うちの孫の好きな新幹線です。キティちゃんバージョンです。
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先に、友人のIさんという方と、それぞれの仕事にかかわることについて意見のやり取りをすることがありました。Iさんは監護職(私は広い意味で看護等と理解している。)であり、私もサービス業の一人です。Iさんは、自分の職責に、「人間としての尊厳」への配慮、という理念規定を挙げておられました。
それに比べれば、私の仕事は、とりとめのない、その場限りである散文的な仕事であり、そこまで、厳しく、自分を律することはないのですが、考えてみれば、仕事に対する、理念というものは、私自身にも位置づけておく必要があるとも思われ、下記のとおり、お話しつつ、考えてみました。
その際に、医療従事者、介護従事者などによく求められる、「(他者に対する)「やさしさ」」という言葉を導入したのは、私です。
それはそれで、ずいぶん、無媒介で、恣意的な、言葉ですが、それはひとまず、棚上げにしておきます。
私は、地方公務員であり、大昔は「公僕」(こうぼく)と言っていましたが、さすがに、その「僕」(ぼく)という奴隷体質が疎まれたせいか、採用の際、「全体の奉仕者」と名乗るように、人事課から仕込まれました(実は「人を選んで対応しろよ」というのが彼らの本音であったでしょう。)。
まあ、対人関係では、それが、智恵というものかも知れません。
したがって、それ以降、仕事上の来客者とは、つねに対等であるように振舞ってきました。老若男女、貧富の差を超え、ということです。人によって、閾値が低い人には、こちらから歩み寄るわけですが、その際も対等という姿勢を崩したことはありません。
「生意気」とか、「態度が悪い」とか、いろいろ言われましたが、致命的な(?) 対立・被害に至らなかったのは、幸せでした。
人によって、その人性というか、境遇に、自己の責任に帰せない「運」、「不運」は必ずある、これも繰り込むべき重要な認識ですね。「想像力が及ぶ」、強いて、いえば、それが、私の「尊厳」を守る、というひそかな実践例かもしれないと思います。
それは、私たちの仕事における、対人関係の当たりや、折衝という言うものは、常に、自らの全人格をかけたものになってしまう、と、今なら思い当たるところです。
さまざまな、経験や研鑽を経て、自ら得た、教養とか、経験、知識というものは、自らに繰り込まれ、知らず知らず、他者に対する対応に反映していく(例のX軸、W軸の交点の現在として)(笑い)のですね。
しかし、「仕事」という側面では、相互の自立・扱いの平等という前提を、外していれば、こんな社会的な関係は成り立たない、とも思えるのです。
まず、「やさしさ」について考えます。
それは、現実的には「自分の大事なものを無償で差し出す」、という意味に思えてなりません。それは、われわれ個々に大きな抵抗を生じます。それは、いわば「万人が万人に対する競争者である」社会的な対応の側面で、とても、日常的な関係の表出ではないのですね(それは、かつての1970年代のアメリカのニューシネマ「スケアクロー」とか「真夜中のカウボーイ」とか、孤独と孤立が日常的な社会での「友情」(だと思う。)を描いた作品が、なぜあれほど受けたのかを連想します。歳がわかりますが。)。
私は、ブログに連綿と自己史を書いていますが、私に係る精神的な影響は、ほぼ、同居した祖父母に拠っているように思われます。実父母には少し残念なところがあり、そのロールモデルは、殊に祖父に負っていると思える、のです。
したがって、野放図な老人(いくらもいるが)は別にして、謙虚で、自立しようとする老人に対しては、一般的に「やさしい」対応ができるような気がします。実のところ、それは、その外貌も重要なポイントであるかも知れません。
あるとき、「年寄りには優しくしろ」と、ふと漏らした、記憶に残った実の祖父の言葉は別にしても、まずは、その様な反応を、意識的にしようとしてしまいます。
これは、子どもについても同様で、礼儀正しくあり、私の幼年期に資質が似たような子どもに対しては、(たとえそれが私の思い違いにしても)つい、同様な対応をしてしまうところです。
しかし、今になって、どうしようもないサヨク崩れのじじい(ばばあも同義)とかに対しては、「ムリ、ムリ」(うちの同僚のおばさんでもそう言う。)となりますね。
私たちの、それに対する反目の想像力が及ぶのですね。生活史(?) に根ざした、このような対応は、さまざまな人においても、かなり一般性があるように思えます。
人の好き嫌いというものは理屈ではないのですね。
実際のところ「汝の隣人(敵)を愛す」人はあまりいないところですね。
それこそ、中井久夫先生ではないですが、「理念によって人は優しくなることはできない」し、また、混ぜっ返すわけではないですが、中島みゆき先生にも、「浮気女と呼ばれても(みすみす不利になることはわかっていても)嫌いなやつには笑えない」そのあとに「おかみさんたち、あんたらの方があこぎなことをしてるじゃないか」(「彼女の人生」)という痛烈な反語が入る、訳です。
なぜか、私たちの間には、それは、お互いに、相性というか、許し、相互に引き寄せるところがある、というか、そうとしかいえないところがある、と思われます。とても、説明しがたい、ところですね。
このたび、小浜逸郎氏のブログ、「言葉の虚構性と実体化作用」にも、その言葉や思想において(理念が近い筈であった)個々の人間同士の感情の差異とその齟齬に係る考察があるところです。なかなか、むつかしいものです。
社会的に「尊厳」というものが成り立つためには、必ず、その場で、公正さ(立場による取り扱いの差異のなさ)が要求されます。しかし、その存立条件として、同時に、社会的生活で配慮すべきは、「選択の自由(例えばお昼はラーメンにするかカレーにするかなど)」と、「自由の相互承認」(私の自由の尊重の希望は他者自由の尊重なしにはありえない)という、自由の本質規定を尊重すること、としか言いようがないですね。
社会生活を営むうえで(あるいは職責を果たすうえで)、それは決して失ってはならない、重要な配慮であると思われます。それは、西欧流に、国家間や、自立した、強者VS強者(弱者)の関係であれば、それでいいでしょう、それしかないと思われます。それが、成り立つかどうかは別にしての話です。現実的には、相互の言葉の戦いで、その差を埋めていくしかないでしょう。
しかしながら、最近、それに疑義を感じるような気がしてきました。
前からいろいろ考えてはいましたが、Iさんの臨む日本人の監護という局面において、それが、どこまで有効かなと、思えるようになりました。
たとえば、介護などの、踏み込んだ局面では、相手の実情(生活史)を知ることは最初の手続きかもしれません。それが、「人間としての尊厳」というよりは、「察しと思いやりの文化」(それは理念とかイデオロギーなどにはなりにくいものです。)(思いやりが最初に来ないのは私の資質です。)として、その線で、「尊厳」や「やさしさ」を媒介しつつ(想像力を武器に相手の現実を理解したうえで)、実務や現場を理解し臨んだほうが、歴史と地域を共有する国民国家日本において、私たち大多数国民大衆の共通理解を得やすいと思われるからです。
それのあとに、結果として「尊厳」までがくっついてくれば、それは対人関係として、願ったりというべきものかも知れません。
次は、一歩踏み出して、「やさしさ」の現実的な運用(?) の問題になるでしょうが、それはある局面で、「やさしさ」をあらわすことが、その瞬間、相互に、うまく、合致し、実現できるかいう問題になるでしょうか。
「やさしさ」を示すことは、それは共生存在としての、人間関係の良い表現であり、瞬時にその受感・反応もあるので、それがまたうれしい、という、とてもよい互酬であると思えます。
しかしながら、要介護の重篤な状態で、互酬と言っても、介護の現場では困難なことであり、何を持って、日々の介護の支えにするかは難しいところです(たとえば認知症の方々には困難なところかも知れませんが、先ほどのように、過去にその人が、どのような生活史を経たかということを周囲が知ることによって、現場でその看護の扱いも変わるということもあるようです。)(現在ではそれもむつかしいかも知れない。生きていくことは醜く救いがたいような部分はいくらもあるので。)。
そこはそれで、もとに戻って、「仕事」として考え、プロとして履行するしかないですね。「医者が治療できる患者は少ない。しかし、看護できない患者はいない。」(中井久夫)というところに帰るしかないかも知れません。人性のように、迷い、悩みながら続けていくしかないでしょう。しかしながら、それは専門職として、当該職員がきちんとした待遇を受けることを前提としています。
Iさんは気を悪くされるかも知れませんが、適正な待遇と給与抜きに「尊厳」などと、現場に強いるなよ、と思われます。
私が父母の監護で経験した範囲では、介護職の正当な知識や努力が評価されず報われないのは、ずいぶん不道徳なことです。
バカの財務省は、今後、日本国の医療専門職まで、介護サービスはおろか、質の良い職員の人件費を引き下げる努力をしていると聞き及んでいます。日本国の大多数国民の福祉や質の良いサービスの確保に配慮できない官庁など、何の意味もないですね。全く、卑劣で不道徳な官僚たちです。
私にいわせれば、先の老人介護や知的障害施設での元職員の無抵抗な要介護者への無差別殺傷事件も、その犯人の背後には、報われない介護職の、マイナス感情が累積していたと、思えませんか?
ところで、お定まりの脱線ですが、私も、いい年をして、妻の暴言に思わず切れてしまうことはよくあります。私の主治医は決して認めませんが、あれは気が狂っている状態(更年期には、男は女になり、女は気が狂う。(ラカン))であると理解しています。世の男性方に置かれては、若いうちから、配偶者の早すぎる更年期に逢着される方もあるようで、運・不運で言えば、本当にお気の毒です(自己責任と私はいわない。)。
対処療法としては、わが主治医は、「理不尽な言い分については、戦って(不当で不快であることを言明して)ください」といいます。これは、社会的な関係でも大事なことかとも思います。
まあ、「世間」一般においても、ことばや行為が通じない場合も多いわけですが。いずれにせよ、互酬のない、人間関係は長続きしにくいところです。
それ以外では、当該「やさしさ」の贈与が、後日、時間を経て後から相手に理解できるようになる、というところがあるかも知れません。それは、理解できるところです。それは、私たちの人性にも少なからず、思いあたることがあることかも知れません。
しかしながら、一方的な「やさしさ」の贈与、というのも、常態ではありえないことです。それは、自立できない子どもの、ないものねだり、というべきものなのでしょう。
いわば、多くのごく一般的な大多数が、おのおのの「やさしさ」の互酬を、普通にやり取りできるかどうか、ということが、制度(政治制度、社会の富の適当な分配制度などによる、国民生活の安心と安定の保証)の重要な役割りかも知れません。
私は「敵は制度である」、と、昔さるサヨク思想家に習ったわけですが、比較的「「良い」制度」が、まず存在し、その本来の役割りが果たされない場合において、大多数の一般大衆は、不幸になる、ことは、間違いのないところです。
それは、未来に対する希望も、「思いやりと察し」も、ましては「やさしさ」などあらわす余裕もなくなる、ということですね。
そうはならないように、社会が希望と活力を失い、若者たちにも絶望が蔓延しないように、さまざまな場所で、それはなかなか難しいものかも知れませんが、お互いそれぞれの局面で戦っていくしかないようですね。
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