アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き伏0286  伏見城築城につかわれていた石

2016年12月03日 12時10分30秒 | まち歩き

 

 

 

 

関連記事 伏見城築城の石 ➡   神社伏0076-3 御香宮神社3  道標 車石 東参道

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き伏0285  伏見の名水 10選

 

川柳

 

記念日を勝手に決めて酒をのむ   /福尾

 

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道標伏0078  明治天皇陵  昭憲皇太后陵

2016年12月03日 09時57分45秒 | 道標

平成8年3月 建立

 

道標 前回の記事  ➡  道標伏0077  西福寺 道標

 

川柳

デザートの味だけ残るフルコース   /どんぶらこ

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まち歩き伏0285  伏見の名水 10選

2016年12月03日 09時22分09秒 | まち歩き

 

清和の井(せいわのい)  清和荘内

板橋白菊の井戸(いたばししらぎくのいど) 伏見板橋小学校内

金運清水(きんうんしみず)  大黒寺内

伏水(ふしみず)  黄桜酒造本店蔵内

閼伽水(あかすい)  長建寺内

不二の水(ふじのみず) 藤森神社内

常盤井水(ときわいのみず)  キンシ正宗内

御香水(ごごうすい)  御香宮内

白菊水(しらぎくすい)  鳥せい本店横

さかみづ     月桂冠大倉記念館内

 

 

 

関連記事  ➡  名水を訪ねて  京都の地下には大きな貯水層がある 

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き伏0284  民家 和風 工夫されている

 

川柳

店員にいばってみてもえらくない   /正道

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寺院伏0235  本教寺  日蓮宗  洛陽十二支妙見めぐり 午

2016年12月03日 08時27分40秒 | 寺院

 

 

 

文禄3年(1594)、日親上人の法孫日受上人が創建した福昌山と号する

日蓮宗本法寺派の寺で、徳川家康の息女良正院(高姫)の帰依をうけ、

慶長19年(1614)旧地の西浜町より移った。

 

洛陽妙見十二支めぐり の七番 午の寺である

境内の妙見堂は「開運どころ」とよばれ、岡山藩池田輝政公が守護神とした北辰妙見をお祀りしています。約40㎝の木像です。輝政公の奥方督姫(徳川家康の次女)が天然痘で苦しんでいたとき、当寺の開山日受上人の祈祷で平癒したという霊験談が伝えられ、開運除厄・旅行安全・家内安全などお参りが絶えません。

ここは、御所から南の方角にあたるため午年生まれの守護神でもあります。

 

 

また境内には痔疾平癒祈願の秋山自雲霊神を祀る。右にある小さな祠

 

本堂は享保年間(171636)、近衛家の寄進によるものといわれ、入母屋造り、千鳥破風、唐破風の豪壮な建物で、庭内には豊公遺愛とつたえるみごとな牡丹がある。

 

 

  嶋津前式部頭龍雄之墓  と判読したのですが

明治5年正月21日

関連記事  ➡   お寺・神社めぐり02  洛陽12支妙見めぐり

痔疾平癒祈願の秋山自雲霊神  ➡ 人物024 秋山自雲

                                     頂妙寺  にも祀られています 由来書きあり

寺院 前回の記事 ➡  寺院伏0234 大光寺  浄土宗  四面石仏

 

川柳

 

痴漢出てふれあい広場の名が変わる /桐山

 

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寺院伏0234 大光寺  浄土宗  四面石仏

2016年12月03日 07時14分06秒 | 寺院

 

 

徳川家傳役 青山伯耆守屋敷跡

 

伏見即成院 大光明寺 ゆかり

大光寺は、鎌倉時代の文応元年(1260)浄土宗の開祖法然上人より六代孫弟子の空蔵坊寛海上人により開基されました。 開基当初の寺名は「大光明寺」で、即成院村の地(現在の伏見桃山町松平武蔵)にあって、のちに文和年中(1352~56)廣義門院西園寺寧子(後伏見天皇の女御)が、南西の地一帯(現在の桃山町泰長老)に新たに伽藍を拡張します。以後、臨済禅僧の入寺により拡張後の大光明寺は禅刹となっています。

そして、松平武蔵の元寺は大光明寺の塔頭となり「宝厳院」と称し、室町時代の一時期に伏見殿(伏見御所)が焼失したために、栄仁親王(伏見宮家初代)やその子貞成親王により伏見殿仮御所となっています。応仁の乱では、大光明寺も荒廃の時期がありましたが、文禄の頃、豊臣秀吉により同地に指月伏見城が築城されています。(その後焼失、明治時代になって、相国寺山内の「心華院」を「大光明寺」として再興)

文禄元年(1592)大光明寺の相国寺移転に際して、宝厳院に中興荘蓮社厳譽上人が入寺。本山を浄土宗黒谷金戒光明寺に定め、嘗ての寛海上人の浄土系大光明寺の法統を引き継ぎ、寺名も「大光明寺」から「明」の一字を削った「大光寺」と改名。山号を「藤澤山(とうたくさん)」とします。

慶長・元和年中には、大光寺の末寺も増え中本山格となっていきます。徳川家光の伏見城での将軍宣下とその後の伏見城廃城を機に、寛永元年(1624)伏見奉行小堀政一(遠州)により、現在の地の伯耆町(徳川家傳役 青山伯耆守屋敷跡)を替地として拝領。翌2年(1625)円蓮社頓譽上人代に、旧来の地に塔頭一寺を残し、精舎を現在の地に移転しています。残った松平武蔵の塔頭寺院は、しばらくは「大光寺」のままでしたが、その後嘗ての「宝厳院」の名に因んで「宝円寺」と改名。大光寺末寺となっています。

寛永期からの大光寺の伽藍配置は天明7年(1787)の『拾遺都名所図会』からも窺がえますが(図参照)、江戸時代は境内で縁日や富蔵(東山大仏や松尾大社の興行)が行われ、明治時代には勧進の京都相撲の興行ども行なわれておりました。境内東側の薬師堂は、天明7年に知恩院宮御門跡の旧御殿を拝領し再建され、五代尊峰法親王と6代尊超法親王のお位牌をお祀りしています。(七代尊秀法親王は後に「華頂宮」を創設)同天明期には、大光寺の住持が伏見奉行小堀政方の悪政に悩まされ、伏見義民一揆を喚起する一要因となるような事件もありました。一方、大光寺を菩提寺とする伏見奉行所の与力方もあり、その中には幕末に新選組の一隊士の凶刃によって絶命した与力もおられます。旧本堂は老朽化のため平成元年に全改築しています。現在の当寺の本山は、東山の華頂山にあります浄土宗総本山知恩院であります。

 

境内の薬師堂に安置する薬師如来像は、もと奈良三笠山の薬師寺より移した「手接の薬師」といわれる尊像で、耳の病気や安産祈願の信仰がある。他に日限地蔵や庚申堂があり、庫裏の中庭に四面石仏(室町)がある

日限地蔵尊

 

寺院 前回の記事 ➡   寺院伏0233  妙福寺  日蓮宗

 

川柳

隣人を愛せと柿の木が伸びる   /菱木

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