玉村家住宅
玉村家住宅は、近世山陰道の宿場町として栄えた樫原宿の本陣として、参勤交代の大名等の宿所にあてられていた。
本陣の関して史料的に確認できるのは18世紀末以降のことで、寛政9年(1797)12月晦日に本陣の類焼したことが当家所蔵文書から判明する。再建は丹波・丹後・但馬の12藩などからの合力銀・拝借金を得て進められ、同12年4月にはすでに完成していた。現在の主屋はこのときのものである。また主屋の後方には土蔵が配されており、これは棟札より明和3年(1766)に建てられたことが判明する。
また主屋は、内部が一部大きく手が加えられているが、復元すると東から正面にかけて土間が鍵型に配され、その西に9室が3列に並ぶ平面となる。このうち西及び正面寄りの各室は改造が少なく、なかでも西列最奥の6畳は床を一段上げて上段の間に造り、柱はすべて面皮柱として西面に床と棚を構える。上段の間の南には二の間・三の間が続き、これら3室は書院造りの構成となって本陣座敷としての体裁を整えている。伏見宿の本陣が現存していない今日、こので唯一残る本陣遺構であり、また樫原宿の近世町屋として評価される。平成4年京都市指定有形文化財
樫原陣屋跡(本陣)
山陰道の樫原は、早くから宿場町として設備も整い、丹波・山陰よりの物資の集積地として賑わいを極めていました。徳川三代将軍家光公が参勤交代制をはじめますが、この陣屋は山陰道を参勤交代で往来した諸大名が宿舎とした所です。最奥の六帖は上段の間につくり、欄間・床・違い棚のある書院造りの立派な建造物です。上段の間の横には隠れ間も存在します。玄関の間、六帖、八帖、六帖と4室が続き、その他7室の併せの構えはまことに立派の一言に尽きます。諸大名が出入りした玄関門は乳門といわれています。玄関の天井板には、筆太に書かれた「高松少将御宿」「松井伯耆守御宿」等の宿札がびっしり貼られています。大名の宿帳や関札など多くの古文書も蔵されています。この本陣は、頼まれ本陣とも口伝され、享保4年(1719)に当地の豪族廣田庄兵衛永帳が京都所司代板倉氏の依頼により経営に従事。安政2年(1855)に松尾下山田の豪族で足利直径の玉村新太郎正継が継承し、今日まで5代、大切に維持されています。伏見宿の本陣が現存しない今日、市内で唯一残る本陣遺構であり、平成4年4月1日に京都市指定有形文化財となりました。
玄関付近
建物正面の右側の様子
正面の左よりの小さな門
龍淵寺は 浄土宗西山深草派
辻のお地蔵さん・樫原
約400年前の帝である正親町天皇より、国内の平和と朝廷の衰微を再建せよとの命を受けた織田信長公は明智光秀に丹波・丹後の平定を命じたのである。丹波国の秦之秀治は滅亡しましたが、部下の雲林院式部承高任独り樫原に逃げ辻の平兵衛なる縁故者宅に身を寄せた。名を太郎左エ門入道と改めて、佛門に入り、信仰していた地蔵尊を小さな堂宇を建て安置し、主家の菩提と諸悪消滅を祈願、日夜念仏を唱えて修行し、108歳の長寿を全うしたといわれる。この地蔵さんを雲林院延命地蔵と呼び、無病息災・諸願成就・安産に霊験あらたかなお地蔵さんとまつっております。地蔵の前で大きな釜で湯茶を沸かし「一刻のいこい」にと、樫原の街道を行き交う旅人・商人に振る舞っておりました。霊験あらたかさが今も有名で、命日の7月23日には、樫原の人々が健康で過ごしていただけるようにとお茶の振る舞いを続けています。