京都市伏見区深草直違橋2-438-1
親鸞聖人御旧蹟 玉日姫君御廟所
九条関白兼実公遺蹟
元法性寺小御堂 西岸寺
寺伝によれば、ここは平安時代の末、当時の関白であった藤原忠通(1097~1164)が建てたと伝えられる法性寺の小御堂が建っていたところで、忠通の子、九条兼実(1149~1207)もことのほかこの地を愛で、花園御殿とも呼ばれた。後白河法皇もしばしばこの地に御幸されており、後に法皇の御製にちなんで西岸寺と号した。現在は浄土真宗本願寺派に属している。親鸞聖人(1173~1263)は六角堂で救世菩薩より夢告を受けたことから、兼実の娘 玉日姫を妻として迎えたと伝えられる。しかし、承元元年(1207)この地より越後に流され、以来、玉日姫はこの小御堂を守り、親鸞聖人の安否を気遣いながらここで亡くなったという。その後、玉日姫に仕えていた田邑光隆(有阿弥1176~1269)は親鸞聖人の弟子となり、九条家より小御堂の寄進を受け、西岸寺を開き、玉日姫のお墓を守ったという。本尊は阿弥陀如来像、祖師前には親鸞聖人絵像とともに玉日姫の木像が安置されている。寺宝には親鸞聖人作の草鞋竹杖御尊像や九条兼実の木像などがある。玉日姫の木像は救世菩薩と同じ如意輪の御天冠をかむり十二単に緋の袴、右手には念珠、左手は開運の姿で、親鸞聖人夢告の救世菩薩の化身と考えられ、衆生に肉食妻帯の基本を示し、女人往生を示されたお方として古来より人々の信仰を集めた。
玉日姫の墓がある。墓石は樹木が化石したもの。承元3年(1209)9月18日、26歳で没したと伝わる
九条兼実公(久安5年~承元元年、1149~1207)
藤原忠通の三男で慈円和尚の兄。玉日姫のお父上。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれ、法然上人に帰依されました。
九相図(肉体の無常や万物流転を描いた仏教絵画)を保存する。この寺の九相図は江戸後期の作で5幅1組。女性のみを描いた一般的なものと異なり、男女とも登場するのが特徴。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0347 道澄寺 浄土宗西山深草派
五七五
香典を固辞だと聞いて参列し /寺田
ことわざ
鼬の道切り(いたちのみちきり)
類・鼬の道切りは物忘れの催促
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