人康親王御墓
大阪皇陵巡拝會
せきれい仁明天皇の第4皇子人康親王は、
天安2年(858)28歳のとき、両眼をわずらって失明された。
翌年出家入道して山科の地に隠栖し、
貞観14年(872)5月5日、42歳で亡くなったと伝わる。
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揚柳山と号する本山修験宗、聖護院門跡の末寺である。
平安時代の859年、仁明天皇の第4の宮、人康親王を開山として創建され、この辺りが「四の宮」と呼ばれる所以となったといわれている。また、「泉水町」という当地の町名は、その頃、ここに大きな泉があったためとも云われている。
更に、人康親王の庵が山科御所と呼ばれていた名残りが、京阪電車の四の宮車庫の辺りを「堂後町」、当地の南を「垣の内町」及び「南河原町」という町名に見ることができる。
度々の戦火により荒廃したが、元和年間(1615~24)江玉真慶によって再興され、1655年、霊夢を見た明正天皇によって再興された。明正天皇は後水尾天皇と東福門院の第2皇女で、当寺の本尊である聖観世音菩薩に特に信仰が厚く、遺言により、自身及び父母の位牌が当寺に安置され、脇侍に不動・毘沙門天像および明正・後水尾両帝の位牌を安置している。菩提寺勅願所として36石の禄と数々の宝物が下賜された。境内の東北隅の木の下に、開山人康親王の廟があるほか、宮中に代々伝わり、人形の原形といわれている天児、愛玩の人形這子、天皇直筆の文書である宸翰、庭石の短冊石などを蔵している。また、毎年11月3日には本山の御親修により、天下泰平・家内安全所願成就の御魔法要が行われる。京都市
仁明天皇の第4皇子人康親王は、天安2年(858)28歳のとき、両眼をわずらって失明された。翌年出家入道して山科の地に隠栖し、貞観14年(872)5月5日、42歳で亡くなったと伝わる。
1991年から1年かけて大改修された。梵鐘は第2次大戦の末期に供出してしまい、今はない。
大正元年8月 建立
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