天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

櫻井よしこさんと共に、美しい日本の憲法をつくる国民の会に加担しようとしたことについて その1

2015-09-07 20:50:31 | 時事・風俗・情況
 先頃から、新聞、テレビなど、安全保障法制に係る国論が非常に偏向していると思い、ついこの前の、
脱・原発騒ぎと同様に、現在の日本国の国情を無視した組織的な扇動はバカバカしく性質(たち)が悪い
と思いましたのが、多くの国民が巻き込まれ、そのうちナチスの宣伝工作(バカなことでも毎日際限なく
繰り返せばそのうち無考えな社会的不満分子に支持されるとか)や、弁証法でいう量質転換(毎日髪を一
本づつ抜いていっても世話はないと思っていても、最後ははげになってしまうというあれです。巧みな比
喩は三浦つとむに拠ります。ところで私は、意識的には何もしなかったのに、すでにはげになってしまっ
たが)により、愚者の大合唱により、国民のために何も政策を実施しないことにより、国民国家日本の危
機を招来するかも、と危惧します。
 このたび、日本国の明治憲法(旧憲法)の理念規定(?)として、明治期の「五箇条のご誓文」に触れ
てみたいと思います。中学校までは日本史を習い、発布の年号のみおぼえ、高校では世界史を採ったが、
法学部出身であるのにかかわらず、当該「五箇条のご誓文」について、何の予備知識もないというのは恥
ずかしいことです。このたびの「偏向した」国論を排するためにも、この際、良く検討すべきものと考え
ます。
 出典はいつものように、ウィキドペディアにお願いしております。訳及び解説もそちらに依ります。ま
た、(私が考えることの多くは)先の読書ノート「日本の七大思想家・福澤諭吉」(小浜逸郎著)に多
くを負っています。

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。


この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以
て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している。(福岡孝弟『五箇条御誓文と政体書の由来に就
いて』大正8年(1919年)に依る。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る。)前段の「広く会議
を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわ
れ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つ
もりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私は
まだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわた
りて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた[9]。しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せず
に漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設す
べき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。後段
の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みん
なの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利
と親交のあった坂本龍馬の船中八策(慶応三年六月)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採
られたものとみられる。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。
(私見)学生時代、議会制民主主義というものは間違っている、と考えており、その後就職しましたが、恥
  ずかしながら、20歳代の後半までは、選挙に行ったことがありませんでした。その後「議会制民主主義
  は最高の政治制度である」という橋爪大三郎氏の著書を読み、また結婚したことでもあり、前非を悔い、
  初めて投票所に行きましたが、勝手がわからず、妻に、「バカ」と言われました(あれから何回バカと
  言われただろうか)。「人間の観念を介してのあらゆる行為は、現実的にいかに卑小に現象しようと思
  想的表現である」と私も考えますが、選挙は別にして、どう考えても思想的な意味が見いだせず否定的
  にも肯定的にも思想的に媒介しえず、労働運動にも、体制内左翼にも、市民主義にも加担せず、現在ま
  で至りました。その後「サヨク」のあまりな馬鹿さ加減と、全世界レベルでの社会主義の総敗北を経て、
  また労組等の現実のあまりな醜悪さに、思うところがあり、加齢も経て、保守になっていました。保守
  である以上、時代の変遷による変革は好むように自分をしつけます(中島みゆき「世情」のように、
  「・・・変わらないものを何かに例えて、打ち砕かれては、そいつのせいにする・・・」わけです。)
  。しかし国情を無視し、多くの国民大衆の利害に反することとは断固戦います、ゆえに、その後、多く
  の情報に、より意識的であるよう努めることとなりました。ということで、最初のこの誓文については、
  私は、先に読んだ「日本の七大思想家・福澤諭吉編」を媒介にします。当該時期と彼(福澤諭吉)の生き
  た時代は、あらゆる思想がナショナリズムであった時代、とも称されます。庶民から、自由民権論者、
  政府の元勲に至るまで、真摯に日本の近代を創出するため、何が必要か、国民全体で突き詰めた時代で
  あったということがよく分かります。「万機公論に決すべし」、熱意がこもったいい言葉じゃないです
  か。御一新という全く価値観が転倒した動乱期の若者や、苛酷な収奪や身内の悲劇的な結末など厳しい
  環境変化を耐えてきた老壮年者の息吹が聞こえるようではないですか。また、当時の為政者の編集の過
  程で、おしなべてそのやむにやまれぬ「原則性」として、当該規定が最初に掲げられたことは、言祝ぐ
  べきであったと考えます。

一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
(現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。


 冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民
を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期
の水戸学者の著作から後の教育勅語に至るまで広く使われている。後段の「経綸」の語の解釈には注意が必
要である。由利の出身藩である越前藩のために横井小楠が著した「国是三論」において「一国上の経綸」と
いう章があり、そこでは主に財政経済について論じられていることから、その影響を受けた由利は経綸の語
を専ら経済の意味で用いていた。したがって、この条文のいう「盛に経綸を行う」とは由利にとっては「経
済を振興する」という意味であったと思われる。もっとも、当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではな
く、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記しケイロンとルビを振っていた。福岡は後に回顧して「由利
が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。
経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるが、これは説く人々の解釈に任して
よいのである」と述べている。一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するもの
として理解されることが多い。

(私見) 当時、外圧の中で、まがりなりにも近代国民国家を設立し、当時の餓狼のような欧米列強の中で、
  生き抜いていこうとすれば、「上下心を一つにして、経済社会的に努力していかなくてはならない」の
  は確かであるところです。出版物を通じ個人的にお世話になっているPHP社の創業者の、「繁栄を通じて
  平和と幸福を」を連想します。優れた、明治人は数多くいたのでしょうね。私事ながら、我が家の父祖
  も目立たぬながらそのうちに数えていただければと思います。「上下」云々・・・には関与しません。
  優れた人間は少ないし、自恃の心を持たぬいやしい人間も社会にはいくらでもあることです。

一  官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
(現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。


 由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志
を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するの
である。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである。
」と述べている。冒頭の「官武一途」の語は福岡孝弟の修正案で追加されたものであり、「官」とは太政官す
なわち中央政府、「武」とは武家すなわち地方の諸侯、「一途」は一体を意味する。これは福岡の回顧では
「官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって天下の政治を行う」意味としている。この条文は、もともとの由
利の意図では庶民の社会生活の充足をうたったものであったが、福岡が政治の意味を込めて「官武一途」の
語を挿入したため、条文の主旨が不明瞭になったことが指摘されている(稲田正次)。
(私見) 既得権なのか国情なのか、日本の政治家の世襲制度は目に余ると思いませんか、自民党、バカの
  民主党を通じ、ほとんどの政治家が何代も通じた政治家です。本当に正しい識見と節義を持った政治家
  の出現とともに、議会制民主主義の運営は、とても難しいと思います。ところで、首班政党となった自
  民党にとっては、バカの民主党の反目の政策を全て履行すれば、全部が正しい政策だったと今でも思い
  ますが、TPP政策を踏襲し、新自由主義の経済政策を採用し、デフレ対策も不徹底で、自民党の一部も
  バカなんだ、ということが良く分かりました。国民とすれば、個別に賢くなって、バカの政治家や政党
  が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ:ほしいままに行動すること。悪人などがのさばり、はびこること)
  しないように見張っているしかないでしょうが、一般的に、世襲を含めバカはバカで、嫉みの感情なの
  か、優秀な指導者を養成することに異常に反感を持っているようで、一時のゆとり教育に象徴されるよ
  うに馬鹿な平等主義と愚民化政策にまい進します(当時のゆとり教育主唱者官僚「寺脇研」は、現在、
  日活ロマンポルノ評論家になっているぞ。バカな話ですね。)。教育の根本精神は、「自立心を培うこ
  と、視野を広めて他者世界への想像力を養うことで、一方が他方を互いに支えることであること」であ
  り、いったんその経路に入ったものは、自己利害の無限追求とも、他者(大衆)の軽視・見下しの経路
  も持たなくなるのではないか(「あなたの馬車を星につなげ」というところですか。)、また自己の社
  会的な役割と責任に自覚的で、自己と社会をつなぐ経路に意識的であれば、徳義も向上する(「人心を
  して倦まざらしめない」)のではないかと思います。いずれ、政府には徳義に高い優秀な人材を養成す
  る機関を設置していただきたいと思いますが、当面、わたしたちのような国民にできるのは、家庭や社
  会で自分自身のすべきこと(人倫)を追及し、公選挙で人物本位で選んで、退屈まぎれや面白半分に、
  下劣な人間に投票しないことです。

一  旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
(現代表記)旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。


 この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」
は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である。
(いずれも三省堂『大辞林』第三版)この条文を、戦前の研究者尾佐竹猛は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を
指し、「天地の公道」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとし
て狭く解釈していた。しかし、これに対し、稲田正次・松尾正人・佐々木克たちは、「天地の公道」は開国
の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出さ
れた宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また木戸孝允
自身が「打破すべき封建性」「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」「旧来の陋習」「陋習」という言葉を
広く使用していること、また、大久保利通でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」
とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ倒幕に立ち上がった開明的雄藩であっ
たにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判
的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ(寺田屋事件~西南戦争)、更
に、岩倉具視も他の文書で「天地の公道」という全く同じ言葉を万国公法とはおよそ次元の異なる「天然自
然の条理というような意味」で用いていることなどが挙げられている。総じて、「天地の公道」(木戸当初
案では「宇内の通義」)とは、普遍的な宇宙の摂理に基づく人の道を指しているものと解される。
(私見) 原文のとおりでしょうが、現在では、世界の動きと、我が国の地勢的、歴史的な特殊性を視野に
  入れつつ、欧米にも、アジアにも偏らない、間違っても馬鹿なグロバリゼーションに足をすくわれない
  ように、独自の文化と伝統を持つ国民国家として独自路線を往くべきです。

一  智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
(現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。


 前段の「智識を世界に求め」については、前述の横井小楠「国是三論」に「智識を世界万国に取て」とあ
り、ここから採られたものとみられる。後段の「皇基」とは「天皇が国を治める基礎」というような意味で
ある。福岡はこの条文を「従来の鎖国的陋習を打破して広く世界の長を採り之を集めて大成するの趣旨であ
る」と回顧している。

(私見) 知性や教養の質を近代欧米に学ぶのは止むを得ないことでしょうが、ようやく欧米世界にも毒が
  あり、限界があり、悪いところもあり、ということが、一般大衆にもわかりかけてきた時期であろうと
  思われます。新自由主義など、一般大衆の利害に敵対し国益を損なうような学者や、覇権国家中共を礼
  拝するような偏った進歩派(旧サヨク)に間違っても組みしないように、一般大衆の一人として、正し
  く、視野を広げ他者世界を媒介した世界認識を持つべきです。それは現在私たちにも十分に可能である、
  と思っています。

「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる
五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の
精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、
日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体で
なかったことは明瞭であります。」(昭和21年(1946年)6月25日、衆議院本会議における日本国憲法案の審
議の初め、当時の吉田茂首相は御誓文に言及した。)

 敗戦後、招集された国会で、優れた政治家であった吉田茂は、「五箇条の御誓文」に上記のような認識を
示しています。現在、安全保障法制一括審議の中で、歴代の首相が、バカなことをやっており、栓のない話
であるが、もし、吉田氏が存命であれば、「この、バカヤロー」と一喝したのではないか、この国難の時期
に、国民の利害に対し、何の現状認識もないのか、と。
 私の個人的な見解として、原爆投下の問題や、進駐軍政時代に、過渡的に、したがって何の国民の介在も
なく、いつの間まにか制定された憲法は、手続き的に見直しが必要だと思います。まず、「原爆投下」は、
戦争犯罪のうちいわゆる「人道に対する犯罪」にあたると思います。これは私たちの父祖たち、300万人とい
われる戦争の被害者のためにも、ちゃんと言挙げる必要があると思います。日本の侵略戦争の敗北という欧
米史観の安易な総括に決して組みしない。東京裁判は勝者から敗者を裁く裁判であり、開戦にいたるまでの
欧米の過酷な帝国主義という現実は結局裁かれませんでした。少なくとも日本にとってはそれは不当な要素
です。敗者に圧倒的な勝者に対する弁明の余地はなかったからです。
 しかし、それは、止むを得ず当面批准している日米安保条約とは別の問題です。これは、現実的な問題で
す。また、その現実的な対応は、国民に政権を委託された政権政府の当然の職責です。敗戦時の収拾に当た
った、吉田首相は、後世から、その果断な判断と行動が賞賛されているではないですか。当時、かの首相に、
いたずらに空論を論じ、曲学阿世の徒とののしられた官立大学の先生もいましたよね。同じような学者先生
も同じく延命しており、現在の状況に限りなく近いのではないでしょうか。

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