アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き伏0292  京都一周トレイル F15・F16・F17  深草トレイル⑱・⑰・⑯

2016年12月06日 17時30分41秒 | まち歩き

京都一周トレイル F15 の標識

古御香町

大岩山展望台 970m   墨染通り 400m   深草トレイル⑱

大岩山展望所 870m   京都一周トレイル F16   深草トレイル⑰

 

水たまりにうつる 木々の景色

 

大岩山展望所 600m  墨染通り  750m   JR藤森駅1600m 

京都一周トレイユ F17  深草トレイル⑯ 

関連記事 ➡ まち歩き伏0267  JR藤森駅  奈良方面行 ホーム

東山トレイル ➡  まとめ004 京都一周トレイル

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き伏0291  京都一周トレイル  F11  伏見北堀公園

 

川柳

 

他人より自分説得すると楽    /きぬた姫

 

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道標伏0079  八科峠 歌碑 車石 京都一周トレイユF13 蔵

2016年12月06日 14時51分04秒 | 道標

 

 

京都一周トレイル  東山F13

 

八科峠

右 京みち

左 六ぢぞう

 

松井市右衛門 建立

 

逢坂山  車石  セイ 

 

車石が 多数 使われています

 

 

 

浜田陽子 

1919 神戸市出生

1936  楠田敏郎に師事作歌

1992 伏見桃山正宗にて  永眠

「秋冬記」の歌集5冊あり

 

 

 

 

道標 前回の記事  ➡  道標伏0078  明治天皇陵  昭憲皇太后陵

車石 まとめ  ➡  まとめ005 車石 のあるところ

東山トレイル ➡  まとめ004 京都一周トレイル

関連歌碑  ➡  まち歩き伏0288  伏見桃山城

川柳

世界遺産地球丸ごとダメですか   /一誤一得

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人物005  黒田官兵衛

2016年12月06日 09時33分17秒 | 人物数々

 

黒田官兵衛 黒田如水 黒田孝高

1  息子  黒田長政はこの寺で亡くなった  

2  夫人  光の墓と肖像画はこの寺 

3  石碑上0039  黒田如水邸 址

4  石碑伏0082  伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地  東山一周トレイル F12


石碑伏0082  伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地  東山一周トレイル F12

2016年12月06日 06時17分05秒 | 石碑

京都一周トレイル  F12

 

 

伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地

旧山城国紀伊郡大亀谷村

 

ここ伏見区深草大亀谷敦賀町(旧山城国紀伊郡大亀谷村のうち)は、豊臣期から徳川初期まで存在した、伏見城(木幡)北堀の東端そばです。神戸市立博物館蔵の伏見城下町絵図は、この地に「黒田甲斐守」、すなわち黒田官兵衛(孝高、如水)の後継者、長政の屋敷のひとつがあったと伝えています。

豊臣秀吉は、伏見城のそばに全国の大名の屋敷を営ませました。近年の研究によれば、大名とその妻子は帰国を許されず、常住を義務付けられました。伏見城を引き継いだ徳川家康、後継者の二代秀忠、三代家光は、いずれも当城で征夷大将軍の宣下を受けています。いわば、伏見は、武蔵江戸に先立つ「武家国家の首都」だったのです。

当地近くの桃山紅雪町では、1977年の土地改良区画整理事業にともない、北西から南東方向に延長100m以上の石垣列が見つかっています。東方よりの敵から城郭・城下町を防衛する外郭ライン(惣構)の遺構だと考えられます。(現在その約15m分が市立桃山東小学校に移築、市登録史蹟)。そのような場所近くに黒田長政の屋敷跡が伝承されることはことです。

黒田官兵衛は伏見で亡くなったという伝承があります。(『寛政重修諸家譜』など)が、事実かどうか明らかではありません。かりに事実であったとしても、当地に長政や父官兵衛が居住したかどうかは分かりません。

比較的信用できる史料によると、豊臣「五大老」である徳川家康前田利家毛利輝元らの上屋敷(居住地)は、大手門に通ずる大手筋と、宇治川に架かる数少ない橋、豊後橋(現観月橋)に通ずる豊後橋通の交点(現「御香宮前」交差点)附近に存在していたといえます。この近辺には山内一豊伊達政宗佐竹義宣らの邸宅もあったといえることから、黒田父子の居所も当然この付近にあったと考えるのが自然です。これに対して、前田毛利、そして同じく「五大老」の上杉景勝らの下屋敷が、城下町外郭(惣構)付近に存在していたことを思い起こすと、当敦賀町の屋敷も下屋敷である可能性が指摘できます。居所ではなかったかもしれませんが、当地も何らかの形で黒田父子が出入していたかもしれません。伏見が豊臣期から徳川初期の天下人の最重要地であることを示すために、黒田官兵衛・長政父子の由緒参考地に建碑し、顕彰いたします。

主な参考文献 日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣2001年 2014年(平成26)8月 歴史地理史学者 中村武生

                    

 

 

石碑より 南方向の様子

 

関連記事  ➡  まとめ004 京都一周トレイル

黒田官兵衛居住地  ➡  石碑上0039  黒田如水邸 址

石碑 前回の記事  ➡ 石碑伏0081  伏見銀座 跡

 

川柳

ゴキブリの死亡1位はスリッパで   /パラ

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