アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き下0052  御弓師

2016年05月28日 06時37分21秒 | まち歩き

 

 

御弓師  柴田 勘十郎  さん

 

 

蔵の屋根にまで届く梯子

 

 

材料の竹でしょうか

 

前回の まち歩き 記事 ➔ まち歩き下0051  猫スペース

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まち歩き下0051  猫スペース

2016年05月27日 06時30分45秒 | まち歩き

 

癒しの猫スペース

癒しの猫スペース

ねこうあん

いらっしゃいませ ひとなつこい ねこちゃんたちと 

楽しい時間を お過ごしください

♡ ねことのんびり1時間 500えん

♡ 延長 10分につき  100えん


休憩中の 猫かな 

 

 前回の 町歩き記事 ➔ まち歩き下0050  めずらしい 間口の大きい家

 

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まち歩き下0050  めずらしい 間口の大きい家

2016年05月27日 06時09分43秒 | まち歩き

間口の小さい家が多いけど ここは間口が大きい


まち歩き 前回の記事 ➔ まち歩き下0049  散髪屋さんの小さなネオン  

 

 

 

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寺院下0063  明王院不動寺  真言宗東寺派

2016年05月27日 06時06分42秒 | 寺院

 

 

 

 

明王院不動寺

青蓮山と号し、真言宗東寺派の寺で、俗に「松原不動」という

持統天皇5年(691)に、道観大徳が開基した法相宗の寺であったが、のち弘法大師が自作の「石仏不動明王」を安置してから現宗に改まったといわれている。平安京造営の時に、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北の4つの磐座(石蔵)に経巻を収めたが、明王院はその四岩倉の1つで「南岩倉」と称したと伝えられている。

天暦年間(947~957)、賀茂川氾濫に遭い、堂舎はことごとく流没し、一時比叡山の苔筵法師によって再興されたこともあったが、応仁の乱で荒廃し、石像も塵芥の中に埋もれてしまった。

天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉は聚楽第の造営に際し、多くの石をかり集めた。ここから苔むした本尊不動明王を得て、聚楽第に収めたところ、夜な夜な不思議な光を放ったので、霊験を感じ、旧地に堂舎を建立し、これを再び奉安したという。  京都市

 

 

 

中の地蔵尊

 

昔の 駒札

南岩倉

 

 

 

 

 

 

 

前回の 寺院 記事 ➡ 寺院下0062  大念寺  真宗大谷派

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まち歩き下0049  散髪屋さんの小さなネオン

2016年05月26日 06時37分51秒 | まち歩き

 

ネオンが小さ目  道幅が狭いため 大きなネオンが出せないのでしょう

前回の まち歩きの記事 ➡  まち歩き下0048  角石  縦穴と彩色  

 

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右書き看板下104  店商野松 具佛壇佛 店仕舞いされた

2016年05月26日 06時36分01秒 | 右書き看板

 

 

松野仏具店

ご挨拶

謹啓 皆様には 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます

 永年に亘りお引き立てを頂いて参りました私共松野仏具店は 本年末をもちまして廃業致すこととなりました

これまでのご愛顧に心より御礼申し上げます

引き続き 宜しくご厚誼賜りますようお願い申し上げます

皆様の今後益々のご健勝ご発展をお祈り申し上げます

略儀ながら取り急ぎご挨拶申し上げます

謹白

平成25年12月 

松野仏具店 店主 代

松野 吉孝

 

 

前回の 右書き看板  ➡  右書き看板103  商器銅  店商村西

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下京区・上京区  麸屋町通  仁丹  5月25日追加

2016年05月26日 06時33分55秒 | 仁丹看板通り別

          萬壽寺上ル  上鱗形町

4月20日   綾小路下ル   塩屋町 

 

5月25日  松原下ル    石不動町 

上京区 押小路通 上ル 尾張町

関連記事 ➡ 仁丹 町名ホーロー看板  

 


まち歩き下0045  松原通   もらい祭  内容追加 

2016年05月25日 06時20分49秒 | まち歩き

 

 

松原通の歴史

「松原通」は「平安京」造営のときは道幅24メートルの「五条大路」でした。「牛若丸と弁慶」でおなじみの五条大橋は今の「松原橋」となります。「清水寺参詣の人々は五条の石橋を渡っていく」とありますから、当時から賑やかな場所だったようです。鴨川の中州には「大黒堂」があったらしく、橋も今のような立派な一本の橋ではなく広い河原の中州から中州へ飛び飛びに掛かっていたようです。橋を渡って東へ行くと鳥野辺(葬送の地)入口には珍皇寺があります。そしてそして彼方には清水寺。平安末期には六波羅一帯は平家一門の住まいとなります。我々が思い浮かべる立派な「五条大橋」は室町期以降のもののようです。秀吉が京都大改造をする以前の鴨川に掛かる大きな橋は五条橋だけだったようです。

京都の三大祭り(時代祭が始まる以前は「葵祭」、「祇園祭」「稲荷祭」)の2つまでがなぜ松原通を通っていたのでしょうか      平安時代中期、祇園社と稲荷社との氏子区域が曖昧で五条大路(松原通)をはさんで両社の争いが絶えませんでした。それほどに五条大路は大切な道路であったようです。この争いは深刻な問題となり時の天皇の決裁を仰ぐこととなり綸旨(りんじ 天皇の言葉)で両社の境界が定められたそうです。今も松原通に面する町内では北側が祇園祭、南側が稲荷祭の氏子です。昭和30年頃までは、松原通の方々は両方の祭を楽しまれました。これをお互いに「もらい祭」と呼んでいました。

 

 

前回の まち歩き 記事  ➡  まち歩き下0044  炭屋さん

 


まち歩き下0048  角石  縦穴と彩色

2016年05月24日 07時09分19秒 | まち歩き

 

  車の右左折時の接触防御のための石でしょう

縦穴があり  何に使っていた石でしょうか

前回のまち歩き 記事 ➡ まち歩き下0047  昔の電話番号が軒下に掲げてありました  

 

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右書き看板103  商器銅  店商村西

2016年05月24日 07時04分20秒 | 右書き看板

西村松寿堂

 

西村松寿堂

明治18年(1885)の創業、茶道で湯を沸かすために用いる風炉(ふろ)や茶釜、鉄瓶などの茶道具類、及び銅製の花瓶や吊燈籠などの工芸品を販売する老舗。店頭では、銅・鉄製品などの金属工芸品の取り扱いが主であり、店先には鉄風炉や鉄瓶などを展示する

 

 

前回の 右書き看板 記事 ➡  右書き看板下102  扇月花保秋   看板に謎の文字が  

 


まち歩き下0047  昔の電話番号が軒下に掲げてありました

2016年05月23日 06時40分00秒 | まち歩き

昔は貴重な電話  番号はこのように家の軒下に表札のように掲示されていました

話 〇  〇の文字はどんな字なんだろう

下 壱六六参番  と書かれています

 

 関連記事  ➡   まち歩き下0057

前回のまち歩き 記事  ➡  まち歩き下0046  地蔵尊 家と一体に 

 

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まち歩き下0046  地蔵尊 家と一体に

2016年05月23日 06時37分16秒 | まち歩き

 

 

関連記事  ➡ 地蔵中005 お地蔵さんは家の中に  

まち歩き 前回 記事 ➡  まち歩き下0045  松原通   もらい祭

 

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寺院下0062  大念寺  真宗大谷派

2016年05月22日 06時10分01秒 | 寺院

 

 

 

前回の 寺院記事 ➡  寺院下0061  長香寺  浄土宗  徳川8代将軍の実吉宗の母の実父の墓所 

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