
開花様式(洋風・擬洋風)の小学校校舎
明治前期において、文明開化の象徴のひとつであった近代小学校の校舎は、長野県松本市の旧開智小学校に代表されるように、洋風建築の建物を競って建てた事例が他府県では目立つが、番組小学校を創立した京都では数が少なかったと思われる。
明治期に、洋風または擬洋風の校舎であったことが確認されているのは、番組小学校64校の内、柳池小学校校舎[明治6年(1873)築]、同校講堂[明治11年(1878)築]、龍池小学校講堂[明治9年(1876)築]、銅駝小学校校舎[明治11年(1878)築]、貞教小学校講堂[明治11年(1878)築]、梅逕小学校講堂[明治12年(1879)築]の5校だけであり、その校舎はいずれも現存していない。当博物館に移築した旧成徳小学校玄関車寄せの意匠は、京都においてこれらが建つに至るまでの萌芽として位置づけられる。これはまた、京都の小学校において、一斉教授として洋風の教育方法が取り入れられた時期とも符合する。
元龍池小学校講堂

旧柳池小学校講堂

元貞教小学校講堂

旧梅逕小学校講堂


近代京都の木造校舎
明治期の小学校校舎は、組内で寄付を募り、地域ごとに競って建てた地域のシンボルであり、由緒ある寺院や宮家の旧宅を移築して校舎にした例も多い。就学率の上昇や、教育環境整備のために、地域住民の力で校地を広げ、校舎を何度も改築したために、明治初期の校舎は残っていない。新校舎への建替えの財源の一部として旧校舎が売却され、京都市内はもとより、遠方に運ばれて寺院の建物として現存している例もある。当館の玄関に移築された旧成徳小学校玄関車寄せも、平成18年(2006)11月まで京都府城陽市にある顕照山高岳寺の本堂向拝として使われていた。

旧成徳小学校鬼瓦
下京第9番組小学校として開校した成徳小学校の、白楽天町へ移転時に建築された講堂屋根の瓦。
明治8年(1875)の小学校移転工事中、小学校の校名を「楽天」としていたにもかかわらず、翌9年1月の遷校式に出席した槇村正直によって、新たに「成徳」と命名されたために、この名は短期間しか使われなかった。鬼瓦は、明治42年に講堂を購入し移築した高岳寺(城陽市)の本堂の屋根に平成18年(2006)11月まで葺かれていた。

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