1 墓がある 寺院中0067 誓願寺 浄土宗西山深草派
3 寺院伏0238 真宗院 浄土宗西山深草派 山脇東洋の墓所
4 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)
5 弟子 石碑 名医 吉益東洞 宅蹟
山脇東洋
東洋が人体解剖を実行したのは宝暦4年(1754)だから「解体新書」の杉田玄白らの解剖に先立つこと17年。もちろん日本最初である。コロンブスの卵を持ち出すまでもなく、何事にしろ世に初めて手がけるということは大変なことだ。しかも東洋がやったのはただの冒険ではない。自分の体でさえ傷つけてはならない。゛身体髪膚これを父母に受く゛の時代に、あえてその精神的タブーに挑戦したのである。解剖報告書「蔵志」(ぞうし)は「刀をすすめ肋間の白膜を決し・・・直骨にあつまるのを截つ」と屍を切り刻む刀の動きを克明に追っている。しかし刀が切ったのは実は屍でなく、医術を暗黒に閉じ込めていた妖怪ではなかったか。そうでなければこのおそろしい大業に挑んだ東洋の勇気は納得しがたい。
解剖への意欲のきざしを、東洋は「蔵志」で「少小より力圭(医術)の業を修め・・・講究熟読の間、大疑ひそかにきざす」と書いている。大疑とは、人体の内臓はどうなっているのかという疑問であり、結局は五臓六腑とそれを盲信してきた医学への疑問である。当時の医学は、人体は肝、心、脾、肺、腎の五臓と胃、小腸、大腸、胆、膀胱、三焦の六腑からできていると考えていた。また体の表層には12本の経路(道)があり、病はこの道から侵入いるとされた。さらに木、火、土、金、水の五行や十二支などを組み合わせて診断の手段とする中国の金・元時代の瞑想的な医学も幅をきかせていた。東洋の大疑は、この訳のわからぬ医学への切り込みの第一歩であった。一方、儒学の世界では、既成の権威に対し新機軸を打ち出す思想がすでに橋頭保を確保していた。孔子よりも朱子を尊敬する朱子学者を批判し、失われた孔子を求める古文辞学を説いた徂来学の台頭である。近代合理主義のさきがけといわれる徂来学が瞑想的な医学に大疑を抱く東洋を魅了したことは当然である。徂来の門人・山県周南やその弟子・滝鶴台とも親交を結び、徂来の実証精神を着実に学び取ったのである。
実行の第一歩は医学の師・後藤艮山に教えられたカワウソの解剖だった。カワウソの内臓は人体のとそっくりだということで、それまで幾多の医者を満足させたはずだった。しかし東洋だけは満足しなかった。「独り怪しむ、いわゆる小腸なるものを見ず」「うっ陶梗塞することここに十有五年なり」。カワウソでは本当のことはわからない。と十五年も怪しみ続けたのである。15年待って、ついに人体解剖のチャンスが訪れたのは、49歳のときだった。すでに24歳で宮中に仕える法眼の位を得ていたが、その後も治療の実績をあげたほか、他の医官がきらった娼姑の治療を率先して実行、また唐時代の医書「外台秘要」を復刻するなどで、今や彼の名声は市民や医者の間に鳴り響いていた。その名声を東洋はあえて人体解剖の冒険にかけたのである。死体の損傷を極度に忌避するのは日本人の生れながらの感情であり、古来から律令や不文律で禁じられてきた。名声と幸福な生涯をかけるにはあまりにも危険な試みである。刑死体解剖願を、京都所司代で小浜藩主の酒井忠用に提出したのは、やはり小浜藩の医者で東洋の゛同志゛である小杉玄適ら3人。東洋は黒幕である。許可を決意したのは忠用の英断はたたえるべきだが、東洋自身は「幸いに文明の運に遭遇し」と書いている。
所は六角獄舎の刑場。ムシロに横たえられた首なし死体の横に東洋ら4人が座った。小刀を持つのは雑役である。
小刀が屍の胸を走ると、ばらりと肋骨が現れた。「椽(たるき)の梁(はり)にあつまるがごとき」と「蔵志」は感動の序章を綴る。刀はずんずん進み、肋骨が切り取られた。「豁然としてみるべし。気道前に在り、食道後に隠れる」これだけでも当時の大発見であった。しかし原色の肉塊は東洋の緊張を強い続けた。雑役が肺をつかみ出し、気管からふうと息を吹き込む。「即ち両肺皆怒張す。」胃が出、腸が出た。膀胱は「上、腸に連なり、下横骨に隠る。これを圧すれば尿ほとばしり出ず」
しかし、不思議なことに、東洋の永年の疑問の1つだった小腸の有無について「蔵志」はふれていない。おそらくは見落としたのであろう。
東洋には、事物の本質さえつかめば細事は大して問題ではないとする性格が強かったようだ。門弟の永富鳳が、東洋が家宝並みに大切にしていた器を手からすべらせ割ったとき、東洋は顔色一つ変えず許した話がある。また後に名医となった吉益東洞が人形売りをしていたころ、東洋の官患者を押しかけ診察したが、その処方を東洋は感心して採用した話もある。小腸を見落とすぐらいどうでもよかったのであろう。
細事を捨てて、東洋が解剖体に見たものはなにか。「手足経路の説はその妄なること知るべし」である。そして既に見ていた西洋の解剖図と目の前の屍の内臓が見事に同じであること。即ち「実を踏むもの、万里、符を同じくす」の論理であった。屍を断つ刀で同時に、千年にわたって医界を瞑想の世界に閉じ込めていた妖怪を切った東洋は、晩年まで実証の大切さを説き続ける。案の定、屍を傷つけたことへの批判が各界から上がったが、新医学への道はもはや敷かれたも同然であった。解剖に同席した小杉玄適は江戸へ走り、杉田玄白に興奮を伝えた。「解体新書」着手の端緒となるのである。東洋は深草の真宗院に葬られたが、墓は本山である新京極の誓願寺にもある。
山脇東洋 宝永2年(1705)、丹波・亀山の医師清水東軒の三男として生まれた。学才をかわれ、京の医師山脇玄修の養子となり業を継ぐ。当時の非科学的医学にあきたらず、後漢の医書「傷寒論」を研究して実地に応用し、゛親試実験゛をめざす古医方の4大家の一人とされた。東洋が解剖した刑死体の男は東洋らの夢を覚ましたとして夢見の戒名ょ与えられた。今の大学で行われる解剖体祭はこれを始まりとする。宝暦12年(1762)没。