コンクリートブロックも、年数次第では苔むして、
とっても趣のある良い感じになりますね。このブロックは、約25年経過。
さあ、懺悔文の最後の1行です。
「一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」。これは 「一切、我、今、皆懺悔したてまつる。」
と読み下します。意味は、 「一切を私は、いま、すべて懺悔いたします。」。
「一切」は、前文の、「私自身の行動や言動、思いの世界から生まれ出た罪の一切を」ということですね。ですから、この最後の文は、「自分が犯してきた罪すべてを、私は今ここに告白し、深く謝って猛反省します。」って意味の文章です。
実は、懺悔には「許しを請う」という意味はありません。だから罪を犯しそのことを洗いざらい告白した人に対して、何らかの罰を与えたり、何かの代償を背負わせたりといったことは一切ありません。欧米ですと、「贖罪」っていう考え方がありますね。「目には目を、歯には歯を」って考え方です。すなわち、相手にわびるためには、それ相当の代償を払うことで、相手から許しを得ます。ほら、法律を破ったら、罰金とか慰謝料払って刑に報いるでしょ?スピード違反の罰金とか。罰金を払うことで、罪を許してもらってるんですよ。
ともあれ、懺悔というのは、自分の犯してしまった罪を他人の前で告白して、そのことでその罪を清める!これが目的です。元来懺悔は、お釈迦様や、罪に汚れていないお坊さんたち(清浄比丘)の前でおこなわれていました。自分の罪を発露し、再び犯すまいと決心を表明すれば、懺悔を受ける「清浄比丘」はそのことを受け入れます。それによって懺悔は成就します。布施が見返りを求めない施しであるように、懺悔もまた罪に対して代償を要求しないんですね。
ちょっとイメージしてみて下さい。罪を犯してそれを隠しておくってことは一種の苦痛です。「犯した罪の意識に日々さいなまれ・・・」です。心の重荷になっています。いっそ、誰かに言ってしまえば楽になるのになあ。・・・だからなんです。自己の犯した罪を清浄な他者に告白し罪を公にすれば、自分だけの秘密にしているっていう重荷を解消することができるんです。それによって罪の汚れから自己の心が開放されます。心の開放ということが仏教の目的の一つでもありますから。あくまで、罪を犯した自分をまず認め、そしてその自分がどうあるべきか、ということが主眼なのです。
最後に、懺悔文の意味を一望できるように書いておきましょう。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
「私が昔から積み重ねてきてしまった、様々な悪い行いは、
皆はかりしれないほど大昔(無始)から積み重ねてきた貪・瞋・痴(とん・じん・ち)にもとずいた
私自身の行動や言動、思いの世界から生まれ出たものです。
その一切を私は、いま、すべて懺悔いたします。
さて、今ここで一つ提案があります。この懺悔文の意味がわかったあなた!
もしも、犯してしまった罪があるのであれば、こっそりと告白してください。
告白することこそ、心清らかになるための第一歩です。