正しくは「深草北陵」といい、陵内に一宇の法華堂を建て、後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成の十二帝および栄仁親王(崇光皇子)の遺骨を奉安する。
いずれも鎌倉時代から室町・桃山時代にわたる天皇で、かくも多くの天皇が一ケ所に奉葬されているところに当時の後室の衰微を物語っている。
古くは「深草法華堂」といい、はじめ後深草、伏見、後伏見の三帝を葬ったが、真宗院の荒廃後は御陵のみが残った。そこで正平7年(1352)頃、上京区新町頭にあった持明院の持仏堂安楽行院(一に安楽光院)をこの地に移し、御陵の管理にあたったが、それも中世以降の兵乱に寺は廃滅し、御陵もまた荒廃するに至った。江戸時代には「仙骨堂」または「御骨堂」ともよばれ、わずかに御陵の形をとどめていたが、寛文2年(1662)僧空心契仲が名刹の衰滅を歎き、安楽行院を再興して御陵の管理にあたった。その後、明治27年(1894)御陵の修治にあたり、寺は東山泉涌寺へ移され、御陵は宮内庁の管理となった。
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