名作「しゃべれども、しゃべれども」(新潮文庫)を読んで以来、佐藤多佳子さんのファンとなり、フォローワーとして、著書にはずっとついていっていました。佐藤多佳子さんはヤングアダルト部門での著作が主業務であるようで、現役(?)の若者たちの一定のファンがいるらしく、私、おやじ(これは飽くまで他称です。)ごときが特に言及する必要はないのかもしれませんが、一言、その読後の感興を申し上げたいところです。思えば、これらの本は出版から何年か経過し、誠に時宜に合わないわけですが、未読の方があれば、それは、夏休みのお供にどうぞということで。
いうまでもなく、これらの二冊は大変膾炙(かいしゃ;「膾」はなます、「炙」はあぶり肉の意で、いずれも味がよく、多くの人の口に喜ばれるところから、世の人々の評判になって知れ渡ること。)されており、それぞれ、中学生向けの課題図書になっていたのか、読書感想文作成後の大放出のせいか、しばらくの間、某文化なき古本屋では数多くの「聖夜」が一冊108円で売られていました。また、これらの2冊は著者の説明を待てば、姉妹のような本で、音楽の演奏を媒介にした、小学生から高校生に至るまでの子供(殊に少女)たちの物語が紡がれています。演奏家は決して孤高で孤独な存在ではなく、音楽を契機に、彼らが葛藤を通じ成長していく物語で、著者は、音楽自体の感興や演奏の高まりをどのようにして表現に定着するか、巧みに工夫しています(サブタイトルが、「 school and music 」となっています。 )。また、それぞれの作品は、著者の設定で、それぞれ設定年次が異なっており、読む者にとっては、時代性というか、さもありなんという理解できる年時で、なるほどと、私たちが、それを自らに引き寄せ振り返り、その時代に気持ちを移行できることとなっています。(余計なお世話ですが、主人公たちの現在「1916年(平成28年)」の推定年齢を併せ付記します。 )
また、二冊とも、本の装丁がとてもよく、所有したいような本ですね。
女の子の自己に対する呼称は、関西以西(私も属します。)は、我々のこどもの頃から押しなべて「うち」といっていました(とても懐かしいです。)。著者は明らかに関東圏の人ですが、現在では、東京圏でも、小、中学生の女の子(十代)のほとんどが、「うち」と自称するそうです。ただ、関西圏では、自己呼称を最初にアクセントがある「うち」と称しますが、関東圏は「家:うち」の発音に近いようですが、微妙に差があるそうです。標準語では「私」のはずが、現在の彼女たちにとって「うち」と呼ぶのが自然に思われるように、こどもの世界も、言葉も、変わっていくものなのですね。
書名となった「第二音楽室」は、中・短編集となっており、四篇の短編・中篇で構成されています。「第二音楽室」(想定年次2005年)は、小学校の高学年(5年生)の女の子たちが、学校行事の鼓笛隊活動に参加し経験する様々な体験と、相互のその関わり合いがみずみずしく描かれています。最初はみそっかす(傍流の)のピアニカのグループに属する付き合いのなかった子供たちが、練習場として、屋上の仮設の第二音楽室を取得し、だんだん互いになじんでいき、お互いの理解と融和を獲得する話ですが、それぞれ個我意識に目覚めて、早熟な子や、普段目立たなかった子に意外な特技があったりという発見が生じます。未知の場所でグループで行ういわゆる「基地」遊びの感覚であるかもしれません。同性も、異性も含めて、彼女たちには、まだ、「人を好きになる」とかいう気持ちがはっきりしないんですね、揺れ動く彼らの気持ちが十分に伝わってきます。結果的に、彼らの努力を介しての取り組み(鼓笛隊の参加)は大成功という彼らの達成感(トロフィー)もついてきます。(現在推定年齢21歳)
「デュエット」(想定年次1993年)は、中学生の話です。音楽のテストで、男女のコーラスが課題になります。お互いに、自意識過剰で性に対し興味しんしんの「中学性」の時期に試みられた、相互に気恥ずかしい取り組みとなりますが、皆、クラスの中でコーラスの相方を探さなくてはなりません。主人公の女の子が、変声期前の男の子なのか、運動部にいながら声がとても良い子を見初めます。他人の仲介の過程で、運よく彼に、OKの返事をもらうわけですが、彼のその声に惹かれ、是非一緒に歌いたいと、自分で働きかけた彼女の心の動きと、せつなさ、いじらしさがよく伝わってきます。結局、クラス全体では、相手を変え何回も歌う男もいましたが、男女カップルでのコーラスが、だんだんに皆をなだめ融和し、皆の見守る中で印象深く完了していくハッピーエンドです。たった11ページの感動的な短編です。(現在推定年齢35歳)
「Four」(想定年次1988年)も同じく中学生の話です。小学校の時に、リコーダーのアンサンブル(合奏)をやっていた女の子が、卒業式の送迎音楽の演奏のために音楽の教師によって素養のある子供たち、それぞれ個性ある総勢4名が集められます。ソプラノ、アルト、テナー、バスに至るまで、リコーダーも色々種類があるんですね。彼女が経験する、合奏の練習活動を通じて、他人を好きになる苦しみ、高まりたい切なさ、それこそ、思春期のみずみずしさが直截に伝わってくるんですね。合奏という、いやおうもなく気持ちを合わせハーモニーを作り出さなければいけない過程の中で、演奏技術の優劣や、彼らそれぞれの自負心や、女の子同士の思いやり、彼女が人を好きになっていくおずおずとしたその過程の愛らしさ、鈍感な男どもの幼さ、よくわかります。演奏のたびごとに情緒的な演奏の優劣は必ず生じるし、皆の技術と気持ちが一つになり捧げるかのような演奏を行った時に、それこそ表現の創造に対する無償の喜びが、読む者に側々と伝わってきます。最後の本番を終えて、大きな達成感と喜びの中で、彼女が好きだった男の子が別の活動に
踏み出す別れの苦さを味わいつつも、彼女は他のメンバーと一緒に第二期のアンサンブル活動に入っていくわけです。私にはこの短編が最も惹かれました。(現在推定年齢36歳くらい)
もう一つ「裸樹」(らじゅ)(想定年次2009年)という中編があるのですが、こちらは、ギター演奏をする高校生の女の子の話ですが、まだ読んでいない皆さんのお楽しみということで。(現在推定年齢24歳くらい)
「聖夜」(想定年次1980年)は、高校生の男の子の話です。彼の親は、先代からのカソリックの神父ということで、彼も小中高と一貫性のミッションスクールに通っています。名門の学校らしく、礼拝堂に附置されたパイプオルガンの設置があります。彼の特技はオルガン演奏(オルガニストというのでしょうか。)ですが、その特技は、同じく彼を呪縛するものでもあります。かつての最愛の母が、父に背いてドイツ人のオルガン演奏家と駆落ちしたからです。彼は、衝撃を受け、結局懇願する母についていかず、父と同居の祖母のもとに残っています。その後、祖母などの頼みで、演奏は再開しましたが、離婚(カソリックではないのでしょうね?)をした父を含め、宗教や楽器演奏に不信感を抱き、思春期の時期とあいまって、つらい日常を送っています。
彼は、「聖書研究会」を主宰し、後輩と神学議論を戦わせています。おお、「カラマーゾフの兄弟」、議論のための議論ということですが、辛辣に、激しく、神や、現実、信仰者をなじります。同時に、演奏に卓越した彼はオルガン部の部長を務めるのですが、こちらでも孤高で狷介(頑固で自分の信じるところを固く守り、 他人に心を開こうとしないこと。また、そのさま。片意地。)な、スタイルを通します。しかしながら、後輩の努力型のかわいい女の子は、聖書研究会でも、オルガン部でも付きまとい、思慕する傾向もあるので、少しは人望もあるようです。彼の学校には、父の友人などの信仰者もおり、それなりに安定的(息が詰まる)な環境のようです。
オルガン部で、文化祭に学校の電子オルガンを利用させてもらうコンサートをすることとなり、彼は「メシアン」という天才的な演奏家、作曲家、神学者の難曲を選ぶこととなりました。オルガン部には彼を慕う女の子以外にも、演奏家に純化できるような後輩がいますが、彼は、純粋芸術というべきか、彼女の弾くバッハの演奏に強く惹かれます。また、同時に、彼女に、昔、ピアノコンクールに出ていたこども時代の無垢の演奏家としての彼の評価について聞かされ、考えさせられます。
メシアンの演奏は、彼にとって両刃のようなものでした。かつて、演奏家としての母が特に好んだ曲であり、難解で解釈に迷い、またいやおうもなく幼年期の厳しい体験を想い出すからです。悩んでいた彼は、普段は敬遠されている級友と一緒に、ELP(エマーソン・レイクアンドパーマー)(シンセサイザーを使ったロック、おお、なんと懐かしい。)のキース・エマーソンの演奏家としての在り方を考えたり、ロックのキーボードの演奏家に紹介してもらったりして、自分の世界を広げていきます。
結局、文化祭のコンサートの日に、彼は自分の演奏をすっぽかしてしまいました。
初めて、父親に「周囲に対し責任を果たさない」ことで叱られ、その後、父は、離別後の母から自分に届いた手紙を握りつぶしていたことを告白します。今も嫁を許せない祖母と、父と母の葛藤の実態と父の思わぬ弱さをしり、凍っていたかのような彼のかたくなさもだんだんにほどけていきます。自分も、自分自身の感情と、同時に家族の気持ちと現実とに、折り合わなければならない、ということとして。
彼は小学生の時、母のために背負わされた厳しい体験から、異性に対し恐怖と不信感を抱くようになり、後輩の女の子に告られた(?)とき、「なんで俺なんかに」と思ってしまうような彼の事情はよくわかります。本来、彼は、高いプライドと、他人に対しも結構非寛容で鼻持ちならないような男の子です。実際のところ思春期などはそんなものですが、時間の経過とともに、試練を経た体験と自分の周囲に対する理解の広がりによって、母と同じ演奏家としての体験が、徐々に彼を救っていきます。やっぱり、これは、音楽を媒介にした、質のよい成長物語なのです。
彼は、オルガン部と、指導の先生に謝罪しましたが、先の後輩の活躍で視察に来ていた教会関係者を動かし、本来の教会のパイプオルガンを使えることとなりました。
皆で、パイプオルガン(西欧では空気の圧で天上に至る頌歌などを奏でる楽器と考えられるようです。)によるリハーサルを行い、オルガン部のそれぞれが、至上のものに捧げるような演奏ができ、本番に向けて融和し気持ちを一つにする、それが「聖夜」での出来事です。(現在推定年齢53歳)
またもや、ヤングアダルト小説に、入れ込んでしまいましたが、佐藤多佳子さんの物語は、少女・少年期の題材に関して、こちらが照れて読めないようでもなく、新鮮で、新しいものです。こういう「面白い」著書は最近なかなか読めません、それぞれ、描写される演奏が、実際に自分で聴いているかのような、そんなイメージの喚起と感興を覚えます。
今においては、私にとっては、理解不能(?)のような、思春期、前思春期の女の子・男の子の世界と、その喜びや葛藤、みずみずしさが、部分的にでも理解できるかのように思えるのです。
いうまでもなく、これらの二冊は大変膾炙(かいしゃ;「膾」はなます、「炙」はあぶり肉の意で、いずれも味がよく、多くの人の口に喜ばれるところから、世の人々の評判になって知れ渡ること。)されており、それぞれ、中学生向けの課題図書になっていたのか、読書感想文作成後の大放出のせいか、しばらくの間、某文化なき古本屋では数多くの「聖夜」が一冊108円で売られていました。また、これらの2冊は著者の説明を待てば、姉妹のような本で、音楽の演奏を媒介にした、小学生から高校生に至るまでの子供(殊に少女)たちの物語が紡がれています。演奏家は決して孤高で孤独な存在ではなく、音楽を契機に、彼らが葛藤を通じ成長していく物語で、著者は、音楽自体の感興や演奏の高まりをどのようにして表現に定着するか、巧みに工夫しています(サブタイトルが、「 school and music 」となっています。 )。また、それぞれの作品は、著者の設定で、それぞれ設定年次が異なっており、読む者にとっては、時代性というか、さもありなんという理解できる年時で、なるほどと、私たちが、それを自らに引き寄せ振り返り、その時代に気持ちを移行できることとなっています。(余計なお世話ですが、主人公たちの現在「1916年(平成28年)」の推定年齢を併せ付記します。 )
また、二冊とも、本の装丁がとてもよく、所有したいような本ですね。
女の子の自己に対する呼称は、関西以西(私も属します。)は、我々のこどもの頃から押しなべて「うち」といっていました(とても懐かしいです。)。著者は明らかに関東圏の人ですが、現在では、東京圏でも、小、中学生の女の子(十代)のほとんどが、「うち」と自称するそうです。ただ、関西圏では、自己呼称を最初にアクセントがある「うち」と称しますが、関東圏は「家:うち」の発音に近いようですが、微妙に差があるそうです。標準語では「私」のはずが、現在の彼女たちにとって「うち」と呼ぶのが自然に思われるように、こどもの世界も、言葉も、変わっていくものなのですね。
書名となった「第二音楽室」は、中・短編集となっており、四篇の短編・中篇で構成されています。「第二音楽室」(想定年次2005年)は、小学校の高学年(5年生)の女の子たちが、学校行事の鼓笛隊活動に参加し経験する様々な体験と、相互のその関わり合いがみずみずしく描かれています。最初はみそっかす(傍流の)のピアニカのグループに属する付き合いのなかった子供たちが、練習場として、屋上の仮設の第二音楽室を取得し、だんだん互いになじんでいき、お互いの理解と融和を獲得する話ですが、それぞれ個我意識に目覚めて、早熟な子や、普段目立たなかった子に意外な特技があったりという発見が生じます。未知の場所でグループで行ういわゆる「基地」遊びの感覚であるかもしれません。同性も、異性も含めて、彼女たちには、まだ、「人を好きになる」とかいう気持ちがはっきりしないんですね、揺れ動く彼らの気持ちが十分に伝わってきます。結果的に、彼らの努力を介しての取り組み(鼓笛隊の参加)は大成功という彼らの達成感(トロフィー)もついてきます。(現在推定年齢21歳)
「デュエット」(想定年次1993年)は、中学生の話です。音楽のテストで、男女のコーラスが課題になります。お互いに、自意識過剰で性に対し興味しんしんの「中学性」の時期に試みられた、相互に気恥ずかしい取り組みとなりますが、皆、クラスの中でコーラスの相方を探さなくてはなりません。主人公の女の子が、変声期前の男の子なのか、運動部にいながら声がとても良い子を見初めます。他人の仲介の過程で、運よく彼に、OKの返事をもらうわけですが、彼のその声に惹かれ、是非一緒に歌いたいと、自分で働きかけた彼女の心の動きと、せつなさ、いじらしさがよく伝わってきます。結局、クラス全体では、相手を変え何回も歌う男もいましたが、男女カップルでのコーラスが、だんだんに皆をなだめ融和し、皆の見守る中で印象深く完了していくハッピーエンドです。たった11ページの感動的な短編です。(現在推定年齢35歳)
「Four」(想定年次1988年)も同じく中学生の話です。小学校の時に、リコーダーのアンサンブル(合奏)をやっていた女の子が、卒業式の送迎音楽の演奏のために音楽の教師によって素養のある子供たち、それぞれ個性ある総勢4名が集められます。ソプラノ、アルト、テナー、バスに至るまで、リコーダーも色々種類があるんですね。彼女が経験する、合奏の練習活動を通じて、他人を好きになる苦しみ、高まりたい切なさ、それこそ、思春期のみずみずしさが直截に伝わってくるんですね。合奏という、いやおうもなく気持ちを合わせハーモニーを作り出さなければいけない過程の中で、演奏技術の優劣や、彼らそれぞれの自負心や、女の子同士の思いやり、彼女が人を好きになっていくおずおずとしたその過程の愛らしさ、鈍感な男どもの幼さ、よくわかります。演奏のたびごとに情緒的な演奏の優劣は必ず生じるし、皆の技術と気持ちが一つになり捧げるかのような演奏を行った時に、それこそ表現の創造に対する無償の喜びが、読む者に側々と伝わってきます。最後の本番を終えて、大きな達成感と喜びの中で、彼女が好きだった男の子が別の活動に
踏み出す別れの苦さを味わいつつも、彼女は他のメンバーと一緒に第二期のアンサンブル活動に入っていくわけです。私にはこの短編が最も惹かれました。(現在推定年齢36歳くらい)
もう一つ「裸樹」(らじゅ)(想定年次2009年)という中編があるのですが、こちらは、ギター演奏をする高校生の女の子の話ですが、まだ読んでいない皆さんのお楽しみということで。(現在推定年齢24歳くらい)
「聖夜」(想定年次1980年)は、高校生の男の子の話です。彼の親は、先代からのカソリックの神父ということで、彼も小中高と一貫性のミッションスクールに通っています。名門の学校らしく、礼拝堂に附置されたパイプオルガンの設置があります。彼の特技はオルガン演奏(オルガニストというのでしょうか。)ですが、その特技は、同じく彼を呪縛するものでもあります。かつての最愛の母が、父に背いてドイツ人のオルガン演奏家と駆落ちしたからです。彼は、衝撃を受け、結局懇願する母についていかず、父と同居の祖母のもとに残っています。その後、祖母などの頼みで、演奏は再開しましたが、離婚(カソリックではないのでしょうね?)をした父を含め、宗教や楽器演奏に不信感を抱き、思春期の時期とあいまって、つらい日常を送っています。
彼は、「聖書研究会」を主宰し、後輩と神学議論を戦わせています。おお、「カラマーゾフの兄弟」、議論のための議論ということですが、辛辣に、激しく、神や、現実、信仰者をなじります。同時に、演奏に卓越した彼はオルガン部の部長を務めるのですが、こちらでも孤高で狷介(頑固で自分の信じるところを固く守り、 他人に心を開こうとしないこと。また、そのさま。片意地。)な、スタイルを通します。しかしながら、後輩の努力型のかわいい女の子は、聖書研究会でも、オルガン部でも付きまとい、思慕する傾向もあるので、少しは人望もあるようです。彼の学校には、父の友人などの信仰者もおり、それなりに安定的(息が詰まる)な環境のようです。
オルガン部で、文化祭に学校の電子オルガンを利用させてもらうコンサートをすることとなり、彼は「メシアン」という天才的な演奏家、作曲家、神学者の難曲を選ぶこととなりました。オルガン部には彼を慕う女の子以外にも、演奏家に純化できるような後輩がいますが、彼は、純粋芸術というべきか、彼女の弾くバッハの演奏に強く惹かれます。また、同時に、彼女に、昔、ピアノコンクールに出ていたこども時代の無垢の演奏家としての彼の評価について聞かされ、考えさせられます。
メシアンの演奏は、彼にとって両刃のようなものでした。かつて、演奏家としての母が特に好んだ曲であり、難解で解釈に迷い、またいやおうもなく幼年期の厳しい体験を想い出すからです。悩んでいた彼は、普段は敬遠されている級友と一緒に、ELP(エマーソン・レイクアンドパーマー)(シンセサイザーを使ったロック、おお、なんと懐かしい。)のキース・エマーソンの演奏家としての在り方を考えたり、ロックのキーボードの演奏家に紹介してもらったりして、自分の世界を広げていきます。
結局、文化祭のコンサートの日に、彼は自分の演奏をすっぽかしてしまいました。
初めて、父親に「周囲に対し責任を果たさない」ことで叱られ、その後、父は、離別後の母から自分に届いた手紙を握りつぶしていたことを告白します。今も嫁を許せない祖母と、父と母の葛藤の実態と父の思わぬ弱さをしり、凍っていたかのような彼のかたくなさもだんだんにほどけていきます。自分も、自分自身の感情と、同時に家族の気持ちと現実とに、折り合わなければならない、ということとして。
彼は小学生の時、母のために背負わされた厳しい体験から、異性に対し恐怖と不信感を抱くようになり、後輩の女の子に告られた(?)とき、「なんで俺なんかに」と思ってしまうような彼の事情はよくわかります。本来、彼は、高いプライドと、他人に対しも結構非寛容で鼻持ちならないような男の子です。実際のところ思春期などはそんなものですが、時間の経過とともに、試練を経た体験と自分の周囲に対する理解の広がりによって、母と同じ演奏家としての体験が、徐々に彼を救っていきます。やっぱり、これは、音楽を媒介にした、質のよい成長物語なのです。
彼は、オルガン部と、指導の先生に謝罪しましたが、先の後輩の活躍で視察に来ていた教会関係者を動かし、本来の教会のパイプオルガンを使えることとなりました。
皆で、パイプオルガン(西欧では空気の圧で天上に至る頌歌などを奏でる楽器と考えられるようです。)によるリハーサルを行い、オルガン部のそれぞれが、至上のものに捧げるような演奏ができ、本番に向けて融和し気持ちを一つにする、それが「聖夜」での出来事です。(現在推定年齢53歳)
またもや、ヤングアダルト小説に、入れ込んでしまいましたが、佐藤多佳子さんの物語は、少女・少年期の題材に関して、こちらが照れて読めないようでもなく、新鮮で、新しいものです。こういう「面白い」著書は最近なかなか読めません、それぞれ、描写される演奏が、実際に自分で聴いているかのような、そんなイメージの喚起と感興を覚えます。
今においては、私にとっては、理解不能(?)のような、思春期、前思春期の女の子・男の子の世界と、その喜びや葛藤、みずみずしさが、部分的にでも理解できるかのように思えるのです。
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