松原通の歴史
「松原通」は「平安京」造営のときは道幅24メートルの「五条大路」でした。「牛若丸と弁慶」でおなじみの五条大橋は今の「松原橋」となります。「清水寺参詣の人々は五条の石橋を渡っていく」とありますから、当時から賑やかな場所だったようです。鴨川の中州には「大黒堂」があったらしく、橋も今のような立派な一本の橋ではなく広い河原の中州から中州へ飛び飛びに掛かっていたようです。橋を渡って東へ行くと鳥野辺(葬送の地)入口には珍皇寺があります。そしてそして彼方には清水寺。平安末期には六波羅一帯は平家一門の住まいとなります。我々が思い浮かべる立派な「五条大橋」は室町期以降のもののようです。秀吉が京都大改造をする以前の鴨川に掛かる大きな橋は五条橋だけだったようです。
京都の三大祭り(時代祭が始まる以前は「葵祭」、「祇園祭」「稲荷祭」)の2つまでがなぜ松原通を通っていたのでしょうか 平安時代中期、祇園社と稲荷社との氏子区域が曖昧で五条大路(松原通)をはさんで両社の争いが絶えませんでした。それほどに五条大路は大切な道路であったようです。この争いは深刻な問題となり時の天皇の決裁を仰ぐこととなり綸旨(りんじ 天皇の言葉)で両社の境界が定められたそうです。今も松原通に面する町内では北側が祇園祭、南側が稲荷祭の氏子です。昭和30年頃までは、松原通の方々は両方の祭を楽しまれました。これをお互いに「もらい祭」と呼んでいました。
前回の まち歩き 記事 ➡ まち歩き下0044 炭屋さん