ちょっと 何が記されているのか 判読できない
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道標 前回の記事 ➡ 道標伏0084 左 東丸大人墓道
川柳
介護して ふたたび芽生える 夫婦愛 /西村
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史蹟 荷田東満 舊宅
旧宅・この建物は国の史蹟に指定(大正11年3月8日)された荷田春満の旧宅である。春満は、寛文9年(1669)に稲荷神社(現伏見稲荷大社)祀官荷田姓御殿預(ごてんあずかり)羽倉信詮(はくらのぶあき)の次男として生を受け、広く国学の発展に奔走した。江戸時代中期の国学者「国学四大人」の一人であり、始祖と仰がれている。この旧宅は春満生家の一部で、書院・神事舎・門・塀など旧態を留めている。
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墓 道 ➡ 道標伏0084 左 東丸大人墓道
道標伏0085 まだ
史跡 前回の記事 ➡ 史跡山017 粟田口刑場跡
川柳
ジャングルで暮らせば変わるエライ順 /宮本
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平成28年5月12日 撮影
伊根湾 右の島は青島 左に舟屋群
中央が 青島
右の方に 舟屋群
養殖 いかだ
青島の手前に 遊覧船がいます
青島
舟屋
観光船 がやってきました
ほとんどの人が 屋上デッキで見物しているようです
保存地区の建物の数
建造物 (主屋・舟屋・土蔵など 432件)
工作物(石段など 5件)
環境物件(樹木など 15件)
保存状況
若狭湾に面した伊根湾は、日本海側は珍しく南に開けた静かな入り江であり、東、西、北の三方を山に囲まれている。
伊根湾と日本海の接するほぼ中ほどに、自然の築いた防波堤のように緑濃い青島が浮かんでおり、伊根湾の入り口を二分している。しかも、伊根湾の三方を囲んでいる急傾斜の硬い岩山は、そのまま海に落ちて深い淵をつくっており、波をおこしにくい地勢を形成している。また、伊根湾においては潮の干満差は極めて小さく(年間50cm程度)、静穏度の高い天然の良港といえる。
およそ350世帯で構成される伊根湾の集落は、延長5kmにおよぶ伊根湾の海岸沿いに連続して細長く形成されている。
伊根湾を特長付けるのは、海岸沿いに連続する舟屋群であるが、明治13年(1880)より昭和25年(1950)までのブリ景気によって、その多くが瓦葺二階建てに建て替えられた。また昭和6年(1931)から約10年の歳月を費やして行われた府道伊根港線の拡張工事は、総延長約5kmにわたって幅員4mの道路を主屋と舟屋との間に敷設するものであり、これによってそれまで主屋と近接して建っていた舟屋や土蔵が海側へと移設され、多くの舟屋が二階建てに変わっていった。しかしながら、その規模や形態については伝統が維持され続けてきた。それ以後は大きな変化も無く、同形態・同規模で連続性のある舟屋群の景観が継承され、現在でも約230棟の舟屋が伊根湾の海岸沿いに連続して建ち並び、歴史的風致を形成している。
舟屋や主屋等からなる江戸末期から昭和初期にかけての伊根湾の町並みは、伊根湾や青島及びこれらを囲む漁付林という周辺環境とあいまって独特の歴史的景観を今日に伝えている。
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0306 外国人に人気NO1 観光スポット 国内3年連続第一位
川柳
身の上を聞いてみたいな迷い猫 /セビル
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1 史跡伏見018
2 道標
3 道標
旧宅・この建物は国の史蹟に指定(大正11年3月8日)された荷田春満の旧宅である。春満は、寛文9年(1669)に稲荷神社(現伏見稲荷大社)祀官荷田姓御殿預(ごてんあずかり)羽倉信詮(はくらのぶあき)の次男として生を受け、広く国学の発展に奔走した。江戸時代中期の国学者「国学四大人」の一人であり、始祖と仰がれている。この旧宅は春満生家の一部で、書院・神事舎・門・塀など旧態を留めている。
寛文9年(1669)伏見稲荷社社家の二男として出生。新井白石、荻生徂徠はほぼ同時代の人。29歳から2年間妙法院宮にめしかかえられる。歌道師範としてだともいう。32歳、第1回の江戸行き。14年間いた。45歳でいったん帰郷後、同年再び江戸へ。このころようやく名声四方に及び、各地からの入門者があったほか、越後長岡藩主が招こうとしたが、彼はことわった。54歳。幕府から和学について質問を受け、以後一種の和学顧問となる。またこの年、江戸と京の往来の途次、浜松で賀茂真淵を知る。これより後58歳で病に倒れるまでに「万葉僻案抄」「伊勢物語童子問」などほとんどの主著を著す。65歳、真淵入門する。68歳死去。
伏見稲荷大社を訪れると、大きな朱塗りの楼門の脇に堂々たる門構えの、閑静そうな家がある。公家か武家の門かと見まがうほどどっしりした門は、年月が加えた渋い落ち着いた色合いをたたえ、参詣客や鳩の泣き声でにぎわう境内でそこだけがひっそり静まりかえっている。これが国学者荷田春満の旧邸である。江戸遊学後の晩年に建てて住んだものだ。賀茂真淵もここへきて春満から「日本書紀」や「万葉集」のあれこれの伝授を受けたはずである。春満から真淵へとたどれば、いわば伏見稲荷のこの地こそ国学思想の発祥の地ということになる。
荷田春満はおそらく生涯、師というものを持たなかった。ほとんど独立独歩で、当時およそ誰かえりみるものもなかった国学という学問を築き、単身江戸へ乗り込んで、ついには常軍家にもとりたてられるまでに至った。たんなる学者ではなかったというべきであろう。後年、弟子真淵が江戸へ出て盛大な門弟に囲まれ、国学を儒学に対抗する一大学問までに仕上げることができたのは春満とその養子在満の地ならしがあってのことだ。ちなみに彼の肖像は、茫洋とした真淵とは対照的に、武張った気迫にみちた顔つきである。武将の顔といってもよい。新しい学問思想の創始者としてこの顔のとおりに彼は師をも頼まず、独力で生涯を邁進したものに相違ない。
春満は荷田家の悲願が生んだ人物ということができる。彼の家は奈良時代以来、代々伏見稲荷に仕えてきた、といういい伝えをもつ由緒ある神職家である。学問的雰囲気の濃厚な家系で、家には荷田家だけで守り伝えてきた万葉学、日本紀学、国語学とでもいうべきものがあり、加えて歌には特別な誇りがあった。というのは春満から数えて5代前の荷田信次という者が、歌人天皇として著名だった時の後陽成帝、自作の歌百首を添削してもらったことがあった。これが帝じきじきの歌作の指導というわけで、以後荷田家は後陽成帝の弟子を自認して、春満も春満の父も、当時の歌の道を行くなら公家歌人につくのが習いだったものを共に無視して、がんとして弟子入りしなかったほどだ。弟子入りどころか、後陽成院流荷田派とでもいうべき歌風を興す意気でさえあった。
いずれにしても荷田一門の人々は、先祖代々に語り伝えた自家独特の学問、歌を大変誇りにし、これが長い間家伝のみにとどまって世に広く行われないのを実に残念なこととしてきたのである。時に世をあげて儒学と仏教の時代だった。日本の古典はかえりみられず、神官家といえども幕府政策による寺請制度に組み込まれて、もうひとつさえない存在においやられていた。春満を始めとする誇り高い荷田家の人々の間には、彼ら一門の家名がパッとしないのは、こういう時代風潮のせいだという思いは秘かに抑え難いものがあったであろう。春満がのちに儒教に対抗して国学を押し立てる土壌はここに用意されていたのである。
一家の期待は早くから彼の上に集まった。久し振りに現れた荷田家再興のチャンピオンとしう感じがあったようだ。春満全半生の資料はまことに乏しいのだが9歳のとき、ちょっとした歌を詠み、これが家の自慢となって今に伝わっているのをみても、およそのことは知れるのである。「われこそは・・・」
し自負と使命感に燃えていたことは確かである。
かくて32歳で江戸へ出る。稲荷神道と後陽成帝直伝を看板に弟子をとり、出張講義や歌会を精力的に開き、盛んに荷田学を売り出した。無名に加えて、なんのつてもなかっただけに、初め数年は随分苦しい生活を余儀なくされたが、気概はそれをはるかに上回り、のちにはついに名声幕府にも聞こえて、将軍家から国学についての質問を受けたり、国書の鑑定を依頼されるまでになっている。
この間の春満に、市井宣伝家の風貌を見る人もいる。儒学一辺倒の世の中で、人々に国学への関心を呼び覚ますだけでも必要以上の活動を要したのだろう。創始者の余儀ない宿命である。ともあれ、ついに将軍家と接触するに至ったとき、荷田家の喜びたるや大変なもので「実に信盛(春満)秀才之功、一家之面目大慶之至極」「古今未曾有之手柄」で親族一同の歓喜これに過ぎたるものなく、感涙しばしやみ難く、と実弟の日記にみえる調子である。彼に寄せられていた期待のいかに大きかったか、目に浮かぶようだ。
通常、国学の流れは契沖、春満、真淵、宣長とたどられる。契沖は厳密な文献学的方法を古典研究に導入して、むしろ国語学的、歌学的な面における国学の創始者といってよいのに対して、春満はイデオロギー的側面における創始者の役目をはたした。即ち儒教、仏教も結構だが、日本には日本古来の道というものがあるではないか、と強くいい出したのである。
彼の考えを最もよく示すものとして「創学校啓」というのがあるが、この中で彼は「今や儒仏の教えのみ普及して、日本古来の道の教えは忘れさられている。神道和歌を講じる者でさえ考えを儒仏の教えに犯され、古人の真意を伝えていない。このままでは日本古来の道は消えてしまうだろう。」という意味のことを述べている。
ただ彼自身は、ではなにが日本古来の道かということについて、突っ込んだところまで考えなかったようだ。多くの彼の学問は未完で終わったといわれるが、それは力の充実した壮年期に多分に宣伝に力をいれなければならなかったのと、50代半ばになって最終的に稲荷に落ち着き、雑用から解放されていよいよ学の大成を、いうときに病に犯され、68歳で亡くなるまで病がちだったせいでもある。志半ばで倒れる思いはやはりやみ難かったであろう。「見る者はのこり多くも年くれて我よふけゆく窓のともし火」の歌を詠んでいる。しかし彼のまいた種は、真淵に至って見事に実を結ぶのである。
伏見稲荷社に頼んで春満遺邸を上らせてもらった。床の高い清々しいほど簡素な素木造りの書院式住居である。フスマを取り払えば、そのまま家全体が講義室になる。東隣が東丸神社である。春満は学問の神として明治になってまつられた。荷田家の子孫が今も神社を守り、合格祈願の受験生たちが一代の学者春満にあやかって学力向上を一心に祈る姿が見られる。
参考・「京の思想家散歩」
荷田を魅了したのは万葉集であり、日本書紀や伊勢物語であった。こうした古典のなかに民族の血をかいだ荷田は、幕府の朱子学に激しい抵抗を感じたと史家はみる。
荷田の仕事で特筆するのは、古学普及のための倭学校設置運動。これを東山に建設することを訴え陳情書「請創造倭学校啓」を享保13年に幕府を提出している。実を結ばぬまま元文元年(1736)、68歳で亡くなっている。
墓は、自然石の墓石の表面に「荷田羽倉大人之墓」としるされている。在ノ山墓地
石像 五百らかん
百丈山石峰禅寺
百丈山と号し、黄檗宗に属する。当寺は平安中期の武将源満仲が摂津多田郷にひらいた石峰寺が起こりといい、本尊薬師仏の夢告により、慶長の頃に京都因幡堂に移し、次いで五条橋東の若宮八幡宮のほとりに堂を建て、石峰寺と号した。宝永年間(1704~1711)、万福寺の千呆和尚の創建と伝えられ、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、大正4年(1915)、昭和54年(1979)に火災で焼失している。現在の本堂は昭和60年に再建されたものである。本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは、江戸時代の画家伊藤若冲が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ「茶碗子の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。京都市
石仏五百羅漢像
本堂背後の山中にある。石造釈迦如来像を中心に十大弟子・五百羅漢・禽獣魚鳥などを配し、釈迦の誕生より涅槃にいたるまでの一代をあらわしている。この石仏は伊藤若冲が当寺七代密山和尚の協賛を得て下絵を描き、安永の半ば頃より天明初年まで前後10年余をかけ、石工につくらせたものとつたえる。江戸時代の作ではあるが、その表情はいずれも奇抜軽妙、一種の洒脱味があって、見るものをほほえませるものがある。洛西五智山の石仏群とともに京都市の石仏群の代表である。
伊藤若冲墓
墓石の表面に「斗米庵若冲居士墓」としるし、その右に貫名海屋の撰文になる筆塚がある。
若冲は京都の生んだ江戸時代中期の画家で、中京区錦の青物問屋に生れたが、幼少より画を好み、狩野派の画を学び、中国の古蹟をまね、光琳の図案風の筆致をとり入れて人物山水花鳥画をよく描いた。とくに鶏の画を得意とし、鶏の画を求める人は白米一斗を謝礼としたから、斗米庵と号した。市井の生活を嫌い、晩年は石峰寺の古庵に閑居し、清貧のなかにあって悠々画筆に親しんだ。寛政12年(1800)9月10日、85歳で没した。相国寺にある墓は生前につくった寿塔である。
伊藤若冲 ➡ 人物008 伊藤若冲 ゆかりの地
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川柳
貧富の差ほどには違わぬ寿命の差 /さいたま
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