私は、現在、山口県(以下「Y県」と略称します。)稀少動物保護員というのに、就任しており、会員は皆一般の市民で、義務はなく、会費・手数料もかからない、お気楽な会員ですが、折に触れ、研修や、友誼団体の行事に参加させていただき、大変楽しいひとときを過ごさせていただいています。
わがY県は、二方向を瀬戸内海と日本海に挟まれ、古来より海上交通の拠点として有利で恵まれた環境にあり、またその中で山間部もないことはない、という自然豊かな環境にあります。その一方で、瀬戸内側においては、地勢的にも恵まれ戦前、また敗戦後からの右肩上がりの時代に石油コンビナートなどの一連の化学工業群の集積があり、雇用もそれなりに安定し、全国的に見ても県民所得もそれほど低くはないところです。
自然はといえば、瀬戸内海側の海と、日本海側の海は明らかにその様相が異なっております。現在では、国土のほとんどに自然海浜はない、とも言いますが、瀬戸内海に張り出す岬の先端や、瀬戸内海の島しょ部には、いまだなお清んだ海の水と、潮の干満で顕われる磯の生物が数多く潜むタイドプールなどがあり、注意深く観察すれば砂浜や様々な小動物の営みと内海の穏やかな自然が、まだまだ残って居ます。
一方の日本海側の海岸といえば、かつて詩人の北川透が、早期退職(?) し、県内下関市の梅光女学院大学(当時)に赴任した際、地元新聞に山口県北浦の海岸を「信じられないほど美しい海」と書いていましたが、文字どおりそのとおりであって、白砂青松が今も現実に存在し、豊浦から長門、萩に至るまで存する日本海に面したいずれの海水浴場においても、島根県のあの鳴き砂に比べても引けを取らぬほどの目の細かい白色の美しい砂浜が続きます。日本海特有(浅瀬)の淡い青の海の色(文字どおり水色です。)とあいまって、夏の陽ざしの中で見る海辺の景色の美しさは確かに特筆すべきものです。殊に、土井ヶ浜あたりは、山陰側が企業用地になっていなくて、日本人として(?) 本当に良かったな、と思えるほど、長きにわたった、見ごたえのある美しい海岸が続きます。ほかにも、日本国の海岸ですから、それぞれの地勢に応じ自然の変化と差異のある興味深い景色が続くわけですが。私の個人的な好みであれば、ひたすら続く美しい砂浜海岸より、多少の岩礁を含めた変化の多い場所が好きです。海水は澄みわたり、十数メートル先まで十分に見通しが利き、岩礁の周囲や、点在する、波に削られた小規模な岩々の間でも、海中をのぞいてみれば、ウニがぎっちりとへばりついています。ところどころ繁茂する海藻の間を、様々な種類の小魚が群泳する中を、水中メガネを使って潜ってみるのは、実際、大変気持ちの良いことです。
閑話休題
Y県の最高峰は、県東山岳部に位置する岩国市の寂地山(標高1337m)ですが、この山は、なだらかな中国山地に位置します。ふもとから登れば、山頂まで片道3時間弱くらいかかりますが、夏場は広葉樹(ブナ林など)が繁茂し、おかげで日焼けを気にせずに登れる良い登山道となります。当該登山路は、渓流に沿った山道であり、ところどころ渓流から落下する滝や、山から下る小さな支流に行き当たります。さすがに、雪が積もってから登山は困難ですが、殊に夏の登山は涼しくて気持ちの良いところです。その川が寂地川、宇佐川にそそぎ、最後に錦川に合流します。上流には人家もなにもないので、水は飲用が可であり、澄んだ水が瀬音をたて流れています。
今年は、7月下旬に、稀少動物保護員の会報で見た、錦川の支流を遡上する沢のぼりの研修に参加しました。これは、 基本的に、ザイルなど使うものでなく、夏休みの子供たちへの、自然ふれあい研修ですが、それ相応に、なかなか興味深いものでした。
川のよどみには、様々な渓流魚の幼生メダカや、本当に針のように細いオタマジャクシが泳いでおり、それは、可憐な鳴き声で名高いかじか蛙の幼生だそうですが、それ以外にも水中に潜む、ヤマメ、ゴキ(サケ科のイワナに近いもの)、ハゼ科のよしのぼり、川虫の巣など発見し、成体のかじか蛙にも出会いました。その楽しさは、小学生たち、その保護者たちと共有しますが、皆気持ちがよいのでしょう、魚を追ったり、沢がにを捕まえたりと、こどもの好奇心や、貪欲さに、大人としても同様に喜びを覚えたところです。
皆で、清流を、運動靴を履いたまま遡上してゆくわけですが、浅瀬もあれば、ところどころ、深さが3メートル以上の文字どおり碧色の深みがあり、変化にも富んでいます。
自分の少年期をたどれば(私、川のそばで生まれました。)、こども同士、川に素潜りでもぐり、石とり(目印のある石を決め、競争で取り合う遊び)をやったり、度胸ためしに、岩場から深みに飛び込んだりしましたが、無上の楽しさであり、現在も記憶を去らぬものでもあります(多くの年長者とその記憶を共有します。)。同時に、深みに何かが潜んでいないだろうかと漠然とした何者かに対する恐れや畏怖も同時に感じたように記憶します。
このたび、子供たちと一緒に清流に足を踏み入れ、水中の石にすべりつつ、魚を追い、楽しい時間を過ごしましたが、その体験が大変楽しかったので、この夏何度も、渓流遊びを行いました。
深みの中で、石をかかえ潜っていれば、あたかもこの流域に数多く棲むオオサンショウウオになったかのように、息をとめ、ひたすら周囲と同化して、<自己本質>について思いをはせます(大仰な)。川の上流に向かって、ひたすら息をこらえていると、流れに乗った枯葉や、小魚が周囲を通り過ぎてゆき、頭の中が空っぽになっていくようです。適度に冷たい清流であり、あたかも修行をしているようでもあります。感覚的に類比してみれば、なんとなく、滝行をしているような感覚かもしれません。
今年は、7月の梅雨明けから、9月の初旬までほぼ雨が降らず、猛暑が続き、外界は耐え難いような、文字どおり酷暑でした。そんなおり、我が家から、当該錦川上流支流まで車で一時間半くらいはかかりますが、避暑に行くようであり、やはり、この夏の小幸福でありました。
わが愛読書、文豪(?) 宮澤賢治の、「風の又三郎」では、二百十日(にひゃくとうか)(9月1日)にやってきて、二百二十日(にひゃくはつか)(9月10日)に去っていく異族 (?) の少年(又三郎)と、短い期間でありながら、奇妙で濃密な体験をするわけですが、未知なるもの、不思議なものに対する、少年期のこどもたちが感じる憧憬と恐怖またその畏怖の気持ちに、当時(今も)強く共感しました(市原悦子の朗読バージョンがとても良いです。)。
願うらくは、渓流好き、動物好き又は自然好きのこどもたちが、魚や蛙を追ったり、棒っきれをふるったりというのはごく自然な行為と思いますが、また、同時に、自然に対する畏怖や、恐怖を抱くこと(実際にそのように感じていることかもしれないことも了解できますが)もあれば、と思うところです。いわゆる、「冒険」は、同時に、日常を広げる怖い体験でもあるのです。
本日(10月2日)、今年の最後と思い、潜ってみましたが、水温と外気温の差があるためらしく、晴天なのに、終日、水面に、もやがかかっていたのは、興味深い光景でした。
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