診療棟の屋上に、日本庭園が設置されていた。植え込みと、ハーブやつつじが植えられ、患者たちの憩いの場であったことは確かである。
雀がやってきたので、よく、えさをやっていた。庭園は、自省を強いる。しかし、決して、今世と隔離した場所でなく、時に、鳥の羽毛が散乱していた。ここは、修羅場でもあったのだ。雀を横目に、カラスも、パンを求め、屋上で待機していた。娑婆も、なかなか厳しいところである。
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どうも、皆、ありがちなことかもしれないが、私も、60歳を超え、生き急いでいるような、気持ちに襲われる。
精神的にも、「わかものたちの未来のために死ぬのは私たち老人たちの使命ではないのか」とか、思うようにもなった。
どうも、一昨年から、コロナ性のうつ病や、ひたすら、縮小、縮減するしかないような、社会の雰囲気にどうしてもなじめない時期だった。
止むを得ず、いろいろ、社会的なことにも、身内に係ることについても、私なりに、手じまいしつつあった。
私には、とても、西欧人の考える「死ぬ瞬間」(ロス)に当たっては、死に立ち向かうような葛藤も、勇気も、恐怖も、決意、ひいては絶対者との約束も、あまり必要も感じなかったわけである。
なぜなのかと考えた。
病院に居る時、いわばそこは常に「××病棟」である。
しかし、後述するが、無益にあがいたり、病に取り乱す人はほとんどいなかった。
みな、穏やかに、自分の、避けがたい運命と、死の理不尽さに対峙し、静かに、こらえているように思えた。
終いには、これは、どうも、自らの死に対する、日本人の向き合い方の特性ではないのか、とも思えたのだ。
それを、翻って私に適用してみれば、最初は、当面、悪いところは治療するしかない、という、とても、消極的な考えだった。
戦うというような立派なことでなく、それは、きついことかも知れないが耐えるしかないと思っていたわけである。
最初に、病院で会ったのは、外来の担当医だった。青年の面影を残すような、まだ、若い先生だが、彼が、主治医であるという。
昔聞いていたように、今の若い医者は、「患者とまともに世間話すらできない」というのはどうも間違いだった。実は、もう少し年長で、そして頑迷そうな先生も同様に見た。
与えられた検査数値をもとに、様々な推理を行い、事実判断に思いを巡らす。今までの彼の経験から得た直観は当然のことだ。
こちらに対し、質問の機会は与えるし、医者の常識として、おかしいということ、素人の覚束なさ、言外の質問には、はきちんと説明する。
今まで、私は、医者の仕事は、開業医は、システム端末と会話するものだと思っていた、こちらを振りむきもせず、端末システムでマニュアルを作リあげるあれである。
妻子に、言わせれば、医者が主治医になるためには、その前に、相当の努力と選別があるという。
彼は、うちの息子とほぼ同年に思え、彼の、受け答えや、冗談が、快ろよかった。
結果として、8月末に、紹介状を持って通院し、そのまま即検査入院となった。
うちの家族とすれば、妻は自分の事故以来運転できないし、それ以前から、パニック症候群などというものだった、らしい。娘は、孫の世話が忙しくて、おいそれとは動けない、結論はあらかじめ、でている。
そのまま、丸二週間、検査入院をした。
そのようにお願いして手配をしてもらったわけである。
さすがに、自分で覚悟はしていたので、それなりの準備はしていたが、これだけ長期間にわたるとはわからなかった。
私は、特に個室を希望しなかったし、コロナ下での、拠点病院は、さすがに病床が不足している。どうも、外来医と病棟との様々な駆け引きもあるらしい。
通院検査すらあるという話であったが、他県であるという理由で、主治医が押し込んでくれた。病院内で、相互の人間関係も良好でないと、こんなこともできない。
こちらの事情を忖度していただいたのはありがたいことである。
とてもびっくりしたのは、私の微細な個人データが、押しなべて、スタッフに病院のワークステーションで共有してもらっていた、ということだ。
病気で困窮した人間に対し、プライバシー侵害もくそもない、患者にとって何が苦痛かというと、自己の病状を最初から、人を替え、他人に、何度も説明することである。
最初はやむを得ないと思っても、重なれば腹が立つ、俺のことなどひとごとだろう、と思うようになる。
しかし、自分の受け答えの記録が残っているので、私たちも次の質問にも進むことができる。なんと、合理的で、優れたシステムか、私は褒めちぎった、ことがある。
それを聞いた看護師も嫌な気持ちではなかった、と思う。
朝一番に、ふとスタッフの詰め所を覗いてみると、フロアーの丸いテーブルにスタッフが集まり、患者の対応を協議している。患者ごとに、加療のチームがあるらしい。
ほぼ、前日に、翌日の加療予定をプリントアウトして持ってくる、至れり尽くせりである。
病院スタッフは、押しなべてPHS電話(ポケベル電動型なのだと思う。)を持ち、不明点のやり取りをしている。これは電力会社が運営主体だったと思うが、上手な使い方だと思う。
医者と、看護師の意思疎通が、何と早い、そして、逆に、スタッフがなんとも忙しい。
手のひらに文字を書いた看護師を何人も見た。
しかし、スタッフがよいと、患者が甘える。
結局、皆が皆、看護師とはなじめない、患者のわがままをひとくさり聞くのか、聞けないことは聞けないのか、看護婦(あえて言う。)には、臨機応変の対応と、とっさの判断力が要る。
それこそ、「治療できない病気はあるかもしれないが、看護できない病人はいない」(「看護のための精神医学」(中井久夫著)のだ。やはり、じじいを転がし、なだめるのは、女性に限る。
私は、男の看護師が必要ないとなど、不見識なことは言わない。そこは相身互いで、それぞれの性別を超えた、入り混じった中でのチームワークがあると思う。
しかし、実は、患者に甘いのは、男の看護師だ。彼らは、理不尽なことも、患者のわがままであろうと、ほぼ、断らない。ただ「優しい」だけなら、男の看護師は、はるかに優しい。
彼らが、秘書のように、個人的な用を承ったり、歩ける患者に歩かせないことを何度も見た、聖人のようなものである。
しかしながら、例えば私が望むように、言うべきことはいい、そちらのすべきことはしてくれという、看護師だっている。職業人として自立を求める、匙加減なのだ。お互いに自立している、そう望む方が、理想である。
後から聞いたが、私のいた病棟は、フロアーで40床くらい患者がおり、それを20人の看護師で賄うのだそうだ。
他の階層との、看護の交流はないという。
おそらく、彼らの仕事はいっぱいいっぱいで、専門性が外れると、看護の統制がとれなくなるのだ。
うちの妻に言わせると、職場が変わらないのなら、気楽でいいじゃない、という。
しかし、人事異動がない職場はない、それこそ、何かの装置がある。そう思える、常に、緊張した職場であるのだから。
私のフロアーは、東2F(東病棟二階)といい、消化器内科、口腔内科の患者さんばかりだった。
シフトは、朝勤、夕勤、夜勤と三つのシフトである。
おおむね、全部、システムで引継ぎを済ませる。間違いが少ない。
看護師にもいろいろなタイプがある。
この人は・・・、と思うこともあった。
しかし、理詰めを理詰めだけを見せないで、人情で言葉を尽くし、かわすような上手な看護師は多かった。それこそ、コミュ力がないとやっていけない。
資質なのか、職務を通じて得た、スキルなのか、それは見事なものだった。
患者と、過度に親しくなっても、過度に冷たくなってもいけない。やはり、要は、さじ加減、それは、プロとして、人間として、患者と統一システムに対する、誠実さと信頼にあるのだと思う。
そのあたりは、職業人としての私の経験と、累積ででも理解はできる。
私は、私自身の理性と、経験を通じて、市民と対等であることを望み、仕事をやりぬいたのである。
いずれにせよ、病棟が主に女性によって運営されている、ことは、日本国での、誇るべき達成であると思えた。
こんな監護は、おそらく、西欧圏では無理である。やはり、思いやりと察しの文化は、そして、それを良かれと、今も、つなげていけるのは、日本国の独自である。
コロナ以来、ある彼女は、近いけど、実家にも帰っていない、といっていた。
さすがに、彼女たちがどんな家庭を営んでいるかは聞きそびれたが、コロナ下の非日常のような日常で、いつぞやのように、学校や保育園で、彼女たちの居場所がないのなら、あんまりな話と思えた。
私たちも、コロナで、院内散髪などの利用ができなくなった。
彼女たちにめったにない時間があるとき、看護婦が髪を洗ってくれた。あれは、男では無理だ。
あれはうれしかった。普段口にしないこともつい、しゃべってしまう。あれは、チップでもあげてもいいのじゃないかとおもった。
自宅のケアがない私は、郵便のことで個人的に助けてもらうので、菓子を買ったが、婦長さんに断られた。
人には、仕事がらみであっても、ちゃんとお礼がしたいときもある。汲んでくれてもいいように思った。恩着せがましいことに付け込むなど、患者には毛頭ないのだから。
それが、私の個人的な意見であることは当然であり、反論があることも当然であるが。
そういえば、ひとたび退院した時に、近藤誠先生のコロナワクチンを扱った本を読んだが、ワクチン接種の最初の犠牲者は、九州の病院勤務の、彼女たち(女性)であったから、皆、嫌がりながら、関係の絶対性(社会的関係の被拘束性)で強要され、ワクチン接種後、副作用(決して副反応ではない。)によって、自分のアパートでそのまま、孤独死した看護婦もいた。
わが娘のことなら、私は決して許せない。
まだ結婚前で、ようやく社会人として、周囲に頼られ始め、責任を果たせる大人になって、あまりにも短く、さみしい死ではないのか。
それ以降、ワクチン接種による悲しい結果をいくつもみた。
皆、社会によって強いられた死である。ワクチン接種について、自己判断・選択のチャンスも利用できず、理不尽な死としか、言い様がない。
ここの病院で、私の見聞した範囲では、内科医たちは、それほど、コロナに執着しなかった。
看護師たちも同様で、きっちり病棟で、区切っている環境で働いている。
そんな怪しげなものにかかずらっている暇はないのだ。
徹底した、分業体制というのは、こういう職場をいうのだろう。
他人の仕事をまず信頼し、できないなら、フィードバックし、まず仲間うちで協議する。そのうえで、法を超えるものは、医者に速やかに相談する。
それこそ、リスク排除に努める努力だ。
また、医者は医者で忙しい、勤務医が、9時、10時になって病棟に顔を出すことも珍しくない、私は、早寝、早起きが骨身に染み付き、9時前に、寝ることもある。彼に会いそびれたことが、幾度もあったかも知れない。
ただ、彼らと、看護師の連携と良好な協力体制は、患者たちに力を与える。
患者として、当事者として、病状が悪いなりにも、自分でどうにかしようと思うわけである。
しかし、病状からいうと、最初の検査入院は最悪だった。
内視鏡、カメラも何度も飲みこみ、120時間絶食(きちんと数えたぞ。)ということもあった。
施術の前の、経口の麻酔薬で嘔吐がつき、だんだん、飲めなくなった。
その後になって、検査の回数が減ったのがとてもうれしかった。皆、合理的に考えられた、織り込み済みのことなのだろう。
内科医師が立ち会うが、医療過誤の防止のためなのか、室中に、緊張感がただよう。これが、彼らの社会的な使命である。彼らを職業人としてなさしめている、社会に誇る尊い仕事なのだろう。
それを考えれば、私も、この年まで、自分が果たしてきた仕事に自負心と誇りを持てた。
苦しいながらも、前途ある若者たちの働き場を観れるのも、非常にうれしかった。
内臓内に、腸管拡大の人工物も入れた。施術は麻酔なので、痛くはなかったが、それから、調子がよくなり、鼻から、チューブを出すことにも耐えられた。
その術式が、一回でどうにかなったのは、私にとって僥倖である。何度もは、なかなか耐えきれない。
私より数代前の患者さんは、もっと、つらい覚悟で、施術に臨んだのだろう。
粛々と行われる、その辛抱と、自制心に頭が下がる思いである。
病棟の話に戻ろう。私は、四人部屋に居た。きちんと、レール付きのカーテンに仕切られた、割と広いスペースである。私は、別途の位置は選べないのだと思っていた。
また、窓際がいいとか言い出したら切りがない。
まともな患者として、できる限り、病院の看護体制に適合しようと思ったのだ。
ある時、デイルームという、患者の昼間のユーティリティスペースで異様なものを観た。
老人が、家族を相手に泣いているのだ。悲しい、悲しい、と何度もいう。もうすぐ、私は死ぬ、そればかりを繰り返す。家族は、どうも、彼の財産の話でもあるのか、機嫌を損なわないように、おとなしく聞いている。
変わった人もいるものだと思った。
しかし、見聞きしているこちらもやりきれない。
あんたは冷たいから、と妻が言う。
確かに、私は、同情心は薄い。特に、親父に。
心ある女性を見なわらなくてはならない。
よくしたもので、私の周囲には、少々は弱みを許してくれる女性も多い。
それ以外は、事情が許せば、関係を断つが、具体的には、藤井律子氏、立憲民主の女どもなどである。脳のねじが緩んだ立憲民主の男どもも同様である(笑いを取りたい。)。
しかし、ここにいる人たちは、皆、自分の運命と、いわば不運と、そして避けがたい死と向き合っている。
私の隣のベットの人は、化学療法と、放射線治療を同時にこなしている。
まだ、若い人だ。家でも、仕事でも、心配の種はいくらもあるだろう。
しかし、何を飲んでも、何を食べても塩っ辛いだけという、唯一、インシュアリキッドという、経口の栄養剤だけは飲めるという。しかし、味はしない。
おまけに放射線治療の副作用からか、口肺炎で皮がむけ、カンジタ菌の感染もあるという、隣のベットで、そんな話が問わず語りで聞こえてくる。
「食えるわけないだろう」、と、彼は、決して暴言も、弱音も吐かなかった。
同じ病室で、過度に親しくすることも、過度に冷たくすることも私は避ける。
同情心が薄いから、人の運命に無造作に入りこむことはさけている。
だから、若いうちからそんな病状に耐えている人に対しても、爺さん、それはないでしょ、と思ったわけである。
九月の検査入院で、病状報告と、治療方針が決まり、10月から、治療入院となった。
今回は、さすがに、前の患者と同室ではなかった。
私は、彼の運命がよい方に転ぶことを望んでいる。
隣は、因島から来たという、高齢者がいた。
礼儀正しい人で、場合によっては、向こうから、話しかけてくるようなタイプの人だった。私は、あいさつと、目礼だけでとどめた。
彼も、化学療法と、放射線治療を同時にやっていた。
前室の人の体験から考え、彼の苦しい病状は理解できた。
彼がどのようにこらえているかも理解できる。
そこへ、今度は、あの不満じじいが入ってきたのである。
あれから、ここで、化学療法を繰り返していたらしい。
当然、家族は入りびたる。
一日、ため息をつきながら、何かぶつぶつ言っている。
テレビカードを買ってきて欲しい、水を買ってきて欲しい、さすがに看護婦も、二回に一回は断るようになった。しかし、看護師は、聖人である。皆、かなえるし、頼まれずに、秘書のようにふるまうこともある。
患者でも、男は男、皆、嫉妬深い、私の隣の心がけのいい老人も、同室の他人がかまわれると、嫉妬が我慢できなくなるらしい。
しきりに、看護婦に話しかけ、彼女の関心を引こうとする。
どうも、家ではとりあってもらえないのか(うちも同様だが)、病院では、若いおねえちゃんに、かまってもらえるのか、極端に態度が変わる患者もいる。
男も、死ぬまですけべーである。吉本隆明が、じじいに、二回に一回は触らせてもいいじゃないかと、何かに書いていたように思う。
私に意見はない。
世の中はそのようにできている。
しかし、患者は、さすがに、自分の生命線であるところの、病状自慢はしない。
そのうち、甘えた、不満じじいが、カルピスを飲んでもいいか、と、糖尿治療中にもかかわらず、言い出した。わしの冷蔵庫には、ナッツでもなんでもはいっていると。
思わず笑ってしまった。声を立てずにだが。
私は、自分に同情する人間は嫌いである、自分の感情を、推し通す人間も同様である。
若い娘じゃあるまいし、看護婦にしかかまってもらえない、こんな薄いカーテンで、閉ざされた環境で何を言うのか。
さすがに、嫌われているという意識があるのか、病室ではおとなしくしている。
携帯を手に、不満の長話をするのは、明らかにルール違反であるが。
ある時、こらえかねて、私たちは、秩序維持の入院の誓約書を書いているんじゃないのか、と看護婦に聞いてみた。彼女は善処を約束した。
機会のある時に、部屋を変えるか、あなたが変わるかとまで言ったが、そんなことを私は言うのではないと、丁重にお断りした。
それより、同室のものに対する説明が先じゃないかといった。
それがきっかけで、この話は、婦長まで話が行ったらしい。患者の行為、現場のすり合わせは、どうも、フロアーの婦長が統制するらしい。
私は、婦長に言ってくれなどとは一度も言っていない。
折を見て、同室者に対する説明と、本人に対し注意してくれとだけ言った。私には遺恨もなくが、配慮をもって看護を受けたいだけだからと。
そのうちいなくなってしまった。
彼の家族は来ていたらしいので、どこかにいたのだろう。
財産の話も多かったので、いろいろあったのだろう。
さすがに大学病院であり、問題行動を起こす患者は少なかったのだろう。
世の中には、何より自分が大事という人はいるものだと思った。
「自分に同情するのは、下劣な人間のすることだ」、これは、自分の言動は自分の責任で請け負うという強い決意性の話だが、自分に同情する人はちゃんといる。
これは、病院の院内図書館にあった、「ノルウェイの森」(村上春樹著)の、主人公の友人、俗人の◎◎君が、主人公に言うセリフである。
俺は、現世的には俗人で、人格も行為も低劣かもしれないが、自分の行為と、言動に責任はとるぞ、という、彼なりの、決意性の表明である。
今回、久しぶりに読もうと思ったが、今となれば、とても読めなかった、その前の短編集「蛍、納屋を焼く、その他の短編」の秀逸さを思い出せば、病人にはとても読めない。
その当時、私にも、まだ、余力があったので、遺言状らしきものを書きつつ、どうにかして、リハビリの部屋に通わしてもらいたいと思った。
なかなか、前例がなかったらしいが、結局、寛恕いただき、通えることとなった。
私の部屋は、日も差さないので、終日、あの親父と過ごすのはストレスフルである。
止むを得ず、毎日、あちらこちらに行っていた。
トレーニングジムにおいて、私の活動と、指導は彼の裁量になるらしく、指導員の先生が、デイルームに探しに来てくれた。
人の親切というものは、ありがたい、ものである。
どのように病院で過ごせるかは、何より患者にとって大きな問題である。
例のQOL(生活の質)の問題である。
どうも、それは、周囲に働きかけ、自分で獲得していくしかない。
とにかく、考えを前向きにしようと思った。
私の残年数など、今さら、考えても詮のないものである。
いざとなれば何もわからないし、約束もない。
閉ざされた場所に閉じこもれば、人は内省を強いられる。
そのうえ、ちょうど、その時、自民党の総裁選が行われつつあり、まことに興味深い時期だった。
当時、厳しい政治的なかけひきの渦中にあった、高市早苗候補の決意性と孤独が、私にも十分理解出来たように思えた。
何を隠そう、私の、第二の政治の季節である。
実際のところ、活字、テレビメディアが、これだけ反動的で、大多数国民の利害に背をむけているとは思わなかった。
その後、治療入院の結果がはかばかしくなく、10月下旬に、再度退院することとなった。
自己の思うように自分の体の回復が追い付かず、覚束ないところである。
その後、現在、定期的な通院で、病状回復を図ることとなっている。
この運命は、仕方のないことである。
しかしながら、今になって、自分自身の病気に、向かい合うことができたのは望外の幸せであった、と思っている。
この先、どうなるのか、よくわからない。
今後、私の、意識的な選択が、どのような形になるのか、今の常態では、不明だからである。
ただ、現在、無意識に、自分ができる最良の選択をしているのではないかという、気持ちがある。
自己決定権だけは、放棄したくない。
まだまだ、これからさきのことである。
私の、今後の社会との関係一つを考えても、これからのことである。
最期まで、詮のない話となって、しまった。
今は、これでいいのだと、思っている。
11月と4月に咲くといういう、十月桜が満開です。冬に咲く咲く桜も、峻烈でした。