京都市伏見区深草坊町4
寺院伏0344 瑞光寺 日蓮宗
深草山と号する日蓮宗の寺である。この地は、もと極楽寺薬師堂の旧跡で、応仁の乱により荒廃していたが、明暦元年(1655)、元政上人が日蓮宗の寺とし、瑞光寺と名付けたといわれている。
上人は、京都に生れ、俗名石井吉兵衛と称し、元和9年(1623)一条戻り橋付近で生まれた。13歳のとき彦根藩に仕えた武士であったが、生まれつきからだが弱く、26歳の時、妙顕寺の日豊上人の弟子となり、明暦元年(1655)に出家してここに草庵を建て、父母を引き取って孝養に務め、学者、文人、又は孝子として知られるようになった。とくに元政の孝心は名高く、好きな連歌会に誘われても、夜遅く帰宅して老母の安眠を妨げることをはばかり、出席を断っていた。常に法衣を脱がず、きびしく身を律して勤行につとめ、多くの人々が信服した。著書「草山集」が有名。寛文7年(1667)12月、母親の死の2か月後に寛文8年2月18日、46歳で没した。上人の墓は、境内の西隅にあり、遺命によって竹を三本立てただけの簡素なものである。本堂寂音堂は、丸みを帯びた萱葺屋根の建物で、寛文元年(1661)に建立されたものである。堂内に安置する本尊釈迦如来座像は、中正院日護上人の作で、胎内に法華経一巻及び五臓六腑を形作ったものが納められている。熊沢蕃山、石川丈山、清国の人陳とも親交を結んだ。毎年3月18日には「元政忌」が行われ、上人の遺品等が公開される。水戸光圀は西国巡礼と途次に当寺に立ち寄っている。京都市
弁財天 帝釈天
鐘楼
本堂 上人在世当時の面影をそのまま伝える
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五七五
和牛なら霜降りだけどこのアタシ /久
ことわざ
石に布団は着せられぬ(いしにふとんはきせられぬ)
類・孝行したい時分に親はなし
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