さらに 5分ほど進むと 弘法の滝に着きます
案内標識 ➡ まち歩き伏0304 東山トレイル F33 深草トレイル③
道標 ➡ 道標伏0083 青木ケ瀧道 稲荷山 山麓
祠 前回の記事 ➡ 祠伏022 七面大天女 宝塔寺 七面瀧
川柳
名が出ない 「あれ」「これ」「それ」で 用を足す /柴田
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さらに 5分ほど進むと 弘法の滝に着きます
案内標識 ➡ まち歩き伏0304 東山トレイル F33 深草トレイル③
道標 ➡ 道標伏0083 青木ケ瀧道 稲荷山 山麓
祠 前回の記事 ➡ 祠伏022 七面大天女 宝塔寺 七面瀧
川柳
名が出ない 「あれ」「これ」「それ」で 用を足す /柴田
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左 東丸大人墓道 と記されている
道標 前回の記事 ➡ 道標伏0083 青木ケ瀧道 稲荷山 山麓
川柳
ワイドショー事件の手口みな教え /堅
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青木ケ瀧道
19年11月 吉
青木ケ滝 ➡ 祠伏023 青木ケ瀧 弘法の瀧
道標 前回の記事 ➡ 道標伏0082 深草真宗院 深草トレイル⑧
川柳
ベビーカー孫に大根持たせとく /エリッ句
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1 ポスター0042 伊藤若冲 京都市美術館 10月4日~12月4日
6 石峰寺 まだ
7 相国寺 まだ
京都の生んだ江戸中期の画家伊藤若冲の墓は、現在2ケ所ある。1つは若冲が明和3年(1766)11月、51歳のとき相国寺に建てた寿塔で、位牌型の墓石の表面に「斗米庵若冲居士墓」、背面に相国寺の硯学大典禅師の撰文になる銘文が細かくしるされていて、若冲伝の根本資料となっている。
若冲は享保元年(1716)中京区錦小路高倉の青物問屋「桝源」こと伊藤源左衛門の長男として生まれた。幼少の頃から画を好み、23歳のとき、父の死によって家業を継いだが、商売は苦手であった。墓碑銘に「ただ画をかくのを好むのみで、他は何もできなかった」とある。それで狩野派の画を学んだが、いくら上達してみても、狩野派の画法を模倣するだけだと考え、宋・元の中国画の模写を試みた。しかし、これも到底手本におよぶべくもなく、昔の人物や遠境の山水もみることができないので、「物」に即して描くのが一番よいと悟った。そこで窓下に数羽の鶏を飼い、その形状を刻明に写生し、のちには草木・鳥獣・魚介の真実を描いた。世人はその妙筆に感服し、作品一点につき米一斗に替えて謝礼としたので、斗米庵と号するに至った。
宝暦5年(1755)40歳のとき、家督を次弟白蔵にゆずり、相国寺の大典禅師に帰依し、画業にも専念した。相国寺に若冲の画が多く所蔵されているのは、かかる関係によるもの。
中でも「動物綵絵」30幅(国宝)は、報恩のために寺を寄進した若冲傑作の作である。が明治になって寺が疲弊したとき、その再興資金のためにと宮内庁に買い上げられた。天明8年の大火によって家を焼かれ、晩年は深草の石峰寺のそばに隠棲し、寛政12年(1800)9月10日、85歳で没した。遺骸は石峰寺に埋葬され、10月27日相国寺にて法要が営まれた。石峰寺にある墓は、相国寺の墓とほぼ同じであるが、傍らに筆形の石碑があって、江戸末期の儒者貫名海屋撰文の「筆塚」があるのが異なっている。高さ約1.5m、周り87cm、砂岩製。その銘文によれば、石峰寺境内にある石造五百羅漢像は、若冲が下絵を描き、石工に彫らせたが、天保元年(1830)の地震に破損したので、同4年(1833)妻子のなかった若冲の養嗣子の孫清房によって修復されたいきさつをしるしている。
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