小畠川(こばたけがわ)
公称名は洛西西幹線用水路であるが、昔から、小畠川別名明智川と呼ばれてきた。嵐山渡月橋畔大堰川から分かれ、「京の五ツの岡」の1つ西の岡11郷一帯の田畑を潤している。この用水路には種々の逸話が残っています。天正10年(1581)6月2日、本能寺で主君織田信長公を誅殺した明智光秀は、早々に引き上げてくる途中この場所で落馬された。それを村人が見て、おにぎりでも食べて少し落ち着きなさいと腰掛も用意する親切をした。明智光秀は礼を言いながら、ときに東の火事は何処であるかご存じか、当てたら望の物を与えようといわれた。村人は即座に、本能寺であると答えると、見事だ何かしてほしいものはないかといわれた。村人は、この辺の水田には水が不足だから、川を造り水を通してほしいと申し出た。光秀はただちに着工したというのである。しかし、光秀は3日後に秀吉に敗れている。この川は、信長の命を受け、天正3年(1575)、丹波平定のおり、樫原を補給基地とし、老いの坂から樫原・桂までの道を整備した時に、併せて溜池や灌漑用水路を築造したのです。明智川と呼んだのは光秀の領民に対する政策の善かったことの証左でしょう
関連記事 ➡ 有名人ゆかりの地