何のための石でしょう 城の礎石か
淀城の由来
徳川二代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じたこの地は淀船経営者、河村与三右衛門の屋敷地で、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。伏見城の天守閣は二条城へ、二条城の天守閣は淀城へ移築されたらしい。翌寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
寛永10年(1633)松平定綱が国替えにより永井尚政が城主となり、寛永14年から2年がかりで木津川付け替え工事を行い、淀と納所の間の間の宇治川には「淀小橋」を架け、また淀と美豆村との間の木津川には「淀大橋」が架けられた。その後、寛文10年(1670)石川定之、宝永8年(1711)松平光煕、松平乗邑と替わり、享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏10万2千石の居城であった。
鳥羽・伏見の戦いのとき、鳥羽街道(大阪街道)や伏見から敗走してきた幕府軍の兵士が、やっとの思いで淀までたどりつき、淀城に入ろうとしたが城門は閉ざされていた。淀藩が幕府軍の入城を拒否したのである。敗残の兵士はやむなく大阪城まで行かねばならなかった。そして慶長4年(1868)1月5日、薩長軍が淀まで進出すると、今度は城門は開かれ、薩長軍を迎え入れたのである。このとき淀藩は幕府を見限っていた。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし『淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると』のうたで名高い水車は直径8メートルもあり城の西南と北の二ヵ所に取付けられていた。淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を移した「聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦6年(1756)の雷火で炎上いる以前の雄姿を偲ばせるものである
なお秀吉が天正16年(1588)淀城を修築し、ここに愛妾淀君を囲ったことから、淀の地名は有名になった。淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約500メートルの納所にあったと推定されている。
京都市
山城の国 淀藩主 永井尚政の指示で家老 佐川田喜六らに水車を作らせ宇治川より城内に水を引きいれるようにした。仲間として「石川丈山」「松花堂昭乗」「小堀遠州」「本阿弥光悦」などがいた。佐川田喜六は一休和尚を慕い晩年は一休寺のそばに庵を結び生涯を終えたそうだ
はすの花の名前 「淀姫」
1995年全国はすの会で淀姫と命名されました。約260年前よりこの地にあるとのことです。明治18年頃にこの堀に植えられました。淀観光協会
淀城趾 松昔嵐(しょうせきらん) 「松の木の名前」
昭和38年12月18日 棟方志功がこの地を訪れ松の名前を付け 松画に残す
淀城に徳川家よりあずかりの品
国宝 曜変天目茶碗(南宋時代)
高架は 京阪電車
城内を見下ろす
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五七五
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ことわざ
舟に刻みて剣を求む
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