アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

錦天満宮 

2016年01月15日 10時25分36秒 | 神社

 

石鳥居  大正10年8月 建立

 

 

 

石鳥居  明治26年7月 建立  見られない字が書いてあります

 

錦天満宮(錦の天神さん)

御祭神・菅原道真公

御利益・智恵、学問、商才、招福、災難 厄除け

当天満宮は11世紀初頭、菅原道真公(菅公)の父親、菅原是善の旧宅「菅原院」に創建されました。菅公の薨去後、嵯峨天皇の皇子源融公の旧邸、六条河原院に場所を移し歓喜寺の鎮守社として天満大自在天神をお祀りしたのが始まりといわれています。そこから約300年の時を経て、後伏見天皇より「天満宮」の神号の直筆の文書を授与され、その際、河原院跡を京都八幡善導寺に寄進、塩竃宮を鎮守とする「歓喜光寺」と改名されました。後に、当天満宮を菅公聖跡25拝の第2番に位置付けられたのはそのためです。そして「歓喜光寺」の創建から274年後、桃山時代天正年間に行われた豊臣秀吉の都市計画によって「金蓮寺」の敷地に移転、以後400年余「錦天満宮」として同地に鎮座しております。そして明治5年には神仏分離令によって「錦天満宮」が独立、現在に至っております。歓喜光寺は東山五条に移ったが、昭和47年山科大宅に移転した。

 

明治以前は代々八坂神社の祇園大政所御旅所の宮司をしていた大和氏がこの錦天満宮の神主をしています。明治5年槙村知事が新しい道路を開いたのが新京極通りです。境内の北側に末社がならび、、白太夫社は神宮禰宜従五位下渡会春彦を中央に朱塗りの日の出稲荷社があります。

 

名水  錦の水

狛犬  青銅製か

 

扁額

 

手水舎

 

 

 

なで牛

 

塩竃社は従一位河原の大臣源融公を祀り

下渡会春彦を中央に朱塗りの日の出稲荷社があります

 

白太夫社は神宮禰宜従五位

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              清凉寺・嵯峨釈迦堂 狂言堂・然上人・嵯峨天皇・壇林皇后・聖徳太子・法然上人

              嵯峨釈迦堂前の道標5本 1ケ所に5本は初めて見ました 

              嵯峨天皇陵  見晴は抜群

天満宮・関連記事  ➡  天神・天満宮 のまとめ

 


石碑 元日彰小学校  日彰学区の歴史

2016年01月15日 06時53分29秒 | 石碑

 

日彰校記念之碑

明治2年(1869)6月20日 開校

平成5年(1993)3月31日 閉校

 

 

日彰学区の沿革

ここは和久屋町(元日彰学区)です。六角通から南は蛸薬師通に至る、天正時代に豊臣秀吉が町界を定めたとされる、両側町となっています。寛永18年(1641)前平安城町並図では、高倉通の西側(元日彰小学校、現高倉小学校の地)に、徳川家康の異父弟久松定勝を祖とする伊予松山藩(現愛媛県)の京屋敷があり、人家が東側に集中し「かたはら町」と称されたこともありました。東隣の甲屋町には、京の商人に大きな影響を与えたとされる心学を創設した石田梅岩(1685~1744)の自宅があり、当時ここで、今でいうゼミナールが開かれていました。近年では、洋画家で美学・美術史学者でもあった有名な須田国太郎(1891~1961)が住まいしていました。日彰自治連合会

  


円融天皇火葬塚 衣笠山をめざして5

2016年01月15日 06時50分04秒 | 陵墓

前回までの 足跡 ➡  衣笠山を目指して 4  比叡山と洛中の眺め

 

 

すぐ先にも 参道標がありそうです

 

陵墓のところまで やってきました

 

円融天皇火葬塚

 

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年3月2日(959年4月12日) - 正暦2年2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年9月23日(969年11月5日) - 永観2年8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。

村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟


右書き看板66  永良屋龜

2016年01月15日 06時42分18秒 | 右書き看板

 

 

天保3年(1832年)創業。当代で5代目。代表銘菓「御池煎餅」は淡白な味が好評。他にシンプルでありながら、季節を感じて頂ける楽しい京菓子づくりに励んでいます。大原路、無門、月、小倉山、今年竹など。

本能寺の門前、寺町通と御池通が交わる角地に亀屋良永はある。創業は天保3年(1832)。当初は「大文字屋庄三郎」という屋号だったが、万延元年(1860)に「亀屋」へと改称した。創業の地は柳馬場通御池を南に下がったところで、間もなく堺町通御池に移転し、長くこの地で商っていた。
昭和に入り、同店は歴史の荒波に翻弄されることとなる。第二次世界大戦末期の昭和20年、御池通を拡張して防火帯をつくることになった。このとき亀屋良永は、店舗を強制撤去されたうえに疎開を余儀なくされ、やむなく休業に追い込まれたのである。筆舌に尽くせぬ苦労を強いられたのち、昭和27年に、ようやく現在地で菓子づくりを再開したが、すべてが一からのスタートだったという。代表銘菓の「御池煎餅」は、明治末ごろから同店でつくられていた煎餅を、戦後の再興に尽力した先代当主が改良したもの。麩焼きのように仕立てた糯米粉の煎餅に、亀甲型の焦げ目をつけ、溜り醤油を隠し味にした砂糖を刷毛でひいている。サクサクと口の中でほどける淡泊な食感でありながら、醤油の風味がほどよく効いていて、茶菓子としても好まれる逸品である。

署名が気になるのですが 武者小路実篤  

 

ピンクの缶 缶のラベルを1950年代に版画家の故・棟方志功が手がけたという話

前回記事 ➡  右書き看板65  堂居鳩