石鳥居 大正13年11月の建立
神社の名は町名に拠る その町名は「坊目誌」に「室町期に杉若越後守という武人住めり 故に町名とす」に基づく その後当地一帯は浅井長政など諸大名の所有を経て、幕末には丹波篠山藩青山家の京屋敷となった。参道を通称 青山露地と呼ぶのは之に因む その屋敷の鎮守社が連綿と引き継がれ 今日の越後神社となった 当神社は弁財天 福鷹龍神及び福徳稲荷大明神を祀る その脇には おまつお婆さんに由来するおまつ地蔵尊が安置されている。
また 当地に廣瀬備治翁遺蹟として知られている 明治10年代 手描友禅の名工であった廣瀬治助(備治)が型紙と色糊を組み合わせ 試行錯誤の末「写し友禅」を創案した 明治11年頃 当地に染工場を建て境内の泉水を使い 大量生産を行い今日の友禅染普及の基礎を築いた それ故染色に携わる人々からは友禅神社とも呼ばれている 当町では 備治翁の偉業を称え 顕彰祭を毎年4月の例大祭と共に挙行している
昔日は三百余坪あった鎮守社の池も大半が埋め立てられ変容を遂げたが 町民からは親しみを込めて「弁天さん」と呼ばれ町外を問わず畏敬崇拝されている 越後神社
地蔵尊
越後神社
この辺りは明治時代より青山屋敷という名称があり、その屋敷跡の総 数は約1340坪で庭園には300坪ほどの大池があり、島には鷹竜 、周辺には 徳稲荷大明神が 時代より祭られていました。
写し友禅の創案者のある広瀬治助(備治翁)が青山屋敷跡 工場を建て豊富な水量を水元に利用して いで池水は京友禅発祥の泉といっても過言ではありません。昭和 年頃より水位も下がり全く水も沸かなくなり、埋め立てて土地に変わりました。昭和25年に、島であったお宮のところに池辺のお宮を移動させ並 昭和35年に越後神社を設立しました。
稲荷神社
福鷹龍神
型友禅 廣瀬備治翁遺蹟
井戸 水は濁ってはいないようです
清掃道具も 備えてあります
前回の記事 大内山を目指して3 大内山の頂に到着 見晴しは悪い
山頂付近から 眺められるところからの景色です
午前8時半ごろ もやっています 手前の建物は 立命館大学 正面遠くは 二条城方向
嵐山方面 渡月橋が 思いのほか 小さいですが 朝日を受けて はっきり写っています
山裾 左の方は 法輪寺でしょうか
龍安寺の池 でしょうか
次は 元来た道に戻ります つづく・・