天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

いしいひさいち(「ののちゃん」の作家)に触発され、過去を振り返ること その2

2016-11-04 21:21:26 | 時事・風俗・情況
「いしいひさいち」の自伝的なエッセイを見ていると、関西を拠点に漫画を描いていた時代は、漫画一本でやっていけず、ビル清掃などのアルバイトをやっていた、ということです。彼はその籍を、関西大学の「漫画研究会」(「漫研」というのだろうか。)においていたということであるが、原作の「バイトくん」のように、徒党を組み、ともに騒ぎ、安酒を呑み、生活費に事欠き、試験や就職などでともに苦しみ、また、時には「安下宿共斗会議」のデモ(まだ学生運動は関西には残っていました。むしろ、各政治党派の陰惨な内ゲバの方が多かったと思われますが)に行き、という状態ではなかったようです。自分の漫画を描いたら、部室(?) から スーッと帰ってしまうという、友人(その後チャンネル・ゼロという当時の友人たちによって創設された漫画プロダクション)がそのような述懐をしています。
 うろ覚えながら(今記憶の確認ができないのですが)私、中学校時代、学研という会社の受験指導の月刊誌を購読しており、その中に「トップくん」という四コマ漫画が連載してあり、面白く結構人気のある漫画だったのですが、それがいしいひさいちの作画と重なってしまい、その真偽はともかくも、バイトくんのデビュー当時から、彼の漫画は、きわめて完成度の高いものでした。
 白眉だったのは、その漫画が引けないのは、誠に残念ですが、あえて、言葉で申し上げますと、最初に、新卒らしい2人づれの若い勤め人が歩いています、
「絶対楽しいから」と、その一方がスナックへ誘います。
 スナックの場面になります。
 誰かが立ち上がりマイクを握っています。ヘルメット(党派記載のあるもの)までかぶっています。
「カラオケ」かなと、最初は思われます。
「我々は、砂川の・・、このたび参集した学生・労働者諸君の・・・」と、学生時代に慣れ親しんだ、絶好調の、アジ演説が続きます。
カラオケマシンには、ほかにも、政治的局面を変えた、様々な効果音があるようです。
 
要は、ここは、就職で打ちひしがれた、もと「政治的」学生を、慰撫し、なぐさめる、政治的スナックなんですね。それぞれ年代別パフォーマーは、昔日のアジ演説を再演し、自己陶酔感を味あわせてくれるカラオケと同等の喜びを感じさせてくれるわけです。それを愧じないバカな元学生は願い下げですが、その後またぞろ巧妙に生き延びてこのたびの安保法制騒ぎに一枚噛んでいたかもしれない。それは、わかる人にはわかる漫画なのです。
 実際のところ、彼の漫画は質の高い漫画で、個人的には、村上春樹より先に、ノーベル(漫画)文学賞を差し上げたいくらいです。これだけ、冷徹で、冷静な批評のもとで、現実の痛みと、人性のおかしみを、その悲哀を表現し、また、作中人物を追い詰めていない「高度な」漫画は、日本人が誇るべき文化というものでしょう。
 私の大学在学中、隣の、友誼的なサークルに、平日の真昼間、卒業して都銀に入ったOBが、背広姿でたずねてきたことがあります。「平日に」、「何それ」、「まだ、新採期間中でしょ」、「こんな面白くもないところに」、とか色々言われていました。
「就職って(就職の重圧とは)本当に、大変なんですね」と傍らの先輩にたずねた覚えがあります。再訪されたその方は、在学中は、確か中共の指導者(確か私たちは「けざわひがし」と呼んでいましたが)の熱烈なシンパでした。
 確か、いしいひさいちは、「僕の漫画が誰か(打ちひしがれた誰かでいいと思います。)の、気分転換になってくれたらうれしい」といっていました、表現者として、政治的なろくでなしに堕さない、まことに良い心がけであると思います。
 東京へ行った後、「がんばれタブチくん」とか、爆発的にヒットし、映画化されたり、大ヒットした連作が続き、赤塚不二夫にならうまでもなく、強烈なキャラクターというのは、四コマ漫画でも、きわめて大事なんですね。
私にとっては、極め付きは、新聞連載の「ののちゃん」ですね。これは、彼の漫画家としての集大成だと思います。主人公の小学生、愛らしく強気な、ののちゃんは、国民的ヒロインです、かれの漫画の一つの典型としての毒舌家のおばあさん、天衣無縫の家付き娘のおかあさん、何と魅力的なキャラクターでしょうか。同時に無力で、常識的な男どもが目立ちますが、当初のバイトくんのキャラクターも学童として形を変えて、健在です。彼の出身地は岡山県玉野市であり、「たまののののちゃん」というキャッチコピーで、地元の広報誌に連載もしているし、私の見た映像では、下水道のふたも、ののちゃんのキャラクターデザインです。彼の説によると、「日本のユダヤ人といわれる岡山県民」というのがありましたが、岡山県で勤務経験のある友人に聞いてみると、その県民性は「確かにその要素はある」、といっていました。漫画家としての批評精神も鋭く旺盛な人です。
大変、不愉快なのは、この漫画を連載している偏向した新聞社ですね。
 いしいひさいち自身は、「僕は新聞にも書くし、エロ週刊誌にも書く」と公言していますが、彼の書くものにも、中にはつまらないものもあります。
 かつて、晩年の吉本隆明が、スター編集者だったある編集者(かつて村上春樹が自分の生原稿を流出させたと責めた編集者です。)で、晩年になって小説を書き始めた、かつて有能な編集者であった彼を評して、「仕事にも「毒」がある」、と、自分の小説の適正な評価もできなくなったことを評していました(これは誰においても本来の仕事についてあることであろうとは思いますが)。私が思うに、いしいひさいちも、長年偏向したA新聞と付き合い続けた毒を受けたのか、A新聞社刊の「経済原論」とか、「現代思想の遭難者たち」とか、いう作品は、A新聞の固定読者には受けるかもしれないが、私は、駄作だと思います。やっぱり、漫画家が、思想や正統性を語ってもつまらないのですね、これは、私に言わせれば、彼が毒されたA新聞社の毒ではないかと思われます。
 いちどだけ、大変、異和を感じた作品があって、「吉本ばなな」を扱った作品でしたが、これは、ごみの収集のための街角の出しおきの話ですが、「今日は吉本ばななの日」という説明で、吉本ばななの顔が大量に出されている、という漫画でしたが、これは笑えない、いしいひさいち氏は個人的に、小説家吉本ばななに含むところはないでしょうから(それならそれでなぜだめなのか、嫌いなのかちゃんと説明すべきです。)、そうであれば、彼が過剰に期待してその後振られたおやじに対する意趣返しかな、と思われました。かつて、元京都帝大でポストモダンの旗手であったA氏が、吉本隆明にやり込められた腹いせか、娘の吉本ばななのことをそしったことがあって、つまらない左翼性・幼児性に、くたびれた思いがあります。
それはそうとして、どうも、彼が在学した時期や、いくつかの作品に散見する表現を見ていれば、いしいひさいちの左翼体験(私より四歳年上です。私の叔母が大阪に住んでいて、当時関大のキャンパス駅(下新庄駅など)から、包帯をまいたり、松葉杖の学生がいっぱい、たむろしていたと言っていました。)は確からしく、私の下衆の勘繰りといわれようと、もしそうであれば、早くそんな、愚かな左翼性から手を切ってしまいなさい、と、長年の読者として、期待します。
最近小説を読まなくなったので、現在の吉本ばななの小説はわかりませんが、彼女のエッセイは私にとっては良いものに思われます。

いしいひさいち(「ののちゃん」の著者)に触発され、過去を振り返ること その1

2016-11-01 22:40:50 | 日記
「いしいひさいち」を最初に見たのは、ご同様にポスト団塊世代の私とすれば、「バイトくん」(1977年刊行)という4コマ漫画です。その漫画は、「日刊アルバイトニュース」に連載され、発行していたプレイガイドジャーナルという関西圏の出版社から刊行され、今も忘れないのですが、当時、単行本が関西圏でなくては買えず、すでに帰郷していた私は、新婚旅行の際に京都に立ち寄り、さっそく二冊買い求め、飛行機の中でも笑いっぱなしで、エコノミークラス座席でも、「なんじゃ、この男は」とひんしゅくを買ったであろうと思われます。それに関して、他人の目は気にしない妻には少しは感謝しなくてはなりません。実際のところ、当時の妻が、「海外旅行に行かないのなら結婚しない」、というので、やむを得ず、カナダに行くことにしたのですが、十数時間にわたる機中移動のうんざりする時間の中で、何度読んでも笑える「バイトくん」は大変救いになりました。面白く、またやがて悲しきという、貧乏な大学生たちのその日任せの日常生活ですが、「安下宿共斗会議」という政治党派も存在し、当時の、政治の時代の末期のどこか、暗い側面もやはり持っています(こんなものを雰囲気で語るべきものではないですが)。この漫画には、徒党性の快感というものは確かにありますが。
 バイトくんは、貧乏な文系学生で、「いしいひさいち」の分身としては多分関西大学の雑学部(社会学部)に在学しており、仲野荘という木造二階建ての老朽アパートに、同様に地方から就学した同様な境遇の学生たちと群居しています。トイレは共同、風呂なし、共同の流し(多分洗面台)はあるけど、皆、電熱器を使っているようだし、いわゆる「学生アパート」よりは、「間借り」に近いのでしょう。
 さて、実は、この「学生アパート」(当時)と、「下宿」の間には千里の径庭があり、私は京都に在住しておりましたが、「学生アパート」はおおむね学生のみが居住し、状態がいい物件であれば非木造で場合によっては管理人などもおり、トイレは各部屋個別附置で、恵まれていればユニットバスがついています。当時は、個々にガスなどの附置などはないにせよ、一応都市ガスなど、煮炊きする場所はあります。また、契約上、敷金、保証金、そして当時関西限定であった礼金が必ず付きます。
ところで、「下宿」の実態といえば、間借りなんですね。私は、川端今出川通上る京福電鉄、ターミナル出町柳駅(わがアイドルD大学英文科出身の「種ともこ」さんの「出町柳」という歌があります。)から電車で30分(ところどころ路面電車となりますが)ゆるゆる進む7駅か8駅先の左京区奥地の僻すう地に、京福電鉄(のちに事業売却)の八瀬遊園地そばの三宅八幡というところに住んでいました。八瀬というのは、あの「八瀬童子」の住居地であり、彼らには天皇の棺を担ぐ役割があり、まあ、この付近の人たちは、鄙(ひな)そのものであるような、京都の外周に住む人たちでした。
私たちは、家主が住む母屋の二階に住んでおり、そこは本間の四畳半が、四間ついております。一度だけ、母屋の一階に入れていただいたことがありましたが、土間も、叩きも広く、まだタイルで葺かれた大きなかまどもあり、また外部は、しっくい塗りで、とても立派な豪農というべき家で、黒光りする式台や、天井のはりも立派なものでした。根っからのお百姓さんが、空いた広い部屋を、遊ばすのもなんだし当面貸すという話だったんでしょうね。家主さんからは、よくある、京都人の「陰険さ」、とか「いけず」とか、あまり感じられたことはありません。文字通り、鄙びた(ひなびた)温和なところだったかもしれません。
私の階下に住む、長男の勤め人(30代始めだったと思う。)が、朝、顏が会うと、「Tさん、おはよーさん、学校もう慣れたか」とか、あいさつしていただきました。生粋の京都弁は微妙にイントネーションがあり、その口真似が、「男もすなる京都弁」として同郷の友人に大変受けましたが、その親切さは、当時の私たちにも十分に伝わるようでした。夜遅く、友人が来て、音楽をかけて、一度怒鳴られたこともありましたが、騒がしい学生たちですが、おおむね折り合い良くやっておりました。部屋は、本間の4畳半ですが、前述したように堅牢であり、京間とやらに比べると広めで、ガラス窓を開けると高野川(のちに出町柳で賀茂川と合流)のせせらぎの音が聞こえ、静かな良い部屋でした。また、三宅八幡という駅は、終点、八瀬遊園のすぐそばで、八瀬遊園から折り返し運転する電車の音がよくわかり、もう着くなと、乗車するのにとても便利でした。上りが発車して、10分程度すれば、乗るべき下りがやってくるわけですから、便利なものです。当時、京都の下宿事情はひっ迫しており、駅からまだまだ遠い下宿はいくらもありました。
しかし、洗濯機は、一槽のみの洗濯機で、すすぎ後、絞るのは、ハンドル式(若い奴にはわからないだろうな)であり、学生に解放された備え付けの物干しに干すわけです。また、私の入学年次(1974年)前に、第一次オイルショックが起き、原油が暴騰し、それまでの下宿人は、大家の外風呂(農家ですから、風呂も便所も別棟なんですね。)に入れてもらえたわけですが、私の入学前年から、それが困難となり、その費用の上昇より、むしろ家主さんが煩わしかったのでしょう、下宿生は電車で銭湯に通うこととなりました。当初契約の際、「重要事項」として説明を受けたわけでもなく、最初は特に気にはしてなかったのですが、後々で、ボディブローのように効いてくる問題でした。したがって、冬は週一回、夏はさすがに週二回くらいは、当該京福電鉄で、二駅先の「修学院」(あの離宮のある修学院です。)まで通いました。駅から、5分は歩かないと銭湯にはたどりつきませんが、銭湯から帰る時間を間違えると、吹きさらしの修学院駅で、電車を待ちつつ(鞍馬線もあるので待つのは文字とおり一筋縄ではいかない。)冬の間は、比叡おろしで髪の毛が凍る体験もありました。当時、皆、学生は、髪を肩まで伸ばし(単に無精のため)、銭湯側もたまったものではなく、後に洗髪料金などの追加徴収などもあり、納得したところですが、なかなか他所ではできない体験でした。また、近所に大学の先輩の下宿があり、そこは駅から少し離れており、オイルショック後も、下宿人を風呂に入れてくれたとのことで、下宿の運営も、家主と下宿人の阿吽(あうん)の呼吸というものがあったのかもしれません。
わが下宿の極め付きは、いわゆる「ぼっとん式の」トイレでした。田舎育ちの私も、さすがにびっくりしました。下宿人用のトイレは、当然外便所で、簡易木造、小便槽と、一段上がった大便槽とに分かれ、20ワットくらいの暗い電燈に照らされています。小便槽は朝顔便器で受忍の範囲ですが、大便槽は、一枚板が長方形にくりぬかれ、前に隠し板が立ちあがっています。一枚板の下は奈落ですが、人によっては悪夢になるかもしれません。家主としての「お父さん」は、根っからのお百姓で、守衛業務の合間に、定期的にひしゃくとたごで、たぶん、有機肥料とするため肥えツボに運んでいました。その後、みなさんが愛好する京野菜になったと思います。私たちは基本的に自炊を禁じられていましたので、野菜をいただいたことはなかったけれども。
お父さんも時々、苦痛なのか、汲み取りを怠る時期があって、下宿人仲間でもう(尻に)つきそうですね、と立ち話をした覚えがあります。
色々、便利なこともあって、結局、4年間、居続けましたが、「バイトくん」に類比しても、少なくとも、「東淀川区下新庄」の方が、「文化的な」トイレであったと思われます。 
やっぱり、「学生アパート」(当時)と、「間借り」とはちょっと違うんですね。
間借りですから、家主も、下宿人も、やむを得ず、お互い、「思いやりと察し」の文化で振舞いますね。私の部屋は、ふすまながら、南京錠がかかりましたが、ちょっと離れたところにいた、先輩の下宿は、完全に、鍵のかからないガラスの引き戸だけでした。そこはもと、納戸というのが明らかで、広い窓から、西日が終日さすような三畳間です。埴谷雄高の屋根裏部屋ではありませんが、なかなか過酷な環境です。引きこもってしまえば、「観念こそが現実である」ような年代と思索には、むしろ良い環境かもしれませんが。
ここで、友人の昔語りを聞けば、「学生時代(大学時代)には、絶対戻りたくない」という、ことを強固に言い募る人がいますが、自分自身を振り返って、その気持ちがわからないではありません。若かったかもしれないが、貧困で、悩み多き時期に回帰するのは、はっきり言ってつらいところです。
仲野荘の彼らにも、まとめて訪れてくるような大学生活や、アルバイト生活、また政治の季節に関わる倦怠や、諦観、ゆるやかな絶望が確かにあります、確かに、それは「名もなく、貧しく、美しくない」私たちにとっては「現実」であったわけですが。