男は立場」という含蓄のある言葉もあったですよね。)
止むを得ず、年をとってもいい男の鳥越俊太郎が(平凡な男たちの恨みを買わないように謙虚に)答えます。「うちは妻がいてとても幸せです。私には、そんな孤独には堪えられそうもありません。」
他にも参加している、修羅場を踏んでいるはずの心理学者なども、吹雪ジュンの単純で率直な質問に、また余りに天然な疑問に、はかばかしい答えができません。
参加の男ども(同席の男アナウンサーを含めて)には、多くの(わびしい)高齢の男の、不器用さと、切実さと、ある意味で切々とした悲しみが、心に沁みてくるからです。
この前、秋葉で、お出かけデート斡旋所というのが摘発されました。
女子高生などと、時間契約で、希望した男が秋葉周辺をデートしてお金を斡旋所に払う
という、老年デートクラブといわば同様なシステムです。ただ、(間違いなく)男はそれ以上のサービスを求めるので、被害が出て、警察に摘発された事件です。
また、以前に、「耳かきサロンストーカー事件」(常連男の付きまとい殺人事件)というのがありましたが、被害にあった子は、可哀そうですが、彼女は、最初「耳かきサロン」は風俗ではないと思っていたとしても、仕事をしていくうちにその危うさは、被害者の女の子にはたぶんわかっていったと思います。しかし、サービスとサービスの隙間を埋めるような、いかがわしさと、お話し相手になってあげるという中間のサービスで、お金をもらう仕事ではありますが、実は相互に人間同士としての微妙な駆け引きと交流の刹那があったのかもしれません。「生活者はその隙間を生きる」と昔、山田太一(脚本家)が言っていたように思います。そうでなければ、風俗の無意味さと殺伐さに人間の精神が堪え切れるはずがないと思われるからです。
いずれにせよ、(ありがたいことに全部が全部ではないでしょうが、)男は暴走するのです。今回の老年者デートクラブも、現象的には、秋葉デートクラブなどと違ったものとは思えません。老人にそれ以上踏み出す余力(?)や、過剰な思い込みがあるかどうかです。
以前(2002年)、「アバウト・シュミット」という映画がありましたが、怪優ジャック・ニコルソン主演の映画で、男誰もが自分の将来として想定できるような嫌われ者の老人のおかしさ悲しさをこれでもかと描いた笑える凄い映画(最後は、チャップリン映画のように、上質な悲哀に逢着するのです。)でした。その中で、定年後、妻と死に別れたシュミット(ニコルソン)が、娘との折り合いが悪く、思いつきで放浪の旅に出たとき(彼は若いときイージーライダーに主人公と放浪する酔いどれの弁護士の役で出てました。)、旅先で親切にしてくれた女性に一方的にほれ込み情愛を込めてキスして、相手方が逆上して怒り出すというシーンがありました。女性にすれば、自分の至上の善意(隣人愛)が、汚い老人に汚されたような気がしたのでしょうが、男と女の行き違いというか、人間の存在意義(?)に触れたというか、なかなか深い話です。
ところで、暴走は、暴走なので、犯罪ですから、老若を問わず司直で裁きを受けるのは当然ですが、なぜ、こんなに枯れない老人が増えたかということとなれば、やはり超高齢化社会の到来と、家族の規範が弱くなったとしか言いようがないような気がします。それと同時に、ストレス過重の社会の中ではありますが、規範意識の鈍磨と、現在の社会で際限ないように拡大される自己欲望の無限追求が、老人の中ですら一般的になってしまったようにも思います。
今にして思えば、我々の父祖は少なくとも、家庭で「倫理」とか「正義」はちゃんと説いていたように思います。嘘でも「四十にして惑わず」とか、理不尽にでも「悪いものは悪い」と言い、その「倫理」を説く人間は、家族や「世間」(地域社会)の無意識の集団的な監視にもとで、余りに極端な行為には踏み出せなかったはずです。
ただし、現在では、若い男と同様に、老人も暴走する人が多い、ということは、よく認識する必要があります。それはもう、若い男と同様で、きっぱりふってやり、必要であれば司直に直ちに連絡してください。それがそれぞれの救い(悪いことは悪いのですから若者でも老人でもそれとして認識してもらわなければどうしようもない。)にもつながります。
これから、更に、ちょっと暗い話をします。
村上龍の短編で、失業し手持金の無くなった初老の男が、女子高生と交渉してカラオケに一緒に行く(カラオケに付き合うなら○○円よ、という話です。)、という短編があります。カラオケボックスで、「北風吹きぬく寒い朝を・・・」とひとりで歌いながら、男は自分の人生を脳裏で回想します。苦学してやっと出た二流の私立大学、二流企業への就職、職場結婚、親を無視しひきこもる息子、リストラ、就職できず、代わりにパートに出た妻の浮気、最初から話もせず携帯をいじりくすくす嗤う二人連れの女子高生の前で、「・・・騙されていた。俺は騙されていた・・・」と、心中で独白しながら、唯一青春時代に覚えた歌を続けます。すさまじい光景ですが、瞬時に切り取られた、それぞれのどうしようもない孤独と、隔絶と、その救いのなさが、背筋を凍らすように優れた凄い作品になっています。
(歌は「寒い朝」昭和37年、吉永小百合)
日本人の自殺者は、一昨年からようやく二万人を割り込むようになりましたが、自殺者のほとんどが熟年(40歳代後半から50歳代以上と思ってください。)の男であり、もちろん形而上学的な悩み(愛とか恋とか蜂の頭ではなく(お前はフーテンの寅か))ではなく、リストラ、離婚、生活苦、病気(心を含む)、孤独、孤立です。リストラが大流行りだったころ、リストラされた男が妻に責められ、居宅を引き渡し、必死の求職の挙句、浮浪者になるか、自殺するようなケースも多かった(「村上龍」のエッセイがあった。)ようです。これは、私たちにとって、現実的に、本当に、耐えがたい話ですが、労組や、職場や、家庭(妻)からでさえも支援がなく、一人で全ても背負わなくてはならない、おそろしいほどの男の孤独の状況は、本当は、ストーカーどころか、そんな余裕のある話ではないようです(当然、女の厳しい状況もありますが今回は敢えて触れません)。
また、熟年の男の自殺は、同時に彼の周囲の家族も崩壊させていきます。
当時、年収500万の人間を20人リストラして、社長の退職金を一億円払うという笑えない、話がありました。
現在でも「自己努力がない」とか、「おれのように出世してみろよ」、とか右肩上がりの時代のように言い切れる人がいるのか、私は疑問に思います(個々の努力を否定するわけでは毛頭ありませんが)。
まだまだ、少なからぬ、温厚な日本の男たちは、最後には、命すら、家族に、世間に差し出し、黙って死んで行くのか、と昏い(くらい)気持ちになってしまいます。
これは、多くの、殊に大正末期生まれの男たちが、当時の太平洋戦争の絶望的な状況の中で黙って死んで行った時代に比べても、現代の、その背後にひかえる家族からの絶望的なほどの孤立を前提とすれば、現在はもっと切実で悲劇的な状況ではないでしょうか。
私の心の「澱」のようなものは、積み重なっていくばかりです。
「君たちは無罪である、敵は「制度」である。「制度」を撃て。」と、学生時代のように大見得を切ってみましょうか?
しかし、今になって思えば、敵は「制度」(政治的な問題)だけではないような気もします。
何が「制度」で何が「敵」なのかは、相変わらず今も見えにくいですが。
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