俊成社
ここは、藤原俊成の邸跡といわれ後世の人が俊成の霊を祭ったものという。俊成は平安末鎌倉初期を代表する の父で、後白河法皇の命により「千載和歌集」を撰した。謡曲俊成忠度は平忠度が歌道に執心のこと及びその最後の様を描いた修業物即ち岡部六弥太忠澄は西海の合戦で短冊を持って都に帰り、忠度の和歌の師であった俊成の邸を訪れ、その短冊を見せる。その短冊に旅宿の花という題「行暮れて木の・・宿とせば、花や今宵の宝ならまし」と書いてあった。俊成はその文武両道に勝れたの惜しみ厚く成仏を祈る。
京都市
俊成は、左京五条四坊十三町(寺町通松原北西角)に住んでいましたが、治承四年(1180)の火災で焼きだされ、「新玉津神社」のある烏丸の俊成屋敷に移り、建久3年(1192)に戻ってきています。五条京極の家(寺町松原)が、息子の藤原定家(百人一首選者)共々暮らしていた本来の住居です。烏丸の屋敷で暮らしていたころの寿永2年(1182)7月、平家都落ちに際し、平忠度が五条の二位藤原俊成の「五条の宿所」を訪ね、自詠の歌集を託した。この地の新玉津神社は、俊成が紀州和歌の浦から自邸内に勧請し、和歌の守護神として祭祀したのだと伝わる。邸宅跡はもとは民家の中にあったが、烏丸通の拡張によって今は歩道に接している。毎年11月28日の忌日には、俊成の画像と稲荷大明神の軸をかかげ、町内の人々によってお火焚祭が行われる。
俊成の墓は南明院山にある。
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