自分自身が、年を重ね、それなりに社会生活が狭まるようになると(生活の幅が狭くなる、でもいいです。)、それは年経ても、寂しいものであります。
そうではならぬ、と自分で思いつつも、人間関係(社会的関係)に前向きになる、ことは、おっくうなものです。
逆にいうと、閉ざされた環境で、人間関係がせばまれば、私の若いころでいうと、「屋根裏の哲学者」や、今でいうと「社会的引きこもり」などに陥ることもあるかもしれない。
また、社会生活の貧困や、自ら引き寄せたような閉ざされた関係と心理に安住すると、根拠のない、被害者意識や、選民意識を持つかもしれない、人間とはバカな存在であります。
自分の思考や、意識的に環境を変えるように働くことで、その閉ざされた状況が変わるものであれば、自分で、意識的に外部に働きかければよいものである、どの「生活者」も、躊躇(ちゅうちょ)なく、また躊躇する余裕もなく、日々日常的に働いているわけですが。
私の主治医に、「(いろいろな窓口で)おやじは、なぜ、あれだけ不愛想なんですかね。あれは病気じゃないんですかね」と尋ねたことがあった。
スーパーのレジに並んでも、笑顔一つ見せない、ぶすっとして、一言も口を利かない、その様子や振る舞いは、それは女性と好対照(それは良い意味で女子力と考えている。)である。
実は、近頃、私も、まったく同じ態度をとっている。
いろいろ理由はあるが、嘘でも、笑顔を作った方がよいのは、あらゆる人間関係で確かである。
それこそ「朝は機嫌よくしろ」というのは、有益な格言である。
しかしながら、その孤立の質としては、自ら選んだわけではない貧困や、家庭的な関係の貧困による、孤立は、お気の毒なことである。それは、他者が、容易に同情するような境遇や事情ではないかもしれないが、同感はできる。
私に則していえば、人や、その日常生活において、家族や、社会との人間関係が減ってくると、そのうち、「天気が悪くて応えて、気が滅入る」ような、困った心象も出てくるわけである(能天気といわれるかもしれないが、この辺りは結構根強い。)。
幸い、退職後も、再任用職員として、働くことができ、経済的にも、社会的にも、自己のためには、ありがたいことであった。
私の日常の仕事は、地方公共団体の出先で働いているので、出先から入金するため、地元の金融機関を、毎日のように訪れた。
私の、行政職としての人性の中で、仕事として銀行を常時訪れることは初めてのことであった。
観察してみると、なかなか、銀行というのは忙しいところで、金が絡むからか、様々な切実な人間模様がうかがわれる。あっと思うような、奇矯な風体や言動の人もやってくる。
一般的に、常に、客が極めて多く、税金一つ支払うにせよ、多大な時間がかかる。
よく見ていけば、現在という時間が、あらゆる側面で、われわれ、一般大衆においても、極めて不本意で、ストレスフルな時間であることを如実に示している、ように思われる。皆、一様に、不快、時に不幸なのだ。
当該窓口も、IT化が進んでおり、窓口の順番を確保するのも、タブレット端末からの申し込みとなった。
キャッシュディスペンサーを使うことのできない、老人もやはり、まだおり、印鑑と通帳を握りしめて、ベンチで待っている。
こちらは、仕事で来ているので、まだ、抑えが聞くが、粗暴犯のみならず、待ちかねた老人が、自分を抑えきれずに、大声を出すのも、時にあることである。
客によっては、自分の自己都合ばかりを並べ上げ、脅迫的な言動もあり、これは強要罪ではないのか、と思われることもある。
ただでさえ、適応不全の老人たちは、多大なストレスをかかえ、普段から閾値(いきち)いっぱいであふれんばかりの状況かもしれない。そのうちのいくらかが、たまたま、急に怒り出すのも、珍しいことではないのだろう。
さすがに、地銀の支店であれば、警備担当も存在しない。
それを、一人で受けなければならない、窓口の各女性たちはさぞかし、ストレスが大きいものだと思われる。
上司たちは、裏で、注意深く、客と彼女たちのやり取りを見ているばかりである。
いしいひさいちの漫画での指摘ではないが、奥の方から、銀行員の武器としての、「冷たい視線」で見守りながらである。
ある時、私は、長時間待ち続けて、こらえかね、納入書類を乱雑に、窓口で差し出したことがあり、私は、なぜか、違うものも一緒に差しだしたらしい。
担当の彼女(以下「彼女」という。)は、入金処理が終わって、「大事なものまで預かりまして・・・・」と、微笑みながら、入金書類と、私が乗ってきた公用車のカギを一緒に返してくれた。
それから、お互いに、大笑いになり、それ以降、彼女と、折に触れ、いろいろ、話をすることとなった。
お互いに仕事の途中であり、私もさすがに色香に迷うこともなく、長話をすることはないが、時折り、いろいろと、銀行のサービスで疑問に思ったことや、私事にわたることについても、機嫌よく、聞いたり、答えたりすることが続いたわけです。
「あなたはいい人」、と、仕事を通じて知り合いになったおばちゃんや、おじさんが、常時身内のことについて話しかけてきたり、野菜(?) をあげようとか、いうのが、田舎での親近感や個人的な好意の表示です。
日々の、相互の疎遠な関係を思いやればそれはよく理解できる。疎遠で、不干渉な人間関係にも人は耐えられないのである。
私たちは、なかなか、人間関係のバランスが上手に取れないのである。
私も、加齢に連れて、いずれ、そのようにふるまうこととなるかもしれないが、こちらも、仕事で行くので、ささくれた気持ちでいくこともあり、毎日、「万事機嫌よく」(桂枝雀)というわけにはいかない、のである。
ある時、当該銀行の周年記念ということで、二個詰めのマカロン(あの糖衣のジャム付きのい丸いクッキーらしきもの)を、彼女からもらった。
孫にでも与えようと、冷蔵庫に入れていたが、会う機会がなく、古くなるな、と思って、取り出し、かじりつくと、歯がたたない、よく見れば、塩ビの表紙のついた、丸いメモパッドだった(よく見れば、悪趣味なものである。地銀は、年金支給日の来訪者に、かっぱえびせんとか、駄菓子を配るサービスがある。それでも欲しい老人はいくらでもいるらしい)。
自分の失敗談を、後日、彼女に、笑って、話すと、彼女が代わりに、豆菓子をくれた。
呑み込みの悪い私は、地銀が豆菓子をくれたのだろう、と思っていた。
が、よくよく考えてみればそんな甘いことはない。
結局、豆菓子に目がないうちの孫が、もらった豆菓子を、小袋ごと皆平らげてしまった。
他人の親切というものはありがたいものである。
そんな、経緯があり、銀行に行くたびに、彼女の振る舞いや言動が私の目に入るようになった。よかれあしかれ、耳目に入るのである。すると、彼女が、極めて優秀な職員であることが、わかってきた。
まず、ミスはないようであるし、客が何を望んでいるか、判断が早い、いわゆる、想像力が豊かなのだと思われる。銀行の方針と、客の意向を両立するように、心を砕く。
日々、同じ人間に、同じことでも、それをいとわず、何度も、丁寧に説明を繰り返す。
多少、絡まれたり、心無い言葉を浴びてもくじけない。
この職場が、彼女にとって、何度目になるのかわからないが、初心を忘れず、というのが観て取れる。
自分でよくわかるが、窓口業務は、客に酔うようなところがある。そのつもりがなくとも、いやな体験を繰り返せば、神経がささくれ立ったり、人によってはなめてかかるようなことも出てくる。職員によっては、つっけんどんになったり、粗略な扱いをする人もいる。
仕事や職場は選べない、ましてや、理想的な環境で仕事をすることはできない、人とすれば、いやな仕事に対し、全人格をかけ、工夫をし、困難な条件に対応し、職責を果たし、願わくば、自分の思いをかなえたいものである。
頭の下がるような、彼女のその社会生活である。
つい、おそらく同世代と思われるうちの娘を思い浮かべ、彼女が、職場でどんな社会生活を送っているのかと、思いうかべたところである。
ひるがえって、自分の職場を思い浮かべ、どれだけ、彼女に比肩する職員がいるのだろうかと、その尊さに思い至ったところである。
私生活は別にして、自己の職責において遺漏のない、社会生活を日々送ることはとても困難できついことである。なかなか、その困難に耐え、「変質せず」、日々を送れる人は少ない。
本日、その彼女に、産休に入るので、しばらく職場に出られない、とあいさつされた。
とっさのことで、こちらのあいさつも粗略になってしまった、いい年をして恥ずいことである。
私も、今の職場に長く居続けることはできない、ところである。
おそらく、どうも、今後、彼女ともう会うことはないだろう、と思われる。
彼女は、職場で、あれだけ見事に、職責を務められるのであれば、家庭や育児で遺漏を生じることは少ないであろう。
先のない私が、望むらくは、今後、彼女のような生き方がきちんと評価され、彼女の将来のこどもが生きていく社会が、希望のあるより良いものであるように願うばかりである。
その実現のためにも、私も、残った時間を、全力で尽くそうと思う。
結局、名前も聞かなかった彼女に対し、私は、そう、誓っている。
そうではならぬ、と自分で思いつつも、人間関係(社会的関係)に前向きになる、ことは、おっくうなものです。
逆にいうと、閉ざされた環境で、人間関係がせばまれば、私の若いころでいうと、「屋根裏の哲学者」や、今でいうと「社会的引きこもり」などに陥ることもあるかもしれない。
また、社会生活の貧困や、自ら引き寄せたような閉ざされた関係と心理に安住すると、根拠のない、被害者意識や、選民意識を持つかもしれない、人間とはバカな存在であります。
自分の思考や、意識的に環境を変えるように働くことで、その閉ざされた状況が変わるものであれば、自分で、意識的に外部に働きかければよいものである、どの「生活者」も、躊躇(ちゅうちょ)なく、また躊躇する余裕もなく、日々日常的に働いているわけですが。
私の主治医に、「(いろいろな窓口で)おやじは、なぜ、あれだけ不愛想なんですかね。あれは病気じゃないんですかね」と尋ねたことがあった。
スーパーのレジに並んでも、笑顔一つ見せない、ぶすっとして、一言も口を利かない、その様子や振る舞いは、それは女性と好対照(それは良い意味で女子力と考えている。)である。
実は、近頃、私も、まったく同じ態度をとっている。
いろいろ理由はあるが、嘘でも、笑顔を作った方がよいのは、あらゆる人間関係で確かである。
それこそ「朝は機嫌よくしろ」というのは、有益な格言である。
しかしながら、その孤立の質としては、自ら選んだわけではない貧困や、家庭的な関係の貧困による、孤立は、お気の毒なことである。それは、他者が、容易に同情するような境遇や事情ではないかもしれないが、同感はできる。
私に則していえば、人や、その日常生活において、家族や、社会との人間関係が減ってくると、そのうち、「天気が悪くて応えて、気が滅入る」ような、困った心象も出てくるわけである(能天気といわれるかもしれないが、この辺りは結構根強い。)。
幸い、退職後も、再任用職員として、働くことができ、経済的にも、社会的にも、自己のためには、ありがたいことであった。
私の日常の仕事は、地方公共団体の出先で働いているので、出先から入金するため、地元の金融機関を、毎日のように訪れた。
私の、行政職としての人性の中で、仕事として銀行を常時訪れることは初めてのことであった。
観察してみると、なかなか、銀行というのは忙しいところで、金が絡むからか、様々な切実な人間模様がうかがわれる。あっと思うような、奇矯な風体や言動の人もやってくる。
一般的に、常に、客が極めて多く、税金一つ支払うにせよ、多大な時間がかかる。
よく見ていけば、現在という時間が、あらゆる側面で、われわれ、一般大衆においても、極めて不本意で、ストレスフルな時間であることを如実に示している、ように思われる。皆、一様に、不快、時に不幸なのだ。
当該窓口も、IT化が進んでおり、窓口の順番を確保するのも、タブレット端末からの申し込みとなった。
キャッシュディスペンサーを使うことのできない、老人もやはり、まだおり、印鑑と通帳を握りしめて、ベンチで待っている。
こちらは、仕事で来ているので、まだ、抑えが聞くが、粗暴犯のみならず、待ちかねた老人が、自分を抑えきれずに、大声を出すのも、時にあることである。
客によっては、自分の自己都合ばかりを並べ上げ、脅迫的な言動もあり、これは強要罪ではないのか、と思われることもある。
ただでさえ、適応不全の老人たちは、多大なストレスをかかえ、普段から閾値(いきち)いっぱいであふれんばかりの状況かもしれない。そのうちのいくらかが、たまたま、急に怒り出すのも、珍しいことではないのだろう。
さすがに、地銀の支店であれば、警備担当も存在しない。
それを、一人で受けなければならない、窓口の各女性たちはさぞかし、ストレスが大きいものだと思われる。
上司たちは、裏で、注意深く、客と彼女たちのやり取りを見ているばかりである。
いしいひさいちの漫画での指摘ではないが、奥の方から、銀行員の武器としての、「冷たい視線」で見守りながらである。
ある時、私は、長時間待ち続けて、こらえかね、納入書類を乱雑に、窓口で差し出したことがあり、私は、なぜか、違うものも一緒に差しだしたらしい。
担当の彼女(以下「彼女」という。)は、入金処理が終わって、「大事なものまで預かりまして・・・・」と、微笑みながら、入金書類と、私が乗ってきた公用車のカギを一緒に返してくれた。
それから、お互いに、大笑いになり、それ以降、彼女と、折に触れ、いろいろ、話をすることとなった。
お互いに仕事の途中であり、私もさすがに色香に迷うこともなく、長話をすることはないが、時折り、いろいろと、銀行のサービスで疑問に思ったことや、私事にわたることについても、機嫌よく、聞いたり、答えたりすることが続いたわけです。
「あなたはいい人」、と、仕事を通じて知り合いになったおばちゃんや、おじさんが、常時身内のことについて話しかけてきたり、野菜(?) をあげようとか、いうのが、田舎での親近感や個人的な好意の表示です。
日々の、相互の疎遠な関係を思いやればそれはよく理解できる。疎遠で、不干渉な人間関係にも人は耐えられないのである。
私たちは、なかなか、人間関係のバランスが上手に取れないのである。
私も、加齢に連れて、いずれ、そのようにふるまうこととなるかもしれないが、こちらも、仕事で行くので、ささくれた気持ちでいくこともあり、毎日、「万事機嫌よく」(桂枝雀)というわけにはいかない、のである。
ある時、当該銀行の周年記念ということで、二個詰めのマカロン(あの糖衣のジャム付きのい丸いクッキーらしきもの)を、彼女からもらった。
孫にでも与えようと、冷蔵庫に入れていたが、会う機会がなく、古くなるな、と思って、取り出し、かじりつくと、歯がたたない、よく見れば、塩ビの表紙のついた、丸いメモパッドだった(よく見れば、悪趣味なものである。地銀は、年金支給日の来訪者に、かっぱえびせんとか、駄菓子を配るサービスがある。それでも欲しい老人はいくらでもいるらしい)。
自分の失敗談を、後日、彼女に、笑って、話すと、彼女が代わりに、豆菓子をくれた。
呑み込みの悪い私は、地銀が豆菓子をくれたのだろう、と思っていた。
が、よくよく考えてみればそんな甘いことはない。
結局、豆菓子に目がないうちの孫が、もらった豆菓子を、小袋ごと皆平らげてしまった。
他人の親切というものはありがたいものである。
そんな、経緯があり、銀行に行くたびに、彼女の振る舞いや言動が私の目に入るようになった。よかれあしかれ、耳目に入るのである。すると、彼女が、極めて優秀な職員であることが、わかってきた。
まず、ミスはないようであるし、客が何を望んでいるか、判断が早い、いわゆる、想像力が豊かなのだと思われる。銀行の方針と、客の意向を両立するように、心を砕く。
日々、同じ人間に、同じことでも、それをいとわず、何度も、丁寧に説明を繰り返す。
多少、絡まれたり、心無い言葉を浴びてもくじけない。
この職場が、彼女にとって、何度目になるのかわからないが、初心を忘れず、というのが観て取れる。
自分でよくわかるが、窓口業務は、客に酔うようなところがある。そのつもりがなくとも、いやな体験を繰り返せば、神経がささくれ立ったり、人によってはなめてかかるようなことも出てくる。職員によっては、つっけんどんになったり、粗略な扱いをする人もいる。
仕事や職場は選べない、ましてや、理想的な環境で仕事をすることはできない、人とすれば、いやな仕事に対し、全人格をかけ、工夫をし、困難な条件に対応し、職責を果たし、願わくば、自分の思いをかなえたいものである。
頭の下がるような、彼女のその社会生活である。
つい、おそらく同世代と思われるうちの娘を思い浮かべ、彼女が、職場でどんな社会生活を送っているのかと、思いうかべたところである。
ひるがえって、自分の職場を思い浮かべ、どれだけ、彼女に比肩する職員がいるのだろうかと、その尊さに思い至ったところである。
私生活は別にして、自己の職責において遺漏のない、社会生活を日々送ることはとても困難できついことである。なかなか、その困難に耐え、「変質せず」、日々を送れる人は少ない。
本日、その彼女に、産休に入るので、しばらく職場に出られない、とあいさつされた。
とっさのことで、こちらのあいさつも粗略になってしまった、いい年をして恥ずいことである。
私も、今の職場に長く居続けることはできない、ところである。
おそらく、どうも、今後、彼女ともう会うことはないだろう、と思われる。
彼女は、職場で、あれだけ見事に、職責を務められるのであれば、家庭や育児で遺漏を生じることは少ないであろう。
先のない私が、望むらくは、今後、彼女のような生き方がきちんと評価され、彼女の将来のこどもが生きていく社会が、希望のあるより良いものであるように願うばかりである。
その実現のためにも、私も、残った時間を、全力で尽くそうと思う。
結局、名前も聞かなかった彼女に対し、私は、そう、誓っている。
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