こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

実は、この病気がなくなれば、正しいものの見方考え方ができるようになります

2013年06月11日 | 仏教

   

ツバメの雛たち、親の頭を飲み込んでしまいそうな勢いです。(遠写なんで、クリック拡大で見て下さい。)

 さて、前回からの続き「懺悔文」の2回目。
「皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)」です。これを書き下しますと、
 「皆、無始の貪・瞋・痴に由る」(みなむしのとんじんちによる)となります。

 「皆」は、「私が知ると知らざるとに関わらず、ついついやってしまう悪しき行為のすべては」という主語に置き換えることができましょう。その悪しきおこないは、はかりしれないほど大昔(無始)から積み重ねてきた、「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)にもとずいている。」んだと。

 では、この「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」ってなんでしょ?
この「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」って、簡単に言えば「むさぼり(貪)」と「いかり(瞋)」と「愚かなる考え(痴)」とということですね。

 「貪」は「とん」と読みます。仏教って、時々発音が独特だったりで面白いですね。意味は、むさぼること。これでもかこれでもか、もっともっと、って欲しがる心のことを言います。満足を知らない、足ることを知らない状態ですね。他にも、実績や経験も薄いくせになんだか偉そうなそぶりや発言をしたり、地道な努力もせずにやたら地位だけを欲しがったり、お金や財産をほしがったり。結構いらっしゃるんじゃないですか?そんな人。実はね、あなたにもそんな貪りの心が多少なりとも潜んでいます。そんな心を「貪」というんです。
 
 次の「瞋」は「じん」と読み、意味は「怒り」です。でも、単なる怒りの感情という意味ではありません。一言に怒りと言っても、不正や間違ったことに対して怒る怒りではありません。「怒り」そのものが間違った心、ゆがんだ心から生まれてきている、そんな怒りを言います。「ひねくれてゆがんでいる心」と表現しても良いでしょう。例えば、「ねたみ、そねみ、うらみ、ひがみ」と言った人間特有の心です。 こんなゆがんだ心からは、ろくな事は生まれません。自分の努力のなさや向き合い方の足りなさ、運の悪さ、といったものを家族や周囲の人のせいにしたり、社会の責任にしたりして、ひがんだり、うらんだり、ねたんだりしている人。いますよねぇ。私もその一人です。時折そんな心が生まれて、強く後悔することがあります。そんな心のことを「瞋」と言います。

  最後の「痴」。これはやまいだれに知と書きますから、雰囲気は伝わりますよね。「ものの見方考え方が愚か」であることです。ものの見方考え方が偏っていたり、一つの価値観に固執しすぎて周囲の意見や他の価値観を受け入れようとしない頑固な状態を言います。職人気質の頑固さや、頑固な親父といったときの頑なさではありません。これは肯定的な頑なさですから。愛嬌もありますしね。 例えばですね、いつまでも過去にこだわって、じくじくウジウジとした心。そんな心持ちの人に何かアドバイスしても、なかなか聞き入れてくれません。そんな心持ちを「痴」といいます。また、何にでも反対したり、いこじになったり、他のアドバイスを聞き入れなかったり、・・・(やっぱり頑固な親父も仲間ですね)あるでしょ?あなたにも。そういう頑なな偏った心持ちを「痴」と表現してあります。この心持ちでは、正しい判断ができなくなります。ここが大問題。だから仏教では、知の病気と表現してます。

 実は、この病気がなくなれば、正しいものの見方考え方ができるようになりますから、先に述べました「貪」も「瞋」も自ずと無くなりますね。すべてはこの偏った頑固な考え方が、諸悪の根源だったんですねえ。

 では次回は、懺悔文の後半に入っていきます。

 

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